2014/01/20

2014/01/18:特別報告「慶應義塾の英文学―安東伸介没後十年記念シンポジウム」を終えて

特別報告
「慶應義塾の英文学―安東伸介没後十年記念シンポジウム」を終えて


CONTENTS
序文
安東伸介先生シンポジウム序文 巽孝之
第一部
ミメーシスに倣いて 石川大智(博士課程 2年)
10年振りの同窓会 玉川理咲(学部 3年)
第二部
若き慶應と安東伸介 松原廣幸(学部 3年)
語りの伝統、そして未来 細野香里(修士課程 2年)
懇親会
慶應英文学の声・安東伸介 田ノ口正悟(博士課程 1年)

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序文
安東伸介先生シンポジウム序文
巽孝之

安東伸介先生と初めて言葉を交わしたのは、忘れもしない 、きっかり 30年前、1984年の 7月中旬のことである。

たんにお見かけしたというだけなら、それ以前にも何度かあった。

最初は 1982年 4月に日吉の法学部英語助手に着任早々のころ、慶應義塾の英米文学専攻をいまのかたちに作ったと言っても過言ではない学匠詩人・西脇順三郎先生がお亡くなりになり、芝の増上寺で葬儀が行なわれ、それに参列した時のことである。ずらりと並んだ高弟の方々の中でも、由良君美先生の隣におられたように記憶する。

次は、おそらく 1983年 7月ごろ、日吉では指導教授であったアメリカ詩および西脇文学研究の大家・鍵谷幸信先生が評伝『詩人西脇順三郎』(筑摩書房)をお出しになったときの出版記念会が神保町の学士会館あたりで行なわれた時で、スピーチに立った東京都立大学教授・篠田一士先生は著者を「鍵谷ボズウェル」の渾名で親しげに呼んでいた。西脇先生がサミュエル・ジョンソンであれば鍵谷先生はまさにその愛弟子ジョン・ボズウェルほどに公私ともに詩人に最も密着した存在だったからである。一方、この時、安東伸介先生は蝶ネクタイ姿で、三田キャンパスにおける西脇順三郎、厨川文夫の古代中世英文学研究を継ぐ学統の象徴だった。

専門領域も違えば世代も違う、職場も違う。にもかかわらず、 1984年 7月には、そんな安東先生から直接、恵比寿の自宅にお電話をいただいたのだから、驚かないわけがない。理由は、同年 4月に応募していた拙論が第 7回日本英文学会新人賞受賞作に決まったことだった。わたしはフルブライト奨学生としてアメリカの大学院へ留学する直前であたふたしており、さらにはどぎまぎもしていたので、大層失礼な対応になったかと思うが、このとき「慶應義塾では初の受賞で、じつに "honorable" です」と祝辞を述べてくださったのを、昨日のように思い出す。優しいお声であったが、そのとき感じた威厳は忘れられない。たんに我が国を代表する英文学者というだけではなく、慶應義塾の文学部英米文学専攻の歴史も現在もまるごと担い体現しておられるという存在感、とでも言おうか。まさかそのあと同僚となり、藝文学会では同じシンポジウムに同席させていただいたうえに、伝説の銀座は「はち巻岡田」にまで連れて行っていただくことになろうとは、予想もしなかった。文学部移籍以降の約 15年間、学者研究者はどうあるべきか、さまざまなことを学ばせていただいたが、「何よりも "discipline" が大切」という言葉はいまも胸に響く。

安東先生最終講義後のパーティにて

その意味でも、没後十年を記念し英米文学専攻スタッフが総力を結集して編纂した『ミメーシスの詩学』慶應義塾大学出版会)が、今回の記念シンポジウムにもつながるテーマ「慶應義塾の英文学」で貫かれることになったのは、ごく自然な展開だったというほかない。ご長女でプロのデザイナーでもある安東陽子さんの徹底した支援により、表紙写真には、わたし自身が長く尊敬してやまず、かのウィリアム・ギブスンにも影響を与えた国際的写真家・宮本隆司氏をお迎えできたのも、うれしい奇遇であった。

最後になるが、昨年 2013年暮れに亡くなったわたしの父は大正 5年( 1916年)生まれであるから、昭和一ケタ( 1932年)生まれの安東先生より一世代前の英文学者であった。父の場合は第二次世界大戦のころには成人しており入営も不可避であった世代のため、終戦後は自らの専門とするテクストを精読し鋭意邦訳し註釈していくだけでも貴重な研究と目された。

