2017/05/01

バートルビーズ :巽孝之 × 坂手洋二 × サミュエル・マリッサ(08/26/2015)

アフタートーク
バートルビーズ
〜ハーマン・メルヴィル「バートルビー」より〜
2015年 8月 26日(水)19:00の部@下北沢ザ・スズナリ

サミュエル・マリッサ × 巽孝之 × 坂手洋二



1.『白鯨』から「バートルビーズ」へ

坂手:まずは、本日ご登壇頂いたお二人をご紹介します。慶應義塾大学の巽孝之さんと、イエール大学大学院生のサミュエル・マリッサさんです。巽さんは、劇中で言及されていた、今年の第 10回国際メルヴィル会議(6月 25日(木)~ 29日(月)@慶應義塾大学三田キャンパス)に僕を呼んでくださいました。2日目の基調講演で、僕は、今日観ていただいた劇冒頭の事務局長のモノローグを日本語で読み、その際、壇上のバックスクリーンに英語訳を映したのですが、その英訳の作業をマリッサさんが行ってくれました。

:国際メルヴィル会議は、二年おきにアメリカ、ヨーロッパ、それ以外の各地で行われています。2010年頃に、北米のカンザス大学教授エリザベス・シュルツ先生から、2015年には日本で開催したいという話を頂きました。それを承けてわたしは、同年の燐光群の忘年会の席で坂手さんに、まだ決まってもいないのに、ひょっとすると日本で国際メルヴィル会議が開催されるかもしれませんとお話ししたんですね。とんだフライングだったわけです。坂手さんは『白鯨』が大好きだから、なんとなくそのイメージでお話ししたのですが、何と即座に「僕は、本当は「バートルビー」が好きで、シンプルな形でもやってみたい」というのがご返事だった。こういった過去五年にもわたる経緯があるので、きょうついに完成した形を見ると非常に感慨深いものがあります。とはいえ、この五年間に何度となく、坂手さんの構想は変わっていましたよね。去年くらいは人形劇でやると言っていたと思うのですが。

坂手:今回も、人形劇のパートを入れようかと思っていました。しかし、ちょっと馴染まない気もした。というのも、「バートルビー」には、「デッド・レター」(配達不能郵便)が出てくる。手紙自体が「モノ」としての生き物であり、また、どちらかというと死者に近いものとして出てくるので、人形とぶつかってしまうと思ったのです。

:今回の最大の収穫は、メルヴィルの原作小説「バートルビー」では最後に来る「デッド・レター」の再解釈でしょうね。実に自然に、3.11以後の世界とぴったり適合していた。そこで思い出されるのは、2001年暮れにここ(ザ・スズナリ)で、燐光群は『白鯨』を上演されたけれど、その稽古と前後するタイミングで、9.11同時多発テロが起きたのですよね。

坂手:直前くらいだったかな。『白鯨』はリアン・イングルスルードが演出をしました。

:あのときもトークショーに出させてもらったけれど、リアンはすぐに『ニューヨーク・タイムズ』紙が事件を『白鯨』に結びつけたセンセーショナルな記事を紹介してくれました。もともと 9.11において巨大旅客機が世界貿易センタービルに突っ込んだ時点で白鯨モビイ・ディックが捕鯨船ピークォド号に突っ込んだ光景を彷彿とさせたわけですが、その記事によると、そもそも世界貿易センタービルの跡地、すなわちグラウンド・ゼロの周辺は、『白鯨』の語り手イシュメイルが第一章で歩きまわっていたあたりだ、と言うんですね。たしかに『白鯨』第一章はニュー・ベッドフォードに到着する以前の段階で、イシュメイルがマンハッタンを舞台にほっつきまわっているところから始まるわけです。そして「バートルビー」も何しろ「ウォール街の物語」ですから、グラウンド・ゼロの目と鼻の先ですね。ところが今回、坂手さんは「バートルビーズ」を 3.11とみごとに連携させてみせた。燐光群の舞台では『白鯨』が 9.11とつながり、『バートルビーズ』が3.11とつながり、両者が応答し合っているのが、非常に面白い。

2.東日本大震災以後のメルヴィル

:今年の国際メルヴィル会議では、『バートルビーズ』を朗読する際には英訳という作業が必要となり、サミュエル・マリッサさんが担当されました。たしか坂手さんの原稿が入ったのはギリギリだったと聞いています。本番は 6月 26日(金曜日)だったのですが、原稿が仕上がったのが三日前でしたっけ?マリッサさんは実働 9時間で英訳され、しかもそれが大変すばらしい仕上がりで、感激したものです。マリッサさんは、イエール大学で日本文学だけでなくメルヴィル作品における、映画やマンガやアニメなどの翻案(アダプテーション)の歴史を研究なさっている。

