2010/04/01

白鯨を待ちながら:巽孝之VSリアン・イングルスルード (11/12/2001)

2001年11月12日(月)
於・梅ヶ丘ボックス

リアン・イングルスルード氏(俳優・教師・演出家)

1:なぜいま白鯨か?
 今年は『白鯨』出版150周年ということで、近年ではシーナ・ナスランドのフェミニスト小説『エイハブの妻』だとか、フランク・レントリッキアの哲学小説『ルチェージと鯨』など、ユニークな読みなおしも進んでいます。ただし、今まで『白鯨』を扱った視覚芸術に限ると、もちろんロックウェル・ケントやブレンダン・リンチからフランク・ステラに至る美術作品もあったわけだけれど、やはり決定的だったのはジョン・ヒューストンが1956年に撮った映画版でしょう。1998年にコッポラがリメイクしたテレビ版も、基本的にはヒューストン版に準拠していますしね。
ちなみにヒューストン版の脚本は幻想系SF作家として著名なレイ・ブラッドベリですが、そのこともあってか、まず最初にジョン・ヒューストンの映画を観てしまった後で原作を読んだ場合、違和感を感じるのも事実です。しかし、今日、『白鯨』に接する読者の多くは、そういう入り方をしているんじゃないかな。燐光群&グッドフェローズ版スタッフもそれは同じだと思いますけど、さてリアン、今回の演出家として、『白鯨』をめぐる記憶はどこから始まっていますか?

リアン ぼくは7歳くらいの時にアメリカのテレビで『白鯨』が流れていたことをうっすらと記憶しているんです。ハリボテの白鯨の場面なんかは覚えているのですが、筋はまるで覚えていないという程度に。
その後、学校で義務付けられたわけではなかったのですが、これは読んだ方がいいだろうと自分で思ったわけです。ところが読もうとはするものの、途中までしか読み切れない(笑)。結局4度ほど挑戦して、1年くらいかかってやっと読み終えたような具合でした。今でもはっきり覚えているのですが、読み終えたその日「これはいつか舞台にする」と思ったんです。特に最後の三日にわたる「追跡」の各章を読んだ時、これは舞台に通じるものがあるなと強く感じたんですね。初めて読み終えた時20代だったので、これはもっと年齢を重ねてから舞台化しようと思って、そのころより色々と考え始めていたんですが、昨年2000年にヴァージニア州ノーフォークで『白鯨』をやろう話があったので、とうとうやることにしたんです。本当はまだちょっと早いかなという気もするんですが、メルヴィルがこれを書いたのが32か33の頃で、ぼくはというと1964年生まれですからもう37歳ですね。だったらそろそろやらなくちゃ、と(笑)。
それで、色々と映画などを調べてみて気がついたのは、それらが、ジョン・ヒューストンにしてもそうなのですが、ストーリーしか追っていないということだったんです。一方でメルヴィルが小説の中でやっているのは、白鯨を追っている連中の筋をあくまでも骨組として、それに重厚な哲学やなにかを肉付けしてゆくことでしょう。それが映画だとなかなかそういう構造を作り得なかったんじゃないのかと。だったら、ぼくらは映画じゃなくて舞台でやるんだから、メルヴィルのやり方でやってしまおうと考えたんです。

 そこは観ていても驚かされたところでした。しかも、さきほど観た稽古では、ピップが自分の性格造型について語り始め、メルヴィル自身の小説作法を批判するという、メタフィクション的な要素さえ含んでいたし。

リアン 前半から物語が進んでゆくに連れてそういう形而上学的要素が増していって、また最後には追跡という冒険的要素へ収束するという、メルヴィルの構造に似せて作っています。