安東先生の場合は、まさに日本の英文学者が国際舞台で活躍するのが当然となって行く、おそらくは最初の世代に属する。高橋康也、由良君美、小池滋といった学者批評家と親しく、 1975年には慶應義塾の提供により、同世代にして当時の主導的文学批評家ジョージ・スタイナーの来日をみごと実現させたのも、そうした古き良き英文学共同体の成せる業であったろう。 

それだけに、かえすがえすも安東先生は、たんに論文や翻訳、座談を列挙するのみではこぼれ落ちてしまう学会運営や国際会議の点でも、多大な貢献をなされたと思う。『ミメーシスの詩学』出版および「慶應義塾の英文学」シンポジウムの余白から、稀有なる「三田の語り部」の多角的なご活躍の一端なりとも明らかになれば、編集委員会として、これに優る喜びはない。

安東先生とジョージ・スタイナー先生

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第一部
ミメーシスに倣いて
石川大智 (博士課程 2年)

安東先生の愛読書であったというE. アウエルバッハの大著『ミメーシス』 は、ほぼすべての章がまず原典からの引用ではじまり、そこに註釈・批評が加わるという、一種独特の「語り」のスタイルをとっている。今年 1月 18日に三田で行われ「慶應義塾の英文学」と題された安東伸介没後十年記念シンポジウムもまた、先立って出版された著述集『ミメーシスの詩学』のそこかしこに息づく安東先生の「語り」を言わば共通のテクストとしながら、そこに生前交流のあった人々による様々な逸話ないしは「註釈」を加えることで、より生き生きと「原典」を再現しようとする対話的試みとして捉えられるだろう。以下、「ヨーロッパ文学研究の伝統」と題されたシンポジウム第一部を筆者なりに急ぎ足で振り返りながら、その「語り」の一端を少しでも再現できれば幸いである〔引用の頁数は『ミメーシスの詩学』より〕。

第一部の司会を務められた松田隆美先生による講師紹介につづき、最初に話されたのは富士川義之先生である。チョーサーを読む中世学者としての安東先生が、じつは同時にジョージ・スタイナーを読んでいたという事実に大きな驚きを覚えたという初期の印象が語られた後、アウエルバッハやその「コスモポリタン」的流れを継ぐスタイナー、さらにスタイナーと安東先生との具体的交流へと話が展開していく。普段は気難しいスタイナーが、"Ando" という名前を耳にすると決まって眉間の皺を緩めたことなど、小さな個人的エピソードを通じて聴衆の心に深く刻まれたのは、古典古代・中世より脈々と受け継がれる学問的伝統や人文学の厚みと重み、そして恩師や先輩へと向けられる敬意や愛情の大切さである。著述集に収められた講演記録「文学と小泉信三」で夏目漱石への形容として触れられていた「モラル・バックボーン」(119)という言葉は、ここで "perfect gentleman-scholar"(239)としての安東先生像と重ねられて語られることとなる。オクスフォードにてジョン・ケアリー教授を交えて三人で飲み語った際、酔っぱらった安東先生がウェイターの "You’re drinking like a fish" という言い回しを耳にし、受験英語以外では初めて聞いたとたいそう喜び、結局ウェイターも交えて飲んだというユーモアあふれるエピソードも語られた。とはいえ、富士川先生にとっての安東先生は、たとえお酒が入ってもなお「居住まいを正す」ことを忘れはしない。著述集を丹念に読んだ聴衆はおそらくこの話から、アダム・スミスの文体を語るカザミアンの記述を例に出しつつ小泉信三の文体に「フォーム」を見いだす安東先生の声を想起するかもしれない(113)。あるいは、来日したスタイナーと安東先生との間でかわされた「正座」についてのやり取り(182)を、そしてハロルド・プリンス演出の『オペラ座の怪人』のなかに「極めて綿密に計算され工夫された〈型〉」(218)を読み込む安東先生の「姿」を無意識的に思い描いたことだろう。