マリッサ:色々なアダプテーションを研究していますが、とくに、日本における『白鯨』の受容と翻案が関心の対象です。坂手さんの『白鯨』については、巽先生の『「白鯨」アメリカン・スタディーズ』(みすず書房、2005年)を読んで知り興味を持ちました。日本に来たときには、「坂手さんの『白鯨』を見たいのですがビデオはありますか?」と巽先生に聞いたものです。

今回は『バートルビーズ』冒頭のモノローグを英訳させて頂きましたが、それは感動を伴うものでした。というのも、はじめて原作「バートルビー」を読んだとき、この作品の一番重要な点は、彼の “Vital feeling” のなさ、「無気力さ」、だと感じました。それはある意味で、ウォール街が象徴する資本主義への批判であり、他の角度から見れば、バートルビーは死そのものの象徴とも言える。彼の持つ執拗さが、死から逃げられないことを示している。しかし、今回の『バートルビーズ』については、事務局長のモノローグを訳し、劇を見てみると、バートルビーにあたる人物に窺えるのは、ただの無気力さではない。むしろ彼は「気力」を持っている。事務局長は、それにインスパイアされて心強くなる。「気力」と「無気力」の間には、非常に曖昧な境目があることに気付きました。

:単に「無気力さ」があるだけではない、と。今日の劇中では、スペイン作家エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(2000年)という本が批判されています。「楽しそうな題名の本だからチョー期待したのに、「書けなくなった作家列伝」でしょ」と。この本は、「バートルビー」を「作家が書けなくなる話」、すなわちスランプに陥る話であるかのように解釈しているのですが、それはちょっと違うでしょう。バートルビーは、全てを放棄する男のようにも見えるけれども、放棄しているようで抵抗している、というのがポイントです。全てを放棄することと抵抗することの曖昧さは、今日の演出でも、実によく出ていたと思います。

ここでメルヴィルと同じ 19世紀ロマン派で超越主義者ラルフ・ウォルドー・エマソンの弟子であり現代の自然文学(ネイチャー・ライティング)の始祖ともいわれるヘンリー・デイヴィッド・ソローを思い出してもいいかもしれません。この人は、同時代のメキシコ戦争に反対するあまり人頭税の支払いを拒否し、みずから牢屋に入る。師匠のエマソンが訪れた時には、「先生、なぜあなたも一緒に牢屋に入らないんですか?」と開き直る。これは市民的不服従という姿勢です。ウィスコンシン大学ミルウォーキー校教授の批評家グレゴリー・ジェイは、そこにこそバートルビーの肖像を見出しています。

坂手:牢屋に入れられた状態が、バートルビー的状態というのは、確かにそうかもれない。

:しかも自主的に入るんだから、安部公房風にいえばまさに「志願囚人」です。

坂手:やはり現代は消費社会であって、なおさら人の居場所が狭められている。普通に生きているのに、縛られている感覚がある。自由だと言われているのに、なぜ縛れられているのだろうか?と思うわけです。

:最近では、九州は福岡大学教授のメルヴィル学者・大島由起子さんが、バートルビーはネイティブ・アメリカンだ、という衝撃的な新解釈を提示しています(注・このトークショウの 2年後、同論考を含む大島由起子教授の初の単著『メルヴィル文学に潜む先住民−−復讐の連鎖か福音か』[彩流社、 2017年] が刊行された)。本作を精読すると、たしかに、強制移住を命じられたにもかかわらず敢えてそこに留まろうとするネイティブ・アメリカンの姿が重なって見えてくる。その場所を、絶対に離れられないし、離れるべきでもない。大島さんは「できればそうしたくないのですが」というニュアンスが含む南北戦争前夜の文化的深層を読み取っている。

坂手:そのネイティブ・アメリカンの解釈は面白いですね。メルヴィルは、それこそ世界をまたいで鯨を捕る旅をしたあと、アメリカに帰ってきて、今度は自分の住んでいる場所を見わたす。その上で、そうした実感を得たとすると、非常に興味深い。『白鯨』の中に出てくる様々な有色人種の存在とも繋がってくる。

:今日「バートルビーズ」を見ていて思ったのですが、『白鯨』のモチーフと「バートルビー」のモチーフは全く異なるにもかかわらず、なぜかどこかでオーヴァラップする感じがしました。

坂手:自分でも最近気付いたのですが、「バートルビー」を扱っているつもりなのに、だんだん後半になると『白鯨』になってくる。放射性廃棄物の入ったフレコンバッグが次第に捕鯨船に見えてくる。

