2015/01/10

Book Reviews『サイボーグ・フェミニズム』


『サイボーグ・フェミニズム』
著:ダナ・ハラウェイ、サミュエル・ディレイニー、ジェシカ・アマンダ・サーモンスン
編訳:巽孝之、小谷真理
トレヴィル、1991年
増補再版、水声社、2001年

今回とり上げるのは、1991年に刊行、2001年に増補再版された名編著『サイボーグ・フェミニズム』です!本書は、1991年第 2回日本翻訳大賞思想部門を受賞!その模様は、『翻訳の世界』第 17巻第 6号(1992年)に掲載されています。

以下では、当時の書評を振り返りながら本書の真髄に迫ります。さらに、本ページ末尾では、1991年に行われた巽先生へのインタビュー「サイボーグ・フェミニズムとは何か」と、同年エッセイ「私の訳した本——境界を脱構築する米国フェミニズムの一潮流」を特別掲載。なにとぞお見逃しなく!

【本ページコンテンツ】
  • 書評集
  • 特別掲載 1 インタビュー「サイボーグ・フェミニズムとは何か」(『図書新聞』通巻 2062号 1991年 7月 20日)
  • 特別掲載 2 エッセイ「私の訳した本——境界を脱構築する米国フェミニズムの一潮流」(『翻訳の世界』1991年 6月)
  • 関連リンク
  • 関連書籍

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【書評集】

挑発の書である。… ここに収録された同時多発的な発言は、その後、それぞれの対話に発展、結実したというが、編著者であり、スカラー/SF 人としての巽孝之は、ここでもネットの中の島々を交通する機能として働いていく。彼はかつて、クロスオーヴァ・メディア(というより、その震撼装置)としてのサイバーパンクについて、すぐれた現認報告書を日本(われわれ)に発信した。その孝之がふたたび時代を挑発しようとしているのだ。耳を傾け、ともに遊び、そしてともに消費する値打ちは十分にある。
(野阿梓 Noah's Work / 全文

『サイボーグ・フェミニズム』に収められているのは、「性と機械」をめぐる強靱で刺激に満ちた議論の数々である。とりわけ、ダナ・ハラウェイの歴史的名論文である「サイボーグ宣言」が完訳されたことは嬉しい。
(西垣通『太陽』第 372号 1992年 6月)

ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」、サミュエル・ディレイニーの「サイボーグ・フェミニズム」、アマンダ・サーモンスンの「なぜジェンダーを呼び戻すのか?」の三論文は、来たるべき脱性差時代の政体=生体政治学のプレテクスト。
(木村重樹『ガロ 8月号別冊 Remix』第 5号 1991年 8月 17日)

ハラウェイが自分の雑誌論文に手を入れて本にしたばかりのいまの時点で、そのオリジナルを独自に編集して訳出したいま感覚と、これにディレイニー、マキャフェリーの重要論文を加えたセンスのよさ。この手の本がバンバン出ないと、出版界は滅びる。
(粉川哲夫『図書新聞』通巻 2064号 1991年 8月 3日)

この評論集はさまざまな意味で、象徴的である。たとえば、ハラウェイの評論は社会主義評論誌に載り、多くのフェミニストに影響を与えたが、SF サイドから反論を書いたディレイニーは黒人ゲイ作家、またサーモンスンは性転換作家というように、どの評論も、旧来の価値観とは異なった、新鮮で多様な視点から論じられており、興味深い。何れにせよ、早くからこれらの動向を見極め、本書を企画した編者の見識を、まず評価すべきだろう。
(岡本俊弥『SFアドベンチャー』第 13巻第 9号 1991年 9月 / 全文

… 本書は、巽孝之の編によって極めてスリリングな内容が提示された一冊となっている。… 数多の翻訳出版が成され、文化の制度的交通性が消費されていくなかで、巽が目論んだ編纂技術の有効性は、ハラウェイが意図する生命複合体を情報工学によって再編するというメソッドや、SF 的修辞学の最前線を充分に意識しつつ、編者というスタンスの能動的な機能を有効化している点である。もちろん、こうした編者のもつダイナミズムはテーマ論集の場合、最も大きな評価軸になるのであるが、おそらく日本の文化制度の中で、こうした編纂技術の「視点移動」が光ってくるケースは数少ない。
(武邑光裕『週刊読書人』第 1895号 1991年 8月 12日)

