2010/04/01

Comic Apocalypse Now!:坂手洋二×巽孝之 (02/26/2004)


劇団燐光群「だるまさんがころんだ」トークショウ
2004年2月26日、於・下北沢ザ・スズナリ

1:地雷演劇への挑戦
坂手 ごらんになって、たぶん色々思いつかれたことがあるんじゃないかと思うんですが、ざっくばらんにお聞かせ下さい。

 ともあれ素晴らしかったとしか言いようがありませんね、この劇は。たとえば『天皇と接吻』や『白鯨』、『CVR』や『屋根裏』に至るまで、これまで観てきた坂手演劇の中でも、私が高く評価している要素を全部ぶち込んでいる。非常にエピソードが多くて巧妙なモザイクを形づくっているし、そのいずれもが現代社会の何らかの側面へ鋭く斬り込んでいるので、たぶんこの劇を観た方はどなたでも、ご自身の実体験に即して、どのようなかたちででも感動すると思うんですね。じっさいそういう仕掛けになってるわけですから、みなさん多分いま余韻にひたっているところでしょう。ですから私の感想は会場のみなさんすべての代表というよりは、単に多くの感想のひとつに過ぎないんですけれども、にもかかわらずこれが傑作だという点では、みなさんとまちがいなく意見の一致を見ると思います。
今回は地雷演劇への挑戦という、一見物騒な印象を受けると思いますが、じつはわたしが真っ先に思い出したのは、以前、2001年の暮れに燐光群版『白鯨』をめぐって、坂手さんと演出家のアメリカ人劇作家リアン・イングルスルードとで鼎談をやって、同時多発テロ直後ということもあり、いろいろ語り合ったときのことです。あとになって、坂手さんのエッセイを読んで知ったんだけれども、日本はアメリカとはちがい、いまも実際に捕鯨を続けていて鯨肉なんかも食べさせる国ですから、捕鯨業を営む町へリアンを連れてったんですって?

坂手 そうですね。宮城県の鮎川という牡鹿半島の港に行きまして、じっさいに鯨の解体を見てきたんですね。

 『白鯨』の場合、たしかに19世紀作家ハーマン・メルヴィルの原作小説をリアンが演出したものなんだけど、それをあえて21世紀の日本で制作するにあたって、たぶん坂手さんとの対話の成果なんでしょう、劇場空間に日本を刷り込むもくろみが見え隠れしたのが、たいへんおもしろかったんですよ。日本的なものを刷り込んだうえで、『白鯨』を日本側から環太平洋的にアメリカ側へ、21世紀から19世紀へ打ち返すみたいな感触がすばらしかった。しかもあの9・11同時多発テロが起こったのを承けた『白鯨』だったから、ますます興味深い。

坂手 あの事件を意識せざるをえませんでしたからね。

 9・11直後の燐光群のパフォーマンスが燐光群の『白鯨』であり、あの物語というのはもちろん、鯨に片足を喰いちぎられたエイハブ船長が復讐のために白鯨を追い求める話であるわけなので、ブッシュ対ビン・ラディン、キリスト教対イスラームという因縁の構図にも、その図式がちょうどあてはまりやすかった。それから3年、今回の『だるまさんがころんだ』ではイラク戦争を背景にして、片足のエイハブを大量生産するかのように、地雷で手足を吹っ飛ばされた人々がたくさん登場する。とはいうものの、作品の一部になっている「セントラルパークの地雷」という作品は、もともと9・11の前に書かれたとか。

坂手 同時多発テロの2ヶ月ぐらい前、ちょうど2001年の7月にシンガポールで合宿をして、そのときに色んな劇作家が10人ぐらい集まって、ショートピースを出し合ったんですね。その中で僕は地雷についての作品を出したんですけど、不勉強なもんで、幕間狂言みたいなものしか書きませんって言って出したのがあれなんですね。

 今回の上演は当時のテクストそのままですか?

