劇団燐光群
『ALL UNDER THE WORLD—地球は沈没した』
トークショー
2012年 3月 20日
巽孝之×坂手洋二
1:9.11から3.11のゼロ年代
坂手:巽さんには90年代後半からいろいろ見ていただいています。2001年には、リアン・イングルスルードさんと「白鯨」をやりました。4年くらい前には、日本アメリカ文学会の年次大会で、ポストコロニアリズム理論家ガヤトリ・スピヴァク提唱の「プラネ タリティー(惑星思考)」のシンポジウムに呼んでいただきました。
Gayatri Spivak (1942-) |
坂手:そうともいえないのですよ。12月の下旬から稽古を始めたのですが、僕が他の作品に係っていたため、なかなか時間がとれず、またリアンたちも一ヶ月いない時期がありました。なので、3ヶ月くらいのあいだ、リアンがいない時は自主稽古になったりして、お互い虫食い状態だったのです。その虫食いがあるから、僕がフォローするというかたちを取ったために、僕も演出にはなっているのですが、基本的にはリアンの考えを中心に、テクスト作りも僕はほとんど関わっていないのです。テクストは、僕のブログから言葉をひっこぬいたり、リアンや俳優たちが持ってきたり、僕が岩波の「世界」に書いたものなどが転用されていたり、あとは古今東西のいろいろなものから出来ています。また、リアンが子供の頃に読んだ印象的な物語が一つあって、そこから最後の物語ができています。今回は「システム」というシーンがありますが、それが僕の主眼でした。テクストの意味もいろいろあるとは思うのですが、物語的なテクストがあるわけではなくて、どちらかというと現代美術のようなことがやりたいと思って。
巽:まさに、ジョン・ケージの偶然性の方法論ですよね。燐光群の劇に馴染んでいらっしゃる方は、衝撃を受けたのではないでしょうか。賛否両論を呼ぶと思います。
坂手:ジョン・ケージには、文章自体が文節とは無関係にブランクがいっぱいあって並んでいるものがある。ジョン・ケージは、現代音楽の第一人者であるわけですが、彼の文章そのものを楽譜みたいに考えてみる。つまり「ブランクがどうできているか」の仕組みを使って、ランダムにものを配置するコンピュータシステムに入れてみる。これはリアンが考えたやり方なのだけど、リアンも「作者はコンピューターだ」と言う。動きもフローパターンとかいろいろなパターンが何個かあって、そのパターン、つまりみんなのムーブメントも記号化されて、コンピューターに入れられる。言葉も、動きもランダムに配置され、ブランクを含んでいる。そこには、理由がない。そのときに、それが何に見えるかということについて、われわれ作り手の側は、決めないのです。
巽:それは非常に挑戦的だし野心的だと思う。坂手洋二の演劇は、テーマとかメッセージが比較的はっきりしているし、ナラティヴを伝える。一応、物語的発展というものがはっきり分かる。昨年の「たった一人の戦争」も、今回「世界」に発表されたエッセイにも書かれていますが、原発の処理を地下に持っていくという動きと、水力発電やダム開発との関わりを、坂手さんらしい問題意識で捉えている。そういった視点でみると、ナラティヴには、坂手さんの問題意識がぎっしりつまっている。しかし、今回はナラティヴも分断され、むしろ「間」で見るというか、「あいだ」、間隔、空隙の部分が、非常に象徴的に感じます。普通の文章が、さきほどコンピューターといわれたけども、バラバラに解体される。にもかかわらず、これを3.11以後に痛烈に意識したということが、何らかのかたちで伝わってくる。これは一体何だろうと思っていたのです。
そこで思ったのは、「世界」の冒頭で書かれていますが、坂手さんは3月11日生まれだという。すると、去年以降は誰からもそれを指摘されるし、いやおうなしに、自分だけの誕生日だと思っていたものにいろんな意味が付随するようになる。つまり、3.11以後の我々の社会は、意味が解体されたというよりは、むしろ意味だらけになっているのではないかという疑問が生じる。そこでもう一回、意味体系をバラバラに解体できないのかという坂手さんの意志を、今回は非常に強く感じました。最初のモノローグの意味は、最後に来てとりあえず結構を結んでいるけれど、それ以外のところが、実験的なのです。リアンにしても、11年前の「白鯨」はわりとわかりやすい。私はあれが最もハーマン・メルヴィルの「白鯨」に忠実なものだと思っています。