著述集の序文には、安東先生は生前に「単行書をおまとめになることはなかった」(v)とある。この側面に着目し、ヨーロッパ文学のもう一つの長い伝統から安東先生の「語り」へ光を当てたのがつづく鷲見洋一先生である。エクリチュールとしての著作・論文・翻訳が「三種の神器」として重要視される現代の学問世界において、鷲見先生によれば、安東先生の業績の旨味はむしろエッセイ・オーラル・パロール的伝統の上において最もよくはかられるものである。現に17・18世紀フランスの思想家ピエール・ベールの主な業績は、『歴史批評辞典』 の本文へ付した膨大な「註釈」という行為にあり、すなわち過去との「対話」にこそあったのだと歴史に範をとりながら、現代フランスの権威マルク・フュマロリによるヨーロッパ文学におけるレトリックや会話の研究に寄り添いつつ、古典古代以来の人文学の伝統である「礼賛」というジャンルが、安東先生の著述の底流にあったと指摘する。たしかに著述集を見れば明らかなように、西脇順三郎、厨川文夫、小泉信三、清岡暎一、吉田小五郎、金原亭馬生、福原麟太郎、浅利慶太、スタイナー、プリンス、そして福澤諭吉、ひょっとすると「どうぶつ」で語られる「三女」に至るまで、じつに鮮やかな歴史的人物絵巻の様相を呈している。幼稚舎長を務め、「古きを恐れず、新しきを衒わず」(26)という伝統を教えた吉田小五郎の「心眼の美学」を敬意と愛情をこめた筆致で綴った文章のなかで、安東先生はそれを自らの声で裏付けるかのように、「優れた人物というお手本は、ただ遠くから崇めるだけでは無意味であり、進んで親しく交わり、徹底的にその影響を受けてしまうのでなければ真のお手本にはならないだろう。(中略)真似るとは、改めて言うまでもなく、学ぶということだ」(147)と述べてさえいる。ミメーシスの詩学の真髄は、その「語り口」と切り離すことはできないのだ。

そしてそのような語りの「演劇性」(239)、安東先生が "theatricality" と呼び伝えたものを、文字通り聴衆の前で「再現」し演じられたのが、第一部おわりの髙宮利行先生による生き生きとした「語り」であった。できればイギリス人に生まれたかったのではないかと紹介される安東先生は、例えばロンドンのサヴィルローにて試着した背広のサイズが合わなかった際、"Do I look comical?" と店員にジョークをとばし、店員はそれに "Honestly, yes, sir" と応答したという。どことなくウッドハウス的ではないか。ブリティッシュ・ジョークがそもそも語り手の自虐に、つまり精神の余裕に支えられはじめて成り立つことをふまえたこの逸話には会場全体が沸き上がった。もちろんそれは、再現された英語による「語り口」が実に現実味溢れるものであったからでもある。安東先生の "theatricality" は、髙宮先生が出席された講義でもいかんなく発揮されたという。学部生を相手に行われた「英文学史」は、ヴァレリーやカザミアンに触れながらの本格的なものであった。著述集をあわせて紐解けば、「文学と小泉信三」で文体を語る際にカザミアンとルグイの『英文学史』 を引き合いに出し(113)、また「猫の〈メサイア〉」ではT. S.エリオットと四季との関わりにふれながら、「慶應義塾の高校時代、私たちはヴァレリーやエリオットの批評や詩をよく読んでいた」(199)との記述もある。実際の「語り」をもはや直接耳にすることができない現在の学部生や私のような大学院生にも、当時の教室の様子がほとんど同時存在秩序的に浮かんでくるようである。

第一部の締めくくりに司会の松田先生は、「コモン・センス」という言葉を用いて安東先生を形容されたが、ぴったりそれと重なりあうかのような発言が、三田演説館での英語講演をもとにしたエッセイ「福澤諭吉・われらが同時代人」に見られる。安東先生はそこで、「福澤の思想には卓抜な平衡感覚があり、常に思想上の正と反に対する弁証法的な緊張を持した人でありました」(105)と述べている。「洋学者流」でも、単なる「西欧賛美者」でもなかった思想家・福澤諭吉を手放しで「礼賛」しているように見えながらも、しかし講演の最後において語られるのは、さらに開かれた地平にひろがる学問への姿勢である。福澤の著作はそこで崇拝の対象としていわば盲目的に模倣されている訳では決してないのだ。より高次の学びへの手段として、あくまで古典のひとつとして語られているのである。明治以降の日本の歴史を「西欧の模倣につぐ模倣、西欧文明の翻訳につぐ翻訳の歴史」(102)と論じるような見方について、漱石や荷風のやや冷笑的な言葉を引き合いに出しつつ一定の批評的な距離をおこうとする安東先生が、そこで「私たちは」、ととっさに語りかけようとしたのは、あくまで過去の伝統を「読み直し、読みかえ、常にその新たな意味を考えて」(108)いくべき使命をおびた「同時代人」としての私たち、その古くとも新しい後ろ姿なのだと言える。

<追記>懇親会準備の都合で、残念ながら第二部を味わい尽くすことは叶いませんでしたが、そちらにつきましては他の聴講者のレポートを拝読したく存じます。(石川)

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10年振りの同窓会
玉川理咲(学部 3年)