坂手 もうそのままです。トッケイの女が出てくるところから逆算してですね、村からニューヨークに行って帰ってくるというように繋がるような話にしました。トッケイってのはインドネシアのトカゲで、緑色のこのぐらいの大きさで、実際にあの「トッケー!」って本当に人の声みたいに喋るんですね。

 わたしは今回の上演でも強調されている時計仕掛けの爆弾にひっかけたネーミングだとばかり、思っていました(笑)。地雷を探知するどころか食べちゃうトカゲといわれたら、ディズニー映画の『ピーターバン』に登場する、時計を呑み込んだワニを連想する人もいるかもしれない。日本人一般は、トッケイはもう完全にトカゲが突然変異したゴジラ並みの怪獣じゃないかとイメージするはずですが、喋るトカゲは実在なんですね。

坂手 そう、面白いんですよ。要するにトカゲがいっぱいいましてね、あの地域の島々には。トカゲがいっぱいいたら地雷が近くにあることにしてみようかなあと、いろんな連想をめぐらせていったわけです。

 ところが、ひとたび9・11が起こったので中断してしまった。

坂手 『OCS NEWS』という僕が連載していたニューヨークの情報誌に、夏休みスペシャルみたいな感じで載せようかな、でももうちょっと後に出そうかなと思っていたら、あんな事件が起こっちゃった。最後に摩天楼を見上げて終わる展開なので、同時多発テロ以後では、これは上演しにくくなってしまって。

 警官のひとりが「木立の向こうに見えるのは摩天楼だ」とつぶやくのがラストシーンですからね。そういえば、ちょうどそのころ、新宿の南口の高島屋ビルをテロリストが爆破するスペクタクルを描こうとして、資料収集に血道をあげていた若手作家を知っているんですが、案の定、同時多発テロ以後には、作品執筆が中断してしまっている。


2:『白鯨』から『だるまさんがころんだ』まで
 あのころ蔓延したのは、同時多発テロ以後に新しい作品を書けるかどうかという言説よりも、あの事件をエドワード・サイードをはじめとする多くの知識人が『白鯨』にたとえて再評価してみせた言説です。マンハッタンの世界貿易センタービルに旅客機が衝突する場面では、エイハブ船長率いる捕鯨船ピークォド号に白鯨がぶつかっていくシーンを連想した知識人がたくさんいた。
たんに鯨を求める捕鯨小説がいまもなお愛読されているのはなぜかっていうと、19世紀までは世界は鯨油で成り立ってたわけですが、20世紀からは世界は石油で成り立つようになり、白鯨の象徴するものはゴジラに取って代わられるというパラダイム・シフトをくぐりぬけはしたものの、しかしメルヴィルの問題意識はいまも連綿と引き続いて有効である、少なくとも彼の捉えた19世紀は20世紀と完全に類推可能である、というパースペクティヴが根強いからですね。
今日の劇を拝見して思い出したのは、60年代初頭のジョン・F・ケネディ政権下で、核兵器で他国を滅ぼすだけじゃなくて、一回ボタンを押したら全世界が瞬時にして報復攻撃に次ぐ報復攻撃で崩壊しちゃうキューバ危機が迫っていたときのことです。すでに坂手さんは「非戦を選ぶ演劇人の会」を中心にイラク戦争や自衛隊派遣に対してさまざまな政治的なアピールをしておられるけれども、文学者がどういうふうにそれに対して取り組むか、ないしは直接プロパガンダを声明しなくても、どういう物語が可能かということを考えたときに、60年代だと一言で言うとブラック・ユーモアの手法が好まれたわけで、結論からいうと『だるまさんがころんだ』は、なぜかそのころのアメリカ文学の精神にいちばん近い。坂手さんは1962年生まれだから、これは奇遇とは思えない。
たとえばともに1963年に発表されることになるカート・ヴォネガットの長編小説『猫のゆりかご』や、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』などには、核戦争や人類絶滅の危機を見据えながら、そうした事態そのものを揶揄して笑い飛ばすブラック・ユーモアがあふれている。げんに1963年の11月には、そうした不穏な空気を覆い隠してきたケネディ自身が暗殺されて、パクス・アメリカーナには一気に暗雲が垂れ込め、反体制運動に拍車をかけていく。こうしたアメリカ崩壊の動きは以後10年ほどの期間をかけて、ベトナム敗戦とニクソンのウォーターゲート事件で決定的になるんですが、折も折、1973年にはメタフィクションの巨匠トマス・ピンチョンが『重力の虹』という長篇を発表する。これはロケットの論理を世界律にして進行していく物語で、この場合のロケットはV2ロケット、すなわちナチスドイツの開発したミサイルなんですね。しかも、ミサイルが発射されると実験心理学的に反応するよう肉体に性的仕掛けを施されたレーダー人間のスロースロップが登場する。何しろミサイルが発射されると勃起してセックスがしたくなるわけですから、この青年のあとを追っていくとミサイルの落ちてくる場所がわかる、というとんでもない話なんです。ずばり軍事目的に人間の肉体が利用されている。このレーダー人間スロースロップの設定は、トッケイの設定にすごく似てるんですよ。トッケイも本来トカゲで、地雷発見目的であまりにも火薬を嗅がされてしまったがために突然変異を遂げますが、けっきょくあれは地雷を食べて巨大化しちゃうんですか?