しかし今回は、わかりやすい物語を根本から破壊してしまう方向を選ばれた。3.11以後、私たちは、いろいろなことを説明しようとすればできるし、立場を表明しようとすれば出来るけれども、言葉だけでは実際には伝わらないものがたくさんある。ましてや、演劇、パフォーマンスとなると、今回のような方法論しかないのではと思う。そういった点が、プラネタリティーに非常に近い。つまり、真の他者を抱きしめるというのは、どういうことかという問題です。スピヴァクはここで、非連続的なもの、神秘的なもの、不可解なもの、それらを他者性として抱きしめることができるのか、と言う。そこに、プラネタリティーの一つの可能性があるとすれば、本日みせていただいたものは、まさに、真の他者にいかに迫るかというアプローチだと思います。
2:こり固まったものの分解
坂手:僕にとってのプラネタリティーは、海から始まります。けれど、今回は海には向かわなかったですね。リアンは、人の意識というものに向かったようです。「たった一人の戦争」のときに、核処理の問題を取り上げました。核のゴミと言われているものが10万年間、放射能を放つ。僕らはここで初めて10万年という単位を想像する。ピラミッドが5千年。ピラミッドのころの文明でさえ、僕らからすると断片しか知らず、彼らが独自の自分たちの文明と社会性を持っていたということを充分に知ることができない。社会性というのは、ある「物語」を持っているということ。その「物語」が残っていなくて、断片しかない。僕たちがいま持っている文明というものも、たとえば何万年かあとには、断片だけが浮かんでいる。それはどういうものだろうか。本当の海というよりは、概念上の海ですね。その海に浮かんでいる断片というものがどういうものなのかを、まだ僕らはこっち側にいるにもかかわらず、試してみようというのが、リアンのやりたかったことのようです。
彼は「物語のあるものが最近いやでしょうがない」と言う。でもやはりお客さんは、「物語」というものを求めて見出してしまう。そこにどこまで自覚的になればいいのか、ということをいろいろ考えた。たしかに3.11からの視点もあるのだけれど、それだけではない視点から考える人もいる。たとえば原子力発電所にしても、危険なものだからないほうがいいのだけれど、みんなが石油燃料をあてにして言っているのだとすると、それは大変愚かなことになる。地球温暖化の問題は、いま日本では霞んでしまっているが、地球全体が生き残るリスクを考えたときに、このまま石油を蕩尽してしまって、地上のオゾン層を破壊してしまったらどうなるかという問題のほうが大きなことかもしれない。リアンは、アラスカのリージョナル・シアターの演出も長い間、担当しているのですが、僕もアラスカに行ってみると、オゾン層がほとんど壊れている。サングラスなしには、ほとんど過ごせない。僕のいたシーズンは、一日に一時間半くらいしか真っ暗にならない。そういう自然環境のなかで住んでいる人たちの周りでは、オゾンが破壊され、氷河がガタガタ崩れ始めている。そういうのを見ていると、たしかに日本人は自分たちのことを考えて、自分たちの生存を守るために、原発を否定する。これは必要であるけれど、やはりアメリカの一部の人たちのように、環境のことを考えると完全に地球の大気が壊れてしまうほうが問題ではないか、という考えも浮かんで来る。こういう考え方を僕らも受け取りながら、一つの視点から見ないようにしたいのです。
巽:複数の視点の入り乱れる感じが効果的でした。年末の燐光群の忘年会で、リアンと話したときに、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を受賞した「ザ・コーヴ」という、日本の和歌山県のイルカ漁反対のメッセージを明確に含んだ映画のことを議論したのです。あれは日本人からみるとどう考えても不愉快に作られている。それは、イルカ漁を批判しながら、それが水銀を含んでいるということで、水俣の映像をそこに継ぎ接ぎするからです。それを日本人が目にすると、じつにいやな気持ちになる。