巽孝之の単行本デビュー作『サイバーパンク・アメリカ』の優美さは、その劇場性にあった。サイバーパンク登場まもないアメリカ SF 界のざわめきを、西へ東へ飛びまわりながらインタビューに収録し、編集し脚色し、色気たっぷりの前口上と後口上をそえてプリゼントした。その華麗なフットワークから一転。『サイボーグ・フェミニズム』の巽は足を止め、一発のパンチにかける。そのパンチとは、ダナ・ハラウェイが、1985年に発表した衝撃的な長論文「サイボーグ宣言—1980年代における科学とテクノロジー、そして社会主義的フェミニズムについて」の訳出だ。… ハラウェイ論のテンションの高さにグイグイひっぱられてきた読者は、ディレーニの冷徹な批判と補充を通すことで、それが一たん砕け散るのを感じることだろう。そして彼女のサイボーグ宣言が、なにも「真理」を提示して読者を屈服させるのを目指したものではなく、それ自体「擬体」と「操作」の心性に貫かれているのだということを理解することだろう。
(佐藤良明『マリ・クレール』第 107号 1991年 10月)

これはまさしく世紀末にこそふさわしい怪物(キメラ)的な本だ。
(無記名『徳島新聞』1991年 7月 8日)

ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」(巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム』トレヴィル発行・リブロポート)を読めばもっとよくわかる筈だけど、フェミニズムの方じゃ、女性が他ならぬその女性性に裏切られたり、女性間で階級差別があったりして、男女の差(ジェンダー)ってものが次第に歴史的神話になりはじめてきた。今はもう性差撲滅じゃなく、領界侵犯でなきゃなりません。そのためには機械との共生も辞さないという女性からの宣言なの。過激だよねえ。でも、今や社会的にも医学的にも生物学的にも経済学的にも、男と女、機械と人間、生者と死者、人間と動物、有機物と無機物といった二項対立が解体しはじめてます。... 機械はすでに女性であり、女性的能力であり、女性的肉体能力の一側面であるっての。だからわたしは「女神よりサイボーグになりたい」っていうんだけど、どう、凄いでしょう。
(筒井康隆「文学部唯野教授の女性問答」『婦人公論』第 76巻第 9号 1991年 9月)

ハイテク時代の男女の性差を考察した本。ハイテクの発達が人間と機械の境界をあいまいにし、さらには性(セックス)という自然、性差(ジェンダー)という文化の装置をも解体してしまう。「世界」の読み替えを迫るラジカルな一冊だ。
(与那覇恵子『ダカーポ』第 244号 1992年 1月 1日)

フェミニズムを政治的に論じることに限界を感じている人々は、イマジネールな領域でフェミニズムを論じる本書を、ラディカルな政治の本として読んでもらいたい。なんだ SF か、というなかれ。現代はまぎれもなく SF 的時代なのだから。
(北野麻緒『北海道新聞』1991年 7月 7日)

… 本書は、フェミニズムや社会主義についての従来の発想を転換する貴重な試みである。社会主義とはそもそもが、「空想的社会主義」と「科学的社会主義」を起源としていたということで言えば、本書は、社会主義の正統をゆくものだ。社会主義はもしかしたら、意外なところから意外な方向をもって新たなムーヴメントを形成するかも知れない、そう予感を抱かせる作品である。
(小倉利丸『週刊読書人』第 1894号 1991年 8月 5日)

… SF という想像力も政治・経済・文化などさまざまな社会の欲求から切り離して考えることはできない。SF にも大衆の欲求が底流に流れ、また SF を読み解くことによって大衆の無意識が浮かび上がってきたりするのだ。しかしそうした研究を目にすることは少ない。というわけで、SF という想像力とフェミニズムという社会現象との相互関係を論考したこの本は、そういう意味でも貴重な一冊である。
(無記名『Talking Head』第 13巻 第 3号 1991年 7月 20日)