坂手 食べて大きくなるんですかね(笑)。実際に昆虫に火薬入りのドリンクを飲ませてみるという研究がなされていて、それはかなり使えそうだと。無茶苦茶ですか?(笑)

 無茶苦茶でも、おもしろかったな。『白鯨』のときと同じでね、実際にはトッケイは登場しないんだけれども、役者さんが恐怖におののいている演技によって、本当に巨大な緑の化け物がいるかのような臨場感が漂う。このときの燐光群全体の演技力が凄い。
だから、『白鯨』で片足のないエイハブ船長があくまで鯨の中に世界の真理を求めていくのと、『だるまさんがころんだ』で片足をなくした人々が地雷を世界の中心に据えざるをえないのとは、パラレルを成していると思うんです。今回は複雑に色んなエピソードが絡み合っているんだけれど最後に圧倒的な完結感がもたらす秘密は、大学の地雷研究会に属して、地雷撤去のヴォランティアにいそしむ、宮島千栄演じるところの女子大生が、あまりにも生き生きと描かれているからですね。出てくるたびごとに生身の手足がどんどんなくなって義体化し、最後には脳も部分しか残っていないサイボーグになっちゃう。公開間近の押井守さんによる『イノセンス』も完全にダナ・ハラウェイ流のサイボーグ・フェミニズムを投入した話になってて、それは士郎正宗の原作である『攻殻機動隊』には登場しないハラウェイなるサイボーグ女性検死官が創作されていることからも一目瞭然です。したがって、もちろんそういう思想面から考えても面白いんですけれども、エイハブ船長が鯨を相手に、たんに片足をもがれたにとどまらない本質的なトラウマを解決しようとしていたように、あのサイボーグ女子大生も地雷を相手に、自らの内なるトラウマへ落とし前をつけようとしているとも解釈できる。メルヴィルの描いた鯨もピンチョンの描いたミサイルも人間に向かって襲いかかるわけですけれど、地雷はあらかじめ埋め込まれて人々を待ち受け、しかもそれが幻のごとく世界のあちこちにすがたを現す。しかも坂手さんは、そもそも地雷が非常に日本的な軍事手段であるということまでプログラムにお書きになっていて啓発的だったんですけど、あれは独自のお考えなんですか?

坂手 あれは90年代まで言われていたことですね。地雷は防衛のためにあるもので、こちらから攻めていくものではないという言い方で、日本側が言ってただけで全然そういう意味ではないんですね。鯨の場合は非常に大きい存在で、特定性があって、時代を超えて、鯨っていうのは長生きもしますけれども、地球上の海を抹香鯨が巡回してますから、ある種の永遠性であったり果てしないものがあったり、アナログの一番親分みたいなもんですよね。地雷ってのは存在しはするんだけれど機能したら無くなってしまう、これこそ本当にデジタルの極みみたいなもので、しかも名前が無い無名性であり、個性を喪失していること自体が目的となっている。鯨に比べると裏返しな感じが確かにしますね。