坂手:でもそれは事実ですよね。つまり、マグロとかクジラはもうまったくだめなのです。最終捕食者に近い大きな海の生物は、もう食べてはいけない動物です。マグロも金目鯛も本当は、ほとんど子供は食べてはいけない。福島の放射能流出以前にそうなのです。海の汚染というのは、原発だけが問題なのではない。「ザ・コーヴ」を、僕は見ていないのですが、リアンが鋭く言うのは、でも本当にイルカをとらないと生きていけないわけではないじゃないか、ということです。独特の文化だといっても、そう思う人は日本でも少ないということを、皆、知っているじゃないかと。そのあたりは、日本の中でどうなのかと。今回の震災で、宮城県の鮎川の捕鯨港が、全滅してしまい、それがすごくショックでした。でも世界中のマスコミは「彼らはクジラを殺していた、天罰があたった」という具合に書く。僕らは感情的に不愉快になったりもするのだけれど、冷静な眼で見た時に、そうした海外の冷ややかな目に本当に論理的に応えられるのかとなると、ものすごく厳しいのではないかと思う。ドナルド・キーンさんが日本に帰化されたけれど、震災後の日本に非常に失望したと仰っていたこととも関係があると思う。親日家の人たちでさえ、おかしいという。日本人は、批判があるのは分かっていても、論理的な反駁を用意せず、ダダをこねる構図になっても構わないと思っている。それはまさに、いまの「橋下的」なものにもつながっている。たいへん意固地になっている。そういう意味で、いまの何か変な固まり方を分解したい、という気持ちが僕にはある。それが演劇でどこまでできるのかということはあるけれども。別の正しい正義を振りかざすのではなくて、まずは解体することで、何かできないかなと思う。
3:ビュー・ポインツ
坂手:リアンたちの劇団シティ・カンパニー(SITI Company)というのは、ご存知のかたもたくさんいらっしゃるとは思うのですが、17、18年前に、旗揚げした劇団。正式名称は、サラトガ・インターナショナル・シアター・インスティチュートで、創始メンバーには鈴木忠志がいる。シティ・カンパニーのメンバーの9割は、スズキ・トレーニングメソッドをアメリカに持ち帰って教えている。このメソッドは世界中で教えられていると言われていますが、じつはほとんどこのシティ・カンパニーのメンバーが教えているのです。その際、スズキ・メソッドだけではなく、ビュー・ポインツも教える。それは、9つの視点で人間の動きを見て、それを俳優たちが自覚的に空間と身体を作っていくものです。つまり即興のためのメソッド。俳優たちが自分たちなりの身体全体の意識で即興を、演劇の空間をつくっていく。そこでは、俳優自身が、アイディアを出すのだけれど、リアンの意識の中では、そのアイディアは「作者が書いたもの」とどう違うのかという疑問が湧いてきたらしい。まだ何かが足りない。こうして演劇を解体していくと、そこにコンピューターのランダム性が入ってくるべきだとなった。そのあたりが今回、作者をいなくして、どんな作品が見えるのか、ということを考えた点につながる。ジョン・ケージの音楽もそういうもので、一番おもしろいのは、メトロノームを10台くらい、並べたもの。同じようにネジを巻いて、だんだんだんだんゆっくりとなり、いつかとまる。まちまちにとまる。毎回ちがう。それを彼は、作品とする。そうした視点を導入したいということです。
巽:燐光群がこういうメソッドを取り入れたのは初めてなのですか。
坂手:「白鯨」のときにもやっています。ビュー・ポインツはもともとダンスから始まったメソッドで、私はときどき矢内原美邦さんに振付を頼むのですが、彼女も本当のダンサーのための振付とはちょっと異なる振り付けをする。たいてい俳優に動きを考えてもらう。自分たちで、あるテーマについて考えてもらう。だいたい5つの感情を選んで、それを4カウントで作ってもらう。ムーブメントの俳優が11人いますから、220通りの動きがあります。それを、彼女がいないときに2週間くらいで作って、彼女が来たときにダンスにまとめる。またそれを、僕が当てはめる。その繰り返し、繰り返し。でもここで、実はすべて俳優が自分で作っていることになる。俳優が自分でつくるということに、何か意味がある。それはもちろん、俳優がいいアイディアを出すということもあるけれど、「作者」というものを分散させていくということに、大きな意味があると思う。