… 読み進めていくと明らかになるのだが、編者(巽孝之)はハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム宣言」のコンテクストを、ディレイニー、サーモンスンさらに自身の評論を巧妙に配して、アン・マキャフリィの連作長編『歌う船』を中心とした SF 論の方向に論点をずらしていく。そこで明らかになるのは、テクノロジーと性—政治学との深いかかわりの中での SF の今日的(同時代的)意義/意味性である。そこでは、<マイナー文学(ドゥルーズ)>としての SF の挑発性がかなりの面で明らかになっている。
(志賀隆生『Studio Voice』第 188号 1991年 8月)

「サイボーグ・フェミニズム」なる視点は、ジャンル横断的な論争を可能にする稀有な批評装置であることはまちがいない。本書自身がそのスリリングな証明なのだといってもいい。… 知的興奮と刺激に満ちた異色の SF 論集である。
(大森望『毎日新聞』1991年 6月 18日)

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【特別掲載 1】
巽孝之インタビュー
サイボーグ・フェミニズムとは何か
『図書新聞』通巻 2062号 1991年 7月 20日

——関係性解体の関係性——
3年前、『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房)の第 10章で、サミュエル・ディレイニーを中心に彼の「サイボーグ・フェミニズム宣言」を特定しようと試みたのですが、以後この問題は、もういちど考え直さなければいけないと思っていました。

もちろんサイバーパンクはウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリングを中心とする 80年代 SF 運動で、サイボーグ・フェミニズムはダナ・ハラウェイ、ディレイニーを中心とする 80年代アメリカ思想ですから、相互補完的なところはあるにせよ、基本的には同時多発現象、ともに 80年代半ばに同じ時代精神の別の表象形態として勃興してきた多くのものの部分にすぎません。ポストモダンの特質を「大きな物語」に準ずるイデオロギーの解体と片づけてしまえばそれまでですけれども、とはいえ同じ側面を再認識するにせよ、たとえば従来のビッグサイエンスのように「巨大な科学」が今日のナノエンジニアリングのように「微小なる断片」を組み直すテクノロジーによって革新されていく方角をも射程に入れつつ、ギブスンとハラウェイは不可欠にして不即不離の「物語表現」を提出した。

冗談めかすなら、サイバーパンクがあくまで電脳ヤクザを主役に「人間—機械共生系」(マン—マシン・インタフェイス)の方向から 80年代を幻視したとすれば、サイボーグ・フェミニズムはハイテク産業に酷使される有色人女性を主役に「人間—機械交接系」(マン—マシン・インタコース)の方向から 20世紀末を預言する体系でしょう。同じ境界解体でも、前者がテクスチュアリティの次元で二項対立を脱構築するいっぽう、後者はあくまでセクシュアリティの次元で「自然」と「文化」の歴史的再構築を加えてみせる。

このあたりの両者の理論的相補性は、ほとんど 80年代思潮全般の推移を彷彿とさせますが、いずれにせよ肝心なのは、人間—機械とのあいだにはもはや制御—服従に還元される関係性さえありえないかもしれないという、関係性解体の関係性です。現代的主体が高度に制御された言説政治学の産物となりはてている苦境を打開しなければならないと錯覚できるていどには、すでにわたしたちは高度に制御されつくしている。こうした文脈を持って初めてハラウェイ的な「われわれはすでにサイボーグだ」という宣言が意味をもつ。

——主体の位置をサイボーグに——
これまで「サイボーグ」といったら、ハイテク人工器官と接合された肉体であり、絶好の SF 的ガジェットでした。じじつサイバーパンク小説では、電脳空間に直接ジャックインできるよう肉体改造した悪漢カウボーイが登場する。