先日、三田キャンパスにて開催された「慶應義塾の英文学―安東伸介没後十年記念シンポジウム」に参加しました。

まず、河内恵子先生による開会の辞。安東先生との最後の会話に思わず涙してしまいました。そして、第一部では松田隆美先生の司会のもとで富士川義之先生、鷲見洋一先生、髙宮利行先生によるシンポジウム「ヨーロッパ文学研究の伝統」。非常勤講師の先生に対しても「慶應義塾で教えるのなら福翁自伝は必読だ」と発言する真面目さや、コミカルなイギリス人に憧れて鼻メガネを購入したという可愛らしさまで、安東先生の様々な一面が見える温かい雰囲気でした。

壇上のバックには安東先生の生涯を見せるスライドショーがたえず流れ、参加者たちがそれらの写真にまつわる思い出話に花を咲かせる一幕も。

幼稚舎から 60年間に渡り慶應義塾に携わった安東先生との思い出話をおなじみの英米文学専攻の教授の方々が楽しそうに話し、そしてその話一つ一つに頷き笑顔になる会場の方々。安東先生は多くの方々から愛されていたのだなあと実感した次第です。

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第二部
若き慶應と安東伸介
松原廣幸 (学部 3年)

今回のシンポジウムに集まったOBOGの方々は高齢にも関わらず皆若い時の創作意欲や文芸を愛する若さに溢れていたと思います。パネラーの先生方の話を聞くにつけ英文学者安東伸介先生の人物像が浮かび上がってきました。人は年をとるにつれて、「大きなもの」に吸い込まれていくように私には思われます。その、「大きなもの」とは、学歴であったり、企業であったり、名誉であるかもしれません。しかしながら、慶應にはそういった大きなものにとらわれずにものを書き続けるリベラルさとやんちゃさがあります。今回のシンポジウムで浮き彫りになった安東伸介先生は、そういった慶應の若さを愛する一方で、慶應の文学の土壌にある種の緊張感を与えてくれる人物像です。いくらリベラル、やんちゃと言っても、それが浮き足立ったものになってはなりません。

第二部のシンポジウム「人文学の未来」は宇沢美子先生の司会により、坂上弘、山内慶太、巽孝之、荻野アンナの諸先生を迎えて行なわれましたが、ここで巽先生は、「一見保守的でありながら、常に新しいものを見ている人」と仰っていました。安東伸介先生の教養主義や懐古主義と新しい物をみる眼差しのバランスの良さが、結果的に集まったOBOGの方々の品の良い若さに映し出されているような気がしました。

それが私にはすごくバランスがとれて味わいを出しているように思われました。慶應義塾で学ぶ者としてこの伝統を守って行きたいものです。

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語りの伝統、そして未来
細野香里 (修士課程 2年)

修士課程 2年に在籍する私は慶應義塾で学び始めて 6年目。安東伸介先生が幼稚舎からご退職まで、 60年間義塾に関わってこられたと伺うにつけ、その重みと、自分の存在の心もとなさに眩暈がする。直接安東先生にお会いすることがかなわなかった世代に属する私であるが、「慶應義塾の英文学」と銘打たれた先日のシンポジウムでは、ジャズや落語のご趣味など、安東先生についての多岐にわたるエピソードが語られ、その語りを通じて在りし日のお姿が形を成して現れ出てくるような印象を受けた。シンポジウムを通じて登壇者の先生方が繰り返し強調されていたのもまた、安東先生の語りの巧さだった。学問の業績は論文や翻訳ではなく、語りにあるのだとのお言葉もあった。積み重ねられてきた人文学の伝統が、語りによって教え伝えられ、さらに未来へと繋がれてゆく。私にはまだ誰かに語ることができる事柄は少ないけれど、自分がその末端に連なっている文学の伝統を意識しつつ、未来へと繋ぐ語り部の一人になれたらと感じた一日だった。

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懇親会
慶應英文学の声・安東伸介
田ノ口正悟 (博士課程 1年)

安東伸介。わたしは、その先生のことを知らなかった。 2007年に慶應義塾大学文学部に入学して、その翌年に英米文学専攻に進んで以来、修士課程、博士課程ともうかれこれ 6年以上も慶應義塾の英文科で学んでいた、というのに。

もちろん、安東先生がもともと英文科の教授であり、西脇順三郎・厨川文夫両教授に学んだ、日本を代表する中世英文学者であったことは知っていた。でも、それは知識でしかなかった。出会ったことはないが、授業などでその「武勇伝」をよく耳にする安東先生は、わたしにとっては、伝説や神話の登場人物のようにどこか遠く離れた現実味のない存在だった。