3:魂の労働者たち
 もうひとつおもしろかったのは、19歳の女性作家が「無言の人」という小説でデビューしますけれど、これは地雷作りのお父さんを主人公にした、半分彼女の妄想が入ったエピソードですね。この娘が亡くなったあとには、このエピソードはお母さんの妄想も少し入ったかたちで発展していく。ここでは、お父さんの娘への愛と地雷への愛とが不即不離になっていくところが、絶妙の展開でした。坂手さん自身の政治的立場としては、もちろん旧作でいうところの反戦自衛官なるモチーフが肝心だとは思うんですけれども、一方で戦争とか地雷とかを否定するばかりでなく、まったく逆にいったん肯定する立場に立ってみる、ないしは肯定せざるを得ない立場の人を描いているという弁証法的手続きそのものに、現代でないと表現できないブラック・ユーモアを感じたのです。 
これはご来場のみなさんも感じられたと思うんですけれども、かなりシリアスな主題にもかかわらず、この劇にはゲラゲラ笑うところが沢山ある、しかもそれはさわやかなまでに黒い笑いを醸し出す。坂手さんなりの駄洒落みたいな所も結構面白くて、地雷つまりランド・マインland mineを売ってる連中が「まいんどありい」って日本語と英語双方にまたがる駄洒落をぶっ放す(笑)。しかも地雷売りの亡霊たちは地雷と同時に義足も売ってる。地雷販売と地雷撤去、戦争商売と医療制度が裏腹になってる。

坂手 実際、アメリカなどは地雷を作りながら、地雷撤去自体を産業にしている。やはり非常に矛盾しているのは、埋められる場所自体商業化の対象とされてる。結局その労働の問題なんですよね。無言の人であるお父さんにしても、労働自体に対して何かロマンというか夢がないと奪い返せないものがあって、非常に難しい。戦後復興のどん底からの成長、国策産業、どんな労働でも何か価値に結びついてるってのがあるんですけれども、今はやはり低成長あるいは不況の中で労働っていうものに対して何だか価値が非常に見出しにくくなってる気がするんです。この影響はボディーブローみたいに効いてくるんじゃないかなあ。地雷を日本でも作ってたりしたというのは本当なので、そこからあの無言のお父さんの家庭を描こうとは思ったわけですけれど、われながら、こんなにおかしなシーンになるとは予想もしませんでした。(笑)

 お母さんやお姉さんが「お父さんは職人だから」と言う言葉には、坂手さんが労働って言うものにオマージュをこめているのが伝わってきました。けっきょく地雷撤去と地雷製造が同じ水準で語られるなら、双方ともに職人芸ならぬ職人の心を必要とする労働の問題、最近の表現を使えば「魂の労働」の問題なんじゃないでしょうか。お父さんはあのエピソードに関する限りはずーっと無言の人で何考えているかわかんないわけですけど、でもあれを演じている鴨川てんしさんは、「セントラルパークの地雷」のエピソードではサングラスのかけた男として非常に饒舌な役も兼ねておられるわけですよね。そうした配役上の演出も、すごくおもしろかったな。
ところで例の19歳の女性作家は、お父さんのことを小説化したあとに亡くなってしまいますが──

坂手 あれは通り魔に刺されるんです。

 そう、そうして娘を亡くして、無言の人である父親は、お母さんの妄想の中では、饒舌な人に変身する。饒舌になった裏にはもちろん殺人者への義憤もあるんですけれども、ところが奇妙なことに地雷への愛情も同時に沸いちゃう、というか改めて自覚するんですね。『だるまさんがころんだ』にはさまざまな見せ場がありますけど、中でも、娘の代わりのように地雷を抱きしめるところにわたしは非常に感動したものです。
ところで、通り魔は心神喪失で無罪、判決のさいには、娘が死んだのは「地雷を踏んだようなものだ」というくだりがありますけれど、ここはたいへん重要なフレーズではないでしょうか。

坂手 そうですね、通り魔というか無差別対象の犯罪というのは、ただ運が悪かったね、と片づけられるばっかりでしょう。これって、変だと思うんですよ、非常に違和感があったんです。地雷というのはある軍事目的で作為をもって埋めたものですから、むしろ無差別の殺人兵器といってしまうのはおかしいんですが。