2:拝火教徒フェダラーをめぐって
 ところで、日本では1963年に轟順平という漫画家の手によるマンガ版『白鯨』が発表されているんです。小学校に入ったばかりの私が最初に『白鯨』に接したのはそれなんですね。その後、ジョン・ヒューストンを観て、またテクストを読んでから再度この漫画を読みなおしてみて分かったことは、ヒューストンのインパクトがじつに強く反映されているということでした。 
メルヴィルの原作と決定的に食い違っている点は、ひとつにはジョン・ヒューストンの映画では終わりの方の場面、エイハブ船長が白鯨に銛を突き立てて、一度沈むのだけれども、今度は手招きしているというシーンがある。あれは原作のフェダラーとエイハブをレイ・ブラッドベリが合成してしまっているんですね。それからもうひとつ、原作の第28章、エイハブを語る部分だと、エイハブ船長の頭のてっぺんから顔面を通って下降していく傷痕めいた筋は、生まれつきのものなのか事故によるものなのかあくまで不明ということになってますけど、ブラッドベリはそれを頭のてっぺんから爪先までいったんまっぷたつに裂けてしまった肉体をツギハギした結果であると断定したうえで、しかもそれをほんらいは第16章に位置するピーレグ船長の言葉に組み込んでしまっている。ただし、メルヴィルのテクストではそれを落雷の結果であるかのようにも匂わせているところを見ると、かなりのていどメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を意識していたのがわかるので、この部分の脚色はむしろ「正しい誤読」といえるかもしれません。その点で、リアンがエイハブ船長役にフランケンシュタインを意識するよう演技指導していたのは、大賛成なんですけれども。

リアン やっぱり、ぼくがメルヴィルのテクストと映画との違いで決定的だと思うのは、ブラッドベリのテクストではフェダラーがほとんどカットされているところなんです。基本的にはジョン・ヒューストンの『白鯨』はいい作品だと思うけれども、反キリスト教的な「暗い目」の象徴となっているフェダラーを消し去ってしまっていますからね。

巽 フェダラーはペルシアからインドへ亡命したゾロアスター教の末裔ゆえに“Parsee”と呼ばれる。すなわち日本語訳で呼ぶところの拝火教徒ですね。彼がちゃんと登場するのは、むしろいちばん最初の映画化であるミラード・ウェブ監督のサイレント映画版『海獣』(1926年)ですよ。もっとも、これはエイハブ船長とフィアンセが義兄弟とのあいだで三角関係のドロドロに陥るとんでもない脚色なんですが、しかしフェダラーに限っては、きちんとメルヴィルの意図したとおり、東南アジア系の風貌で登場している。これはなかなかエキゾティックな感じがしてわたしは好きなんですけど。

リアン 実際メルヴィルがどう考えていたのかは判らないのですが、『白鯨』にはいろいろと変な記述や妙な表記がたくさんある。何しろ鯨を魚と見なしていますしね。これは本人が誤解していたのか、エキゾティックな世界を表そうとしていたのかは判らないのですが、ただ、意識的か否かは別として、メルヴィルは異なる世界観を呼び込むことでエキゾティックな世界への扉を開いてゆく。世界を広げていってしまうんですよ。

巽 テクストの第82章では、白鯨をドラゴンに例えているところもありますね。メルヴィルはガラパゴスにも行って、その結果、ダーウェンの観察を揶揄するような短篇「魔の島々」(1854年)も書いているし、1820年代ぐらいから相次いだ化石発掘を承けて、1841年にはイギリスの高名な解剖学者リチャード・オーウェンが学問的にも恐竜の存在を確定しましたから、それに続く『白鯨』執筆段階では必然的に鯨に恐竜のイメージを重ねる部分もあったかもしれない、それは当時最もエキゾティックな想像力だったかもしれない、という可能性はわたしもかつて考えたことがあるんですが。

リアン それこそ原作第15章のタイトルにもなっているチャウダーじゃないですが、ほんとうにいろいろなものがごちゃまぜになっている。メルヴィルが作った構造そのものが、無限大に広がってゆく構造になっているんですよね。ところがストーリーだけに焦点を当ててしまうと、どんどん狭くなって、結論に向かって閉じられてしまう。映画版を観るとそうなってしまっているんです。