:『白鯨』っぽい「バートルビー」というのは、たいへん面白い。

3.邦訳と英訳——それぞれの課題

:国際メルヴィル会議の時にも話題になったのだけれど、題名が複数形になっている所がポイントですよね。これは会議のとき、プログラムでの英語表記をどうするかで問題になりました。つまり、単に「バートルビー」という固有名詞の複数形であるならば、最後に “s” をつければよいのですが、しかし、これが「バートルビー的人間」ということになってくると、バートルビーが、固有名詞という水準を超えてしまっていることになる。しかし固有名詞が普通名詞になることは、ままあるわけです。たとえば、ホッチキス。我々は普通に普段「ホッチキス」と呼んでいますが、元々は人の名前です。病気の名前にもありますよね。「パセドー」や「アルツハイマー」など。劇の途中でバートルビーを伝染病みたいに捉えているところは、非常に面白かった。「バートルビー的病(やまい)」にかかっている人たち。固有名詞が普通名詞化しているならば、やはり最後の語尾は “ys” でなく、“ies” にすべき感じがして、この英語表記を提案させていただいた次第です。英語だと、“ladies” や “babies” のように。バートルビーは、決してキャラクター固有の問題ではなく、むしろ現代が抱えている普遍的な問題となる。ちなみに、メルヴィルはネーミングが基本的に奇妙ですよね。「エイハブ」や「イシュメイル」は、その悪しき聖書的ニュアンスを考え合わせれば、普通ならとうてい主要なキャラクターにつける名前ではない。「バートルビー」も調べると、キャラクターに付けられた先例がほとんどありません。『聖書』の中で、キリストの 12人の使徒の内に、「バルトロマイ」( Bartholomew)という人物がかろうじて見つかるくらいです。これについては中央大学名誉教授の武藤脩二先生も論文を書いている(注・武藤脩二『印象と効果−−アメリカ文学の水脈』[南雲堂、 2000年 ]参照)。

坂手:そのバルトロマイというのは、どういう人物なのですか?

:大変に忠実かつ敬虔な弟子でアルメニアにも布教するんですが、最後は、皮を剥がれて殉教してしまいます。とはいえ、彼の名前は 8月 24日を「サン・バルテルミの祝日」と呼ぶほどに残っていますし、一番有名なのは 16世紀にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した「サン・バルテルミの虐殺」でしょうか。ただその名前は、本当は「ナタナエル」( Nathanael)なので、キリストの弟子としてはバルトロマイとナタナエルは同一人物だとも言われている。そうだとすると、むしろメルヴィルの師匠のナサニエル・ホーソーン( Nathaniel Hawthorne)の名前を彷彿とさせますね。バートルビーという名前は色んな憶測を呼んでいて、長くカリフォルニア大学アーヴァイン校教授を務めた批評家ジョン・カーロス・ロウのように、「バートルビー」というのは一つのアナグラム(字謎、綴り換え)で、この名前 “Bartleby” の中には、聖書 “Bible” と芸術 “Art” が入っているんだと指摘する学者もいる( John Carlos Rose, Through the Custom-House: Nineteenth Century American Fiction and Modern Theory [Johns Hopkins UP, 1980])。ジャック・デリダ流に言えば、聖書がロゴスなら芸術はエクリチュールなので、バートルビーの中ではその両者の原理が鬩ぎあっているというわけですね。

マリッサ:『聖書』といえば、『白鯨』はアメリカの第二の聖書ですし、今日の舞台では、棒術の場面で、ときおり棒が十字架をつくっていましたね。ネーミングや言語の話となると、坂手さんに一つ質問があります。バートルビーの決まり文句は、“I would prefer not to” です。今日の劇では、これまでの様々な日本語訳が紹介されていました。英語の原作においては必ず一つですが、坂手さんの『バートルビーズ』では、二つのバリエーションがありました。一つ目は、最初の事務局長のモノローグの場面で「できればわたしそうしたくないのです」です。しかし、途中から二つ目として「できればそうしないほうがいいです」となる。なぜ二つに決めたのでしょうか?

坂手:これは二つに決めた、という感じさえないですね。日本人的な鵺のようなものだと思います。

マリッサ:英訳をするとき、日本語として二つあるから英訳でも二つにしようと思った。しかし、やはりうまくいかない。

坂手:そうすると「バートルビー」にならないですよね。

:英訳のほうがしにくい、と。英語の “I would prefer not to” に戻らなくなる。

4.21世紀の「バートルビー」

坂手:「バートルビー」の世界的な受容について教えてもらってもいいでしょうか?