4:ブラック・ユーモアの言語
 「地雷を踏んだようなものだ」とか「地雷踏んじゃったようなものだ」といった表現とは似て非なるかたちで「地雷踏んじゃったね」とも言いますよね。さっきのピンチョンの場合のように、ミサイルの場合はメタファーになると「爆弾落とす」とか「誤爆する」と言われる。怒りをぶつけたり他人を叱ったりするのが「爆弾落とす」で、自分がトンチンカンな方向に攻めちゃったってときに、「誤爆した」という。いっぽう地雷のほうはずばり「地雷踏んじゃった」とか「自爆した」とかいう表現になるのかな。こういう日本語が普及するようになったのは湾岸戦争のころからでしょうか、ここ10年前後なのか。

坂手 もっと前からではないんですかね。

 これをお尋ねしたいのは、たとえばさっきの通り魔殺人みたいな事件は、「地雷を踏んだようなものだ」とも「交通事故に遭ったようなものだ」とも表現するからなんですが。

坂手 偶然だったり、人がいるならば誰でもよかったとか。それが池袋なんかでもチャラチャラした女がいるからとか。

 でも我々が日常的に「地雷踏んじゃったね」というときには、むしろ人が触れて欲しくないところに踏み込んじゃったとか、トラウマに触れてしまったとかいうニュアンスが強いんじゃないのかな、と思うんです。そしてここが大切なんですが、まさしくトラウマというのは、地雷のごとく、ふだんは息をひそめていて、ひとたびふれると爆発する装置でしょう。

坂手 他の国でも多分あるとは思うんですけれど、日本というかアジアだと仏教的なんですね。これは運命なんだ、と。運命なんだから受け入れろと。根本的な響きがそういうのにあるのかもしれません。

 地雷があらかじめ埋められてるってことは、運命を統御するものによって埋められてるのを踏んでしまったということにもなるのかな。

坂手 それがアメリカだと道を歩いていて肩がぶつかると「アイム・ソーリー」って必ずみんな言うように、他人は何をするかわからない、怖いもんだというような発想があるから、地面もやっぱり危ないかもしれないという意識は自然に生まれてくるんじゃないかな。そういう意味では、信号なんかでも危なくないと思ったら、無視して歩いてもいいんだと。日本だとクルマ通ってなくても信号待ってる人って、たまにいますよね。そのへんが一種の運命論みたいなものの反映で、やっぱり仏教的なんだと思うんですけどね。これは地雷に苦しんでる人たちが「諦める」という思想にも結びついている。


5:多様化する主格
 もうひとつ、今回はチャールトン・ヘストンが会長をつとめていた全米ライフル協会(NRA)が家庭用地雷を通信販売しているという、ブラック・ユーモアの極地ともいえるフィクションが入ってますが、これはやはりマイケル・ムーアがアカデミー賞を受賞したドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』の影響があるのかと、みなさん思ったんじゃないかな。

坂手 あれはね、じつは全然ないんですよ。NRAのライフル協会のやつが家庭用地雷売ってるっていうネタは、もう2001年の段階で既に書いてたんですね。マイケル・ムーアさんがチャールトン・ヘストンの家に乗り込んでインタビューしているあの映画は、最近やっと見たんですけど。あんまりびっくりしませんでしたねえ。というのは、あれを毎週毎週番組で作ってたというバイタリティはたしかに面白いなあと思うんですが、でもやっぱ現実のほうが面白いですよね。戯曲の教室で「銀行口座作ったらライフルもらえる」なんて設定を書いたとしたらたぶん講師に全く否定されて、「そんなこと有り得ない」と言われてしまうんでしょうけど。現実のほうがかなりおかしいんですよね。

 まあマイケル・ムーア自体にも、かなりのウソは入ってますし。
わたしが印象深かったのは、家庭用の地雷と聞くと、たとえばアメリカのサイバーパンク作家マーク・レイドローが1985年に発表した『パパの原発』や、我らが篠田節子さんが1997年に発表した『斎藤家の核弾頭』の路線につながるということです。独立法人化が行くところまで行けば、国家的軍事兵器も私有化されるかもしれない。だとしたら、川中健太郎さん演じるところのヤクザの組長による地雷装備は、夢物語ではないかもしれない。