3:アフガン・コネクション
 今回の燐光群版『白鯨』では、拝火教徒フェダラーをきちんと人物造型しておられるというのが、いちばん重要なことだと思うんですよ。カルヴィニズムへ懐疑を抱くメルヴィルの思想的核心が表れているわけですから。
フェダラーにおける異教的要素をクローズアップして読み直すと、いろんなことに気づきます。たとえば、第一章の最後の方でイシュメルが自分がこれから航海に出てゆくというのを、あたかも演劇的な出し物であるかのように語っていますね。しかも「イシュメールという男、捕鯨の旅へ」という架空の見出しと並列されているのが「大統領選接戦」という見出しと、そしてもう一つが何と「アフガニスタンにおける血みどろの戦い(Bloody Battle in Afghanistan)」なる見出しだったりする。これが150年も前の記述なんだから、何ともアメリカというのは変わっていないな、と思うんですが(笑)。
もちろん、文字どおりの歴史を参照すれば、ここでメルヴィルが指しているのは、1839年に勃発する第一次イギリス=アフガン戦争以降の展開ですね。とりわけ1841年11月、イギリス軍の侵入に対して危機感をもったアフガン人が商業使節の長たるアレキサンダー・バーンズの屋敷へ押し入り射殺してしまった事件は、のちのちのイギリス=アフガン関係に根深い禍根を残すことになります。その背後には当然、インドを管轄していたイギリスがロシアの南下を怖れるあまりの先手攻撃がヤブヘビになってしまったという展開があるので、この時にはもう、ひとつの南北問題が始まってるんですが、最大の問題は、1839 年以後のイギリス軍のやり口があまりにも汚かったために、アフガン内部でキリスト教への憎悪がどんどん高まっていったということでしょう。しかも宗教史的にいえば、そもそもアフガニスタン北部の都市バルフといえば、ゾロアスター教の開祖でかのニーチェも主題にしたツァラトゥストラが暗殺されたところですよね。そう考えると、第1章で「アフガニスタンで血みどろの死闘」なる記述があるのと、のちにゾロアスター教徒フェダラーがエイハブ船長の心の友として浮上してくるのとは、決して偶然ではないように思います。それは、彼個人のキリスト教批判を行うためには、どうしても不可欠な文脈だったのではないか。
そういう意味では、リアンがエイハブとフェダラーをきちんと分割して演出したのは、きわめて原作の精神に忠実であって、いまの時代にも意味がある。

リアン それはとても大切な部分だと思うんです。例えばテクスト中にある主に3つの箇所なのですが、槍の洗礼のところ、酒を飲ませるところ、セントエルモの火のところが、ミサの裏返し、つまり黒ミサになっている。そういうところでエイハブとフェダラーというのも通底しているんだろうと。ぼくが非常に強く心を打たれたのが、メルヴィルが『白鯨』を書き上げて出版にこぎつけた時に、敬愛する先輩作家ナサニエル・ホーソーンに宛てた1851年11月17日付の手紙で、" I've written a wicked work" と書いていることなんです。メルヴィルはイケナイことを書いたんだ、という意識でいた。

 もちろんホーソーンだって「イケナイこと」を書いた作家ですけど(笑)。でもたしかに、『緋文字』におけるピューリタン牧師の説教場面は、『白鯨』におけるマップル牧師の説教ばかりでなく、エイハブ船長によってもパロディ化されているのかもしれません。しかもそれは黒ミサならぬ拝火教の儀式を連想させる部分は、少なくないし。

リアン でも、映画を観ているとそういう側面がいっこうに見えてこないのが悲しいなと思っていたんですよ。ごくごく単純な冒険活劇という風になってしまって。


4:グローバル・メタシアター
 そうそう、今回、クイークェグやタシュテゴ、それにピップなど、少数民族に属する船員を女性にされたのは、日本で公演するのを考慮した意図的な戦略だったんですか?