巽:ある意味、理想的な共作みたいなもいのですよね。以前はまだ、強力な舞台装置があったわけですが、今回は、何もない。加えて、今作は、ひょっとすると創世記を逆まわししているのではないかという気がしてくる。一日目、二日目、三日目と進んでいくので。「白鯨」も最後は、一日目、二日目、三日目、そして最後のエピローグとなる。今回は、流星群がやってくるという天変地異もあるわけだし。
坂手:あの物語は、リアンが子供の頃に読んだもので、もとの物語を一生懸命探したら見つけたのですよ。そうしたらこれが、リアンが今回やろうとしたストーリーの概観とほとんど同じ。リアンも忘れていた子供のころの記憶だったのです。船という一つの符号。地球全部が、海に沈んで、また浮かんで来る。僕たちにとっては一年前の震災の非常に生々しい記憶が呼び覚まされるのだけれど、それが子供向けの文学のなかにあったということに僕は衝撃を受けました。それをもとに、「間」を作っていく。自分が何者か分からなくなり、ただ探し物をする人たち、何かを失くしたから探し物をしているという以外に何もかも失くした人たちが、言葉を再獲得していく。関係性を再構成し、コミュニティーを発見する。そして、島の場面で、自分たちがいるこの「島」の取り合いをする。あえて、社会をつくり、そこで「物語/フィクション」というものに目覚める。フィクションという物語を手に入れて、これは本当ではない物語だけれど、一つの枠にくくられた「物語」というものが存在するということを、意識する。これによって、じゃあ自分たちの生きている世界も、「物語」として人に見られるのではないかということに、気がつく。ここで、振り出しに戻る。仕組みとしてはそういうストーリーなのです。
巽:徹底的に解体されてしまったところから、死の島とか、偶然の島とかをへて、いろいろなかたちで物語を得ていく。あそこは、言ってみればフリークスの島ですね。
坂手:まさに架空地名辞典みたいですよね。しかし、架空なものであっても、だいたいそれらはつながってしまう。つながってしまうということに対して、つながりすぎないようにするという働きも必要で、今回つながって見えすぎてはまずいと思いました。無意味のところは無意味のところでなくてはならない。ものすごい綱引きなのです。俳優たちも、だんだん意味に目覚めてくると、言葉の意味に向かってしまう。なかなか戻しにくかったりする。
4:偶然性の演出
巽:意味が発生すると、それをまた何とか解体しなければならないのが表現者だと思います。私は見る前に、台本をデータで送っていただいていたのですが、初演にきて本当に良かったと思いました。台本だけでは分からない。イメージがつかめない。これまでの坂手さんの舞台は、台本だけでもある程度、展開が分かったのですが、今回はパフォーマンスを見ないと、了解できない。見ないとどういうものかがつかめない。ところが、役者から台本どおりだと聞きました。インプロヴィゼーションが多いような気がするのに。
坂手:構造的にできあがったあとは、正確にその通りに演じる。その場の即興ではないのです。テクストは動きと言葉の分散から成り、俳優たちが自分の体に刻み付けて、それを再現する。これは、おそろしく大変な作業なのです。だって、意味がないのですよ。意味がないことを再現しなければならない。
巽:ジョン・ケージも最後はそうなっていきましたよね。不確定性、さらには偶然性を演出していく。まさに逆説的ですが。アドリブが毎回毎回あるってわけではないのですね。