坂手 長谷川和彦監督が1979年に制作した『太陽を盗んだ男』とかも、当然入ってくる系譜ですね。

 筒井康隆さんの傑作短篇で直木賞候補にもなった「アフリカの爆弾」(1968年)などは、その走りでしょうか。大藪春彦も同趣向のハードボイルドを書いてたりしますね。そういえば、坂手さんは筒井さんとか星さんの短編をいっぱいお読みになってたと漏れ聞いたんですけど。

坂手 昔はね、岡山の中学時代、当時の同級生でいまは燐光群の照明をやってくれてる竹林功さんと一緒に、学校の帰りにちっちゃな本屋に寄っては、筒井康隆とか星新一とかのショート・ショートをいっぱい読んでいましたよ。

 『屋根裏』のときも感じたんですが、ショート・ショートをうまく演劇的エピソードに組み替えて集積していく手法を確立していますよね。これがたとえば『ブラインド・タッチ』であるとか、『阿部定と睦夫』であるとかいった、かなりシリアスで骨太なストーリーになってくると、まったく異なる、むしろテーマを掘り下げるタイプの作劇法が選び取られているので、ぜんぜん印象が違う。無数のエピソードが絡み合わせて大きな全体像を作りあげるこの手法は、いってみればジグソーパズル風ですが、最初にいくつかの組み合わせを実験してみるのでしょうか? その結果、うまくいった組み合わせを残すのかな。

坂手 どこかに繋ぎは作ってあるんですけれどね。『屋根裏』と同じことで、ピースごとに俳優に渡していって、順番バラバラなままで稽古して、順番は本番の何日か前に発表するとか。(笑)

 まるで映画の撮り方みたいだ。

坂手 いやあ自分ではわからないですけど。セパレートされたピースごとの世界が等価であると、みんなが思ってるということが稽古場では大事なことなんですね。ストーリーに奉仕するためのシーンではなくて、それぞれが独立している。そういう風に世界が多面性を持っていて、主格にみえるものだけが主格じゃないんだというようなことを、試行錯誤しながら追求してきました。こうした視点というのが、結構大事なのかもしれないなあと思っているんですね。ただ筋書きとして繋がっている物語というのではなくて、物語に関わる者たちの主格というものの多様性というか、多数性。それを強調することで、物語というものの弱まっている力を補填できるんじゃないか。

 ひとりの役者がエピソードごとに別の役をこなして、エピソードのピースごとに全く違う人格になっていくのも、今回はいつになく強烈に演出されてた気がするんですが。

坂手 地雷原をさまよってるはずなのに、皇居に行って地雷撤去の説明をしたりしますよね。同じ人なのかどうかっていうのをどこまで考えるかっていうのが、非常に面白いんですよね。これが同じだと思って整合性を考えていっちゃうのもつまらない。整合性を軸に据えると、何かと何かが繋がってるということを強調する。普通ドラマってそうなんですけど、作る方も演じるほうも、基本的に繋がってこうなるんだっていう常識がある。だけどほんとうは、同じ人間でも例えば三日前と違う人かもしれないという発想が必要なんじゃないかなあ。アナザー・ワールド、あるいはパラレル・ワールドだというふうに考えてもいい。人間の意識のありかたとしたら、通常はそのほうが自然なんですけどね
もっとも80年代の小劇場には、時空が飛んだり飛躍したりそういう演劇作品がいっぱいひしめいていました。SF的な手法が使われましたけど、しかしそれが手法で終わっちゃうんですね。どうしてそういうことが必要なのか、それをじっくり押し進めていくと、もうちょっと過激なことができるはずなんですけどね、ならなかったんですね。
しかし恐かったですね、『屋根裏』でも今回でも同じような手法でやって、外れると非常にみっともないことになるなと思ってましたから。(笑)


6:戦後の日本、現在のアメリカ
 でも『屋根裏』だけじゃなくて『CVR』の衝撃も甦ってきましたよ。それから、やはりどうしても坂手さんというと『天皇と接吻』じゃないけど、天皇ネタが出てこないといけない。皇居にね(笑)、地雷を仕掛けるという展開がありますね。