リアン 他の地方で上演したヴァージョンとのあいだに、ひとつ距離を置きたかったんです。アメリカではヴァージニア州とアラスカ州の双方で公演しましたが、その時にはたまたま、2度ともエイハブ船長自身を女性にしました。それは偶然というか、エイハブにふさわしい女優がいたから実現したのですけれども、その2回の経験を経て全体を観たとき、今回はこういうイメージでやろう、という気分になってきたんですよね。

 それは非常に面白いですね。だって、メルヴィルが一番恐れていたのはお母さんのマリアでしょう? 船員も作家もろくな職業じゃない、なんて思われてたんだから。批評家のデイヴィッド・レヴァレンツなんかは、エイハブはお母さんをイメージした一種の女王なんだ、という説を展開してますけど(笑)。

リアン あの家庭関係には、なかなかすさまじいものがありますからね(笑)。

 今回の燐光群版では打って変わって、エイハブが男性で少数民族が女性。たしかに、全員が日本人の劇団では、北米で行う時のように多民族的雰囲気を出すのがむずかしいですから、こういうラディカルな構成が自然に決まったのかと感じたんですが。

リアン 何らかの意味はあると思いますけれども、いまこの段階では自分でも解釈できないというか(笑)、言えないですね。
ヴァージニア公演では、アメリカ文化の中で小説としての『白鯨』がどう受け止められているかというのを入れたんです。色々な人に「『白鯨』を読んだことがありますか?」という話を聞いて、読んではいないけれども大体はこういう話だと認識している、と言われたようなものもテクストにどんどん取り入れたんです。アラスカ公演ではキャストが少なくて、6人だったんですが、その内のひとりが実際に捕鯨をやっているイヌピアック系エスキモーの人でして。そこの捕鯨の伝統を折り込んで、メルヴィル的想像力とイヌピアック文化の結合をもくろむ上演になったんですね。今回の日本公演も、メルヴィルと日本だったらどうなるか、っていうのが念頭にありました。

 だから縄文時代の捕鯨文化にも話が及ぶわけですね。そういえば、アメリカ文学者の八木敏雄氏は『「白鯨」解体』の中で日本の捕鯨からの図版を多数取り込んでいますし、作家でも久間十義などは同じ方向のメタフィクション『世紀末鯨鯢記』で三島賞を受賞している。そもそもメルヴィルは日本に来たかったということもありますよね。

リアン ええ、『白鯨』をみているとどうもメルヴィルは日本に対して何かがあるんですよね。ピークォド号のマストも日本の木ですし、足がなくなったのも日本で。最初の『白鯨』の映画化にもその場面が出てきますが。

 先ほどふれたミラード・ウェブ監督、ジョン・バリモア主演のサイレント映画『海獣』が、それですね。あれは全体に『白鯨』の前日譚になっていて、エイハブが義兄弟の陰謀により白鯨に足を食いちぎられる場面も含まれていますから、原作第28章のとある老インディアンの証言が正しいとすると、そこはまさしく「日本の沖」にあたる。1926年に作られたせいか、見ようによってはスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』みたいな感じなんですが。

リアン ローリー・アンダーソンが『白鯨』のパフォーマンスをやっていて、最近のアルバムにも『白鯨』に関する説明があってそのサイレント映画『海獣』について触れているんですが、あらすじだけ聞いてもそんな滅茶苦茶な、と(笑)。大笑いだったんですけれども。


5:誰もがエイハブを愛していた
 ちなみに、アメリカでは『白鯨』の舞台化というのはこれまでどのていどなされているんでしょうか?