坂手:アドリブはまったくないですね。作品全体で何かになればよい。部分に関していかにもお芝居的に物語を求めていくことが、日本の演劇現場では強すぎてしまう。まあ僕は、物語があることが好きですが、もともと毎回手法は違うのですよ。情報満載にしたいときもあるし、殺風景にしたい時もあるし、いろいろなパターンがある。僕は欲張りでいろいろなことがやりたいのです。今回は、リアンのやり方をいかに維持するか、ということに賭けているところがある。極端なことを言えば、台本は見ないのです。台本を見て、説明を思いつくことがいやなので。「見ただけでは何もわからない」ということを維持しながら、ぎりぎりまで俳優たちに尋ねない。「何をやりたいのか」ということを明確にするというのは、動きを明確にすることなのです。それ以外で何がやりたいのかを明確にしようとすると、説明に走ってしまう。説明は説明に走る。自家撞着で終わる。しかしそうすると、これは一体どんなものに見えるのかということに関して、リアンと僕は永久に問答になる。リアンは、これはどんなものに見えても構わないと豪語する。もうアメリカに帰ってしまったし。どちらかというと、リアンが構築したものがあり、僕は共同演出ということになっていますが、指揮者のように指揮するだけ。僕は極力、変更を加えない。そういう恐ろしい配分で進んでいました。
巽:最終的には、最高のチームワークで出来上がったという感じがしました。
坂手:まだまだ磨き上げの必要性は感じます。自分が本番を重ねて見えてきたこともあるので、これから一日一日すすんでいきます。
5:タイタニックと氷山
巽:どうしても3.11を意識してしまいますが、今年はその一周年であるとともに、タイタニックの百周年でもある。リアンが子供の頃に読んだ物語にも関わるでしょう。最近のテキサスの物理学者の新見解によると、タイタニックの事故がなぜ起きたかというのに、一方で、「人災」と考える人がいる。事故にあうかもしれないと言われても「絶対に大丈夫だから」といって押し進める人がどの時代にもいる。しかし、実際には、1912年の1月は、歴史上まれに見るくらいに、太陽と月と地球が接近した。それによって重力場が変わり、海が満潮になり、動かなくてもいいはずの氷山が動いてしまった。これも、惑星の作用なのです。それで、タイタニック号が氷山にぶつかってしまった。ヘミングウェイのハードボイルドの理論で「氷山の理論」があります。これは、たいてい物語というのは、氷山の見えている部分だけでよく、その内面で何が起こっているのかが肝心なのだから、海面下のドラマは書かなくてよいということです。書かないままでも、読者にわかるようにすればいいのです。しかし、最新の物理学的再解釈が出てくると、ヘミングウェイの氷山の理論そのものが変わってしまう。ヘミングウェイの師匠はガートルード・スタインです。言語の解体という点では、一方で、非常にモダニズム的な理論がある。従って、今回思ったのは、惑星思考とモダニズムは、一見したところ全然関係なさそうだけれど、非常に深いところで連動していたのではないか。それはやはり、不確定性や偶然性のみならず、他者性とか非連続性とか、不可能なるものを我々がいかに抱きしめることができるのかという問題意識に尽きるのではないか。今までの燐光群の劇を想定していると、今回はちょっと衝撃の展開かもしれないけれども。しかし、これはリアンと役者の方々ほとんどすべてが参加した共作ということになる。そして作者はいない。
坂手:リアンはそう豪語している。
巽:まったくラディカルですよね。
坂手:でもたしかに、本当にそうなですね。氷山の理論でいうと、その見えているところが演技だとすると、実は俳優というのは、その水面下の部分というものを持っている。その水面下の部分をどうするのかが非常に難しい作業。やめろやめろといっても、水面上のことばかりやろうとしてしまう。水面下の部分で勝負したいのだということが、なかなか浸透しづらい。しかし肉体の中に実は宇宙が内在しているという感覚がなければ、やはりおかしいのではないかということを思いながら、やっていました。
巽:そういう意味では、賛否両論を呼ぶかもしれませんが、「ALL UNDER THE WORLD」ほど、燐光群の新展開を感じた舞台もありません。歴史的なパフォーマンスをありがとうございました。