マリッサ:僕は日本文学の専門家なので、世界的な受容は巽先生のほうが詳しいのですが、僕の経験上、高校の授業で「バートルビー」を読むことはまずありません。なので、個人的な興味がないと読むことはないですね。メルヴィルの作品だったら必ず『白鯨』の二カ所を読む。今ではそれも珍しいかもしれないですが。

坂手:『バートルビーと仲間たち』みたいなのが一般的な受容のかなあ。

:あれは J・D・サリンジャーなんかも出てきますからね。

坂手:あれはちょっと違いますよね。

:トマス・ピンチョンとかも出てきちゃいますが、ピンチョンは 1970年代から 80年代まで失速していたとはいえ、以後復活して、今なおバリバリ書いていますからね。だからあの本は「書けなくなった作家たち、書かなくなった作家たち」を扱うと言いながら、いま書いている作家たちも出てくるという矛盾がある。面白いエピソードもたくさん出てくるのですけれど、ね。

私が知っている中で、「バートルビー」はもう何度か映画化されていて、原作に忠実なものは 1850年代のマンハッタンを舞台にしていて、授業などで見せるには調度いい1時間半くらいの映像です。しかし、いまおすすめなのは、2001年に作られたジョナサン・パーカー監督、クリスピン・グローバーとデイヴィッド・パーマー主演の 83分ほどの映画「バートルビー」のほうですね。これは舞台が現代で、今日の坂手さんの『バートルビーズ』に近い。

坂手:どういった感じの作品なのですか?

:現代のハイテク公文書館に、バートルビーが入ってくる。入社面接のときに、「君の前歴はなんだね?」と聞かれ、「配達不能郵便やっていました」と答える。だから、原作では結末で明かされる配達不能郵便の話は、入社面接のときにもう出てきてしまう。バートルビーは代書人といえば聞こえがいいのですが、仕事の内容は時代からしてタイプライターひとつないわけですからけっきょく人間コピー機みたいなものでしょう。ところが、この作品は現代の設定なので、あらかじめコピー機もコンピュータもあるオフィスが舞台。原作の最後の場面となる刑務所(トゥーム)は出てこなくて、ホームレスのたまり場でバートルビーは亡くなります。現代のビジネス社会において、バートルビーみたいな人間はどのように現れるか、という問題が問われています。物語の骨格は原作通りで、バートルビーがやはり会社から出て行かないので、会社の者たちが引っ越さざるをえなくなるのです。

今日の『バートルビーズ』も、原作の骨格を忠実になぞっている一方で、現代日本の 3.11以後のストーリーが途中から自由自在に交わっていく、という点が面白かった。 南北戦争前夜のアメリカと 3.11以後の日本を対話させるわけですから、相当に工夫されたのではないですか?

坂手:劇中で描かれる新聞の切り抜きサービスというのは、1983年前後に実際に僕がやっていたもので、繋げられる気はしていました。今年の 1月には、福島県の立ち入り禁止地区に入りまして、実際に「事務長」とあだ名される人にも会ってきました。その意味において、本作はドキュメンタリー的にもなっている。実際に遺品が置かれている場所が、放射能の汚染地帯なので、遺品は放棄されているのが現状です。やっと作業が始まった地域がある、という感じ。

:その福島県の遺品回収の話と「配達不能郵便物局」(デッドレターオフィス)を重ねたところが、非常に素晴らしい。原作を読むと、バートルビーの実存的な世界で起きているドラマのように感じるのですが、今日の解釈が可能だとすると、「配達不能郵便」(デッド・レター)に向き合うバートルビーは、何かしらの口にしえないほどの「災厄」(ディザスター)を経験してしまったのだ、だから真相を語り得ないのだとも考えられる。そのディザスターは、自然災害でもいいし原発事故でもいいし戦争でもいいーー時代によってどう置き換えられてもかまわないのでしょう。

坂手:手紙が人に届けられるということについて言えば、現代はフェイスブックやラインが出てきたことで、情報の流通形態が変わってきたと感じています。個人の中に情報が閉じられる、ということがもうほとんど無い。現実に起きたことがドキュメンタリーとして提示されるということではなく、すでに現実とフィクションは往還している。「事務長」と呼ばれている方や、「原子力 明るい未来のエネルギー」という原発推進看板のキャッチコピーを考案して小学生の頃にそれが採用された大沼さんとも話して、これから細かい情報を一緒に共有していこうという話にもなっている。直観的ではあるのだけれど、人とメディアの質が変わってきたということを考えないと、見えてこないものがある。そのことをどうにかして言わなければならないという印象がありました。「そうしたくない」を徹底する者たちの物語、流されないで生きるという「選択」。それは消極的なようでいて、真摯に自己の存在を確かめるメッセージなのだと思います。



【関連リンク】


【関連書籍】
巽孝之『「白鯨」アメリカン・スタディーズ』(みすず書房、2005年)


エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』(新潮社、2000年)


大島由起子『メルヴィル文学に潜む先住民−−復讐の連鎖か福音か』(彩流社、 2017年)


武藤脩二『印象と効果−−アメリカ文学の水脈』(南雲堂、 2000年)


 John Carlos Rose, Through the Custom-House: Nineteenth Century American Fiction and Modern Theory (Johns Hopkins UP, 1980)

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