坂手 あれでこう脱力した皇居ネタにしたんですね。

 でも『だるまさんがころんだ』は、平成15年度文化庁芸術団体重点支援事業の一環として、いちおう国から助成金をもらってる演劇なんでしょう。(笑) それがパンフレットに明記されているのが、いちばん面白かったんですけど。

坂手 日本はね、表現の自由が保証されているということで、もう反体制的な表現はなめられてるんでしょうね。『天皇と接吻』のときも何も来なかったですし。

 抗議は出なかったわけですか。そういえば、一昨年2002年の『屋根裏』初演のときも小泉首相ネタが出てきて、あたかも日本全体の引きこもりを象徴するかのように描かれ、その後同作品はずいぶん再演をしてNHKでも放映されたわけですが、今回にも小泉首相ネタが出てきますね、「無言の人」を真似るというかたちで。双方ともに有効なギャグになっているから問題はないんですが、かえって、いかに長い政権かと実感してしまったものです。2001年に当選して、もう3年目でしょう。
以前は、毎年のように首相が使い捨てられていた時期もありますから、隔世の観がありますね。

坂手 「小泉が切れた、日本は鎖国した」っていうのが『屋根裏』のネタなんですが、同じ小泉ネタで三月まで保つかなあとか心配したんですよ。

 坂手演劇は時事ネタがいっぱい入ったりしますが、仮にそれがそのまま残ったとしても、普遍的なテーマを扱っていると思います。
たとえば、さきほど指摘した「家族」のエピソードでお父さんが「地雷も、私の子だ」と呟くところも感動的でしたが、もうひとつ、「義足の女」のエピソードで主演する地雷研究会のサイボーグ女子学生が、かつて「だるまさんがころんだ」をやりたかったけれどもできなかった、しかし徹底して義体化してしまった今の姿ならばできるという、喜びに打ち震えた表情で劇全体のラストシーンを彩る、あの時間も空間も静止したかたちには戦慄を覚えたものです。

坂手 地雷の側から見てみると、さあ、あててやるぞ。俺に当たると爆発するぞっていうことになるわけですから、あれは「だるまさんがころんだ」なんですね。地雷が鬼で、「いま当たったろ」ってボンっていくわけで。話が『白鯨』に戻りますが、やはりアメリカなんですね。日本について考えるときに、もうアメリカについて考えざるをえないんですね。『白鯨』はアメリカについての物語であり、今回も地雷ってことでアメリカについての物語で。

 さいごに坂手さんのエッセイ集『私たちはこうした二十世紀を越えた』(新宿書房、2003年)のことをお聞きしたいんですが、あの中には今回の新作にもつながるエッセイ「『地雷』への想像力」とともに、梁石日さんの『夜を賭けて』を舞台化する構想があったと書かれていたのが興味深かったんですね。戦後の大阪に出現した鉄屑泥棒のアパッチ族の反骨精神と坂手演劇のめざすものとは、たしかに通じるものがありますから。

坂手 あれは新宿梁山泊の金守珍さんに脚本書けって言われたんだけど、書こうかなって思ってたら、プロデューサー側に紹介があって、ベテランライターの丸山昇一さんが書かれるっていうんで、もう専門家にまかせて退いたわけです。あれは『東京アパッチ族』という、私が梁山泊に書きおろした芝居が、同じ『夜を賭けて』が原作なんですよ。

 『夜を賭けて』に連なる発想は、やはり開高健の『日本三文オペラ』(1959年)から始まっていますが、これが小松左京の『日本アパッチ族』(1964年)になると、同じ戦後の屑鉄泥棒の一味から始まりながらも、いつしかスクラップを食べて身体を変質させ人類ならざるものへ超進化を遂げる食鉄人種の革命が展開する。このイメージが、今回の『だるまさんがころんだ』では、地雷職人であるお父さんのみならず、地雷を食べて突然変異を遂げるトッケイのすがたに重なって仕方がなかったんです。

坂手 そういう意味では、自分では全然気がついてなかったですね。


編集協力:富山寛之(慶應義塾大学巽ゼミ)
古元道広(劇団燐光群)

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劇団燐光群『白鯨』にも言及した巽孝之×リアン・イングルスリード氏の対談『白鯨を待ちながら』はこちら