リアン いえ、それほどでもないんです。調べてみたところ、大きくはやられていない。オーソン・ウェルズが舞台化した『モビー・ディック・リハーサル』(Moby Dick Rehearsal)というのは、ありましたけれども。

 それは日本でも、20年ほど前に文学座で公演されていましたね。

リアン アメリカでも1-2年前にどこかでやっていたみたいです。
それにしても、自分で初めて『白鯨』を舞台化してみてとてもびっくりしたことがあります。エイハブがシェイクスピア的な発想だというのは聞いていたし、多分あの独白を舞台でやったら面白いだろうなというぐらいには思っていたのですが、実際にやってみるとこれが本当に名セリフなんですね。どうして今まで舞台でやっていなかったんだろうというくらいに。かつてメルヴィルは1850年に「ホーソーンとその苔」なる書評を発表してホーソーンのことを「新しいシェイクスピアだ」と絶賛したわけですが、翌年には『白鯨』を書くことで、むしろメルヴィル自身が「アメリカのシェイクスピア」になっちゃったわけですね。

 ホーソーンとメルヴィルは二大巨匠のように言われていますが、年齢は15歳も違う。ホーソーンの方はあまりメルヴィルのことを意識していなかったかもしれないけれど、メルヴィルの方はホーソーンが大好きだった、というのは有名な話で(笑)。

リアン 最後にイギリスで会った時にも、もはやホーソーンの日記にも出てこないという(笑)。メルヴィルは冷たくされてしまったわけですね。
ぼくはミネソタ州出身なのですが、今はもうずっとニューヨークにおりまして。先日も<ニューヨーク・タイムズ>におそらくイシュメールが歩いただろうマンハッタンの地図というのが出ていて見てみたら、ちょうど世界貿易センタービルのあたりを通っているんですよね。

 『白鯨』第一章の前半は、むしろニューヨーク港の風景を盛り込んでいますから。メルヴィル学者たちの中でも、2001年9月11日のテロ事件があった直後に、ビルにぶつかった飛行機はピークォド号じゃないかと解釈する人がたくさんいました。エドワード・サイードもブッシュ大統領がエイハブ船長だと言っていますし、湾岸戦争の悪夢がくりかえされているような気がします。こういう時、誰もがエイハブになってしまうんですよ。
今回の舞台でラディカルだなと思ったのは、舞台でのイシュメルが20年代メルヴィル・リバイバルまでの伝統的な役割を全うしようとしていることですね。主人公はあくまでエイハブ船長であり、語り手はあくまでイシュメールという一乗組員である、という。燐光群版を観て初めて、むしろこれまでの映画版の方がラディカルに改変されたものだったという真相がわかるんじゃないかな。その意味で、今回の舞台は基本へ還るというか、非常にオーソドックスな形が際立っている。

リアン そう、いまでは原作に忠実に演じようとするほうが、ラディカルになってしまっているんです(笑)。
これを上演したいと思ったときにひとつ考えたことがあって、アメリカでは一般的にエイハブというのはこの物語の悪役という認識があるんですね。でも、エイハブは人間の理想というか、メルヴィル本人があらまほしいと願った人物なのではないか。ニューベドフォードとナンタケットではみんな「エイハブはヒーローだ」って考えてる。まあ、鯨捕りの街ですから(笑)。一方でイシュメルというのはどちらかというと、サミュエル・テイラー・コールリッジの「老水夫行」のノリなんだ。あの生き延びてしまった、という感覚ね。やっぱりこうしたロマン主義文学で生き延びるというのは、さほど嬉しいことじゃないんじゃないかと思うんですよ。

巽 ただただ物語を伝えるために生き延びさせられたわけですよね。

リアン そうです。自分が死ねなかったというか、その情熱に繋がれなかったという後悔があると思うんです。


6:白鯨を待ちながら
 この間ニューベドフォードへ行った際に特別展示されていたのが、オーウェン・チェイスのエセックス号難破体験記を組み込んだ1849年のパリとラッセルのパノラマだったんですよ。メルヴィルがもちろんこの体験記は読んでるのは、『白鯨』第45章に書き込まれていることからもわかりますが、そのうえこのパノラマのほうも見たのではないか、と言われている。さて、チェイスのテクストというのは、たんなる難破だけじゃなく、人肉嗜食体験(カニバリスム)も記述してるわけでしょう。