しかし、あることをきっかけに、わたしは安東先生をあらためて知ることになる。ぼんやりとしたその姿が、頭の中でしっかりとした像を持ったのだ。

それは、 2014年 1月 18日、先生の没後 10周年記念のシンポジウム後に催された懇親会でのことだった。会が進み、4人のご令嬢が父・安東伸介を語る場面になった。父の記憶を辿る彼女たちの語りは緊張していたものの、堂々としていた。そのとき、わたしはなぜだか分からないが、安東先生がそこにいるかのように感じた。

なぜ、彼女たちの語りは、わたしに先生をリアルに感じさせたのか。その時はよく分からなかったが、この謎に答えを出すことができたのは、今回この報告を書くにあたって、先生の著作を改めて読み直したからだった。先生が愛読されたというアウエルバッハの名著にちなんだ『ミメーシスの詩学』( 2013年)が興味深いのは、それが「著述集」と位置づけられている点だ。編集委員会による序文にもある通り、ひとりの学者による研究成果を集めた本を出版する場合、それは通常「著作集」とされる。しかし、安東先生は語ることで「文章では不可能な洞察」を行った希有な研究者であり、その魅力を遺憾なく発揮するためにその本は「著述集」と題されている。

この言葉の通り、先生の著述集には、チョーサー作品の徹底的な精読を行う論文が収められる一方で、先生の洒脱で流麗な講演や対談といった「語り」が豊富に収められている。重要なのは、語りと文学研究を重ねる安東先生のその姿勢は、慶應義塾の英文学の伝統が育んだということだ。恩師・厨川文夫先生との思い出を回顧した講演「学問」において、安東先生は中世英文学を志した理由を振り返るが、その理由というのはなんと、チョーサーの『カンタベリー物語』 に収められた「免罪符売りの話」を、ミドル・イングリッシュの発音で読む厨川先生の朗読があまりにも美しかったからだという。

安東先生の学問の根本は、厨川先生の朗読にあった。このことは、わたしにとって大きな衝撃だった。わたしにとっての文学は書かれたものであり、それを黙読することだったのだから。そして、学問というのは本や論文、すなわち書かれたものによって成立すると考えていたのだから。しかし安東先生は、厨川先生の口から発音されることで命を吹き込まれた文学の美しさこそが学問の基本にあり、その美を追い求める行為自体を学問と見ていたのである。

さて、話を戻そう。なぜわたしは、父の思い出を辿るご令嬢たちの語りに安東先生の姿を見たのだろうか。それは、わたしがその語りの中に、安東先生の学問への、すなわち文学への姿勢が再現される姿を見たからだった。つまり、安東陽子さん、典子さん、信子さん、桃子さん四人四様の真に迫った語りの「声」が、安東先生という、わたしたちの世代にとってはいささかぼんやりしていた像に立体的な命を与えたのだ。そしてそれこそが、西脇先生・厨川先生が育んだ慶應の英文学研究という伝統が、以後も生き続けるゆえんだろう。

2014年現在の英米文学専攻スタッフ、髙宮利行名誉教授を囲んで
(シンポジウム後の懇親会にて)

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【関連書籍】

『ミメーシスの詩学—安東伸介著述集』
著者:安東伸介
装丁:須山悠里
表紙写真:宮本隆司
判型:四六
頁数:266
出版慶應義塾大学出版会
刊行:2013年08月
価格:3360円(本体3200円+税)
慶應義塾大学出版会による本書詳細

エーリッヒ・アウエルバッハ著、篠田一士・川村二郎訳『ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、1994年)


エーリッヒ・アウエルバッハ著、篠田一士・川村二郎訳『ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、1994年)


ジェフリー・チョーサー著、桝井迪夫訳『完訳 カンタベリー物語〈上〉 (岩波文庫)』(岩波書店、1995年)


ジェフリー・チョーサー著、桝井迪夫訳『完訳 カンタベリー物語〈中〉 (岩波文庫)』(岩波書店、1995年)


ジェフリー・チョーサー著、桝井迪夫訳『完訳 カンタベリー物語〈下〉 (岩波文庫)』(岩波書店、1995年)


【関連リンク】
01/18:「慶應義塾の英文学―安東伸介没後十年記念シンポジウム」が三田
 キャンパスにて開催:第二部「人文学の未来」に巽先生ご登壇(CPA:
 12/31/2013)
慶應義塾大学藝文學會
慶應義塾大学文学部英米文学専攻
慶應英文学会
慶應義塾大学出版会
慶應義塾英文学を代表する故安東伸介先生の著述集『ミメーシスの詩学』
 (慶應義塾大学出版会)刊行(CPA: 08/31/2013)