しかし、ここで再注目すべきなのが、ギブスンの短編「冬のマーケット」の中で、自分の無意識を切り売りして暮らすサイボーグ女性がクローズアップされていることでしょう。基本的に身体障害者である彼女は、肉体を制御する外骨格(エクソスケルトン)がなければ満足に動作することすらできない個人ですが、その彼女が何かしらポストモダンの時代精神一般を再表現する記号としても、啓発的に描かれている。ここでギブスンが把握した主題は、60年代のアン・マキャフリィ作品『歌う船』から、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「接続された女」やロラン・バルトの『 S/Z 』、最近ではデイヴィッド・ヘンリーの「モスキート」などにまで長く広い射程で散見されるサイボーグ・ジェンダーの問題ではなかったろうか。そんな思い入れもあって、『サイボーグ・フェミニズム』の表紙にも、まさに「冬のマーケット」が  85年、英国 SF 誌『インターゾーン』初出のさいに付せられたジム・バーンズのイラストを用いたのです。

もちろん、サイボーグ・フェミニズムという単語の組み合わせは、奇怪な第一印象を与えるかもしれません。けれど、それに対応するのに、テクノフィリア(機械溺愛)やテクノフォビア(機械嫌悪)をむきだしにするのは、いずれもあまりふさわしいとはいえない。ポストモダン最大の二項対立解体が、自然/文化、人間/機械、男性/女性ならぬイデオロギーとテクノロジーの共犯関係にひそむとしたら、議論を進める主体の位置をまず人間ならぬサイボーグと再設定する戦略を採らなければ何ひとつ始まらないのではないか、というのがハラウェイの提唱する思想です。それに同調する動きが、目下エリザベス・ウィードやメアリ・ジャコウバスといったフェミニスト批評家のみならず、教育論やポップカルチャー研究においても目立ち始めている。

——ジェンダー政治学——
してみると、フェミニストというのはいつもサイボーグ的なるものではなかったか。ハラウェイが「われわれはすでにサイボーグである」というとき、それは「われわれ女性たち」の言い分だった可能性が高い。サイボーグ的な主体の炸裂というのがフェミニニティの成り立ちそのものだったとすれば、フェミニズムとはいつもすでにサイボーグ的なるものを探求する言説だったのではないか。

じっさいハラウェイは、文学者が文学的レトリックを研究するように、科学的言説史を分析しようとします。科学というシステム自体が男根ロゴス中心主義の言説効果にすぎず、ということはわれわれが人類と思っている範疇も人類以外を制圧するための霊長類的オリエンタリズムの言説効果、肉体と思っているものも西欧的生物学の言説効果、ひいては女性のオーガズムを必要とする側の言説効果にすぎない、と彼女は断言する。サイボーグ・フェミニズムはバイオフェミニズムでもいいし霊長類学的フェミニズムでもかまわない。大切なのは、テクノロジーがイデオロギーをたゆまず再形成するいっぽうで、一定のイデオロギーが当のテクノロジー内部にあらかじめ刷り込まれている可能性をも決して捨象しない姿勢です。そのかぎりで、ハラウェイ以後のジェンダー政治学こそは、きわめて有効な批評的方向性のひとつではないでしょうか。

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【特別掲載 2】
巽孝之 私の訳した本
境界を脱構築する米国フェミニズムの一潮流
『翻訳の世界』1991年 6月

「訳した本」といいきるには、少々気がひける。このタイトルで知られる「本」が英語圏のどこかで実在したわけではないからだ。ただ、素材とした論文群からサイボーグ・フェミニズムという呼称が自然と浮かび、同題の本が自然と編まれてしまった。強いていえば、これは今日ありうべき、しかしいまだ命名されざる米国フェミニズムの一潮流のコンテクストを翻訳した書物ということになるだろうか。

ことの起こりは、編者がコーネル大学留学中の 1986年秋。敬愛する作家・批評家サミュエル・ディレイニーが同じキャンパスで一学期間だけ SF クラスを担当するという僥倖に恵まれた。しかも、彼は当時の話題を独占していたサイバーパンクを主題に、ポスト構造主義批評の方法を華麗に展開してみせたのである。そのさい資料のひとつとして配付された論文こそ、当時『社会主義批評』誌に発表されて間もない、カリフォルニア大学サンタクルス校教授ダナ・ハラウェイによる「サイボーグ宣言」であり、それを素材に彼が克明な解釈を与えてみせた講演草稿こそは「読むことの機能」