リアン メルヴィルはオーウェン・チェイスに一度会っているんですよね。アラスカ公演でもいろいろと引用させてもらったのですが、カニバリスムの件は、最近出版されたナサニエル・フィルブリックの『大海原のさなかで』の中でも分析されていて、日本公演にも組み込んでみてもいいんじゃないかと思ってるぐらいです。なにしろ、日本人は鯨を食べますからね。

巽 ただし、いくら小説に忠実でも、演劇という媒体とのあいだでは、どうしてもズレが生じてくると思うんですよ。これをどう解決するのか。

リアン 一番違うのは時間なんですよね。『白鯨』はすごく読みにくい小説だと思うのですが、小説ならちょっと読んで、しばらく放り出しておいて、お菓子でもつまみながらテレビでも観てまた戻るっていうことができる。とくにああいう構成の長編小説の場合、どこから読み始めてもいいんじゃないかな。でも演劇の場合は最初から最後までともかく付きあわされるわけで、そうなるとそこにはお菓子もないとつらい(笑)。ですから、ちょこちょこと工夫はしています。
さらにいえば、今回の舞台では、鯨は最終的には出てきません。『ベン・ハー』のチャールトン・ヘストン版では、キリストが最後まで現れない。むしろ、人々があたかもキリストを見ているというふうに見せるやり方を採用していて、それを元にしているんです。モビー・ディックを視覚化してしまうと問題がある、だから出さない。これは小説と演劇が共通してできることなんですが、映画においては視覚化しないというのが非常に難しい。映画を観るとモビー・ディックは明らかに鯨なんですよね。鯨でしかないとも言える。でも、小説を読んでいるとこれは何だろう?という風に想像がどんどん膨らむわけです。

巽 今日の稽古では前半部しか拝見できませんでしたが、この構想からすると、後半部も追跡の3日間を原作に忠実なかたちで作っていくわけですよね。

リアン そうですね。そのまま、いまのところは盛り上がらない感じで・・・(笑)。そこは、和太鼓などを使って盛り上げようかと計画しているところです。和太鼓には何となく櫂というイメージがあって、また『ベン・ハー』になってしまうんですが、船を漕いでいる感じも出る。それに日本というイメージももちろんあります。シェイクスピア劇におけるティンパニのような効果を期待してやってみたらどうなるかな、という実験的な試みも考えていますが、まだどうなるかはわかりません。


7:メルヴィル、ベケット、ピンチョン
 ここでどうしても連想してしまうのは、リアン本人がサミュエル・ベケットが好きで、これまでにも『エンドゲーム』などを演出しているということなんです。今回の舞台にしても、どこかしら『ゴドーを待ちながら』と通じるところがありませんか。

リアン ベケットとジョイスはどちらもとても好きなのですが、どちらかというとメルヴィルはジョイス的なものじゃないかと思うんです。でも、全体のストーリーから言うとベケットかな(笑)。

巽 まあ『白鯨』を離れれば、『ピエール』とか「バートルビー」とか、あらかじめベケット的な不条理を予想したような作品もありますし。ちなみに、20世紀以降、メルヴィル的想像力に最も肉薄する作家としてはトマス・ピンチョンがいますけれども。

リアン ピンチョン的要素は、じつはいちばん最初のヴァージニア公演版に少し入っているんです。こんどアメリカ小説を舞台化するとしたら、『重力の虹』になるでしょうか。

巽 『白鯨』は鯨油の時代、『重力の虹』は石油の時代を代表する作品ですからね(笑)。舞台化されるとしたら、世界でも初めての試みになるんじゃないでしょうか。

リアン 実験的なプロジェクトは過去に何度かなされているんですが、物語全体を演劇化するとしたら初めてになると思います。ぜひ、いつかやってみたいですね。



編集協力・古元道広、西川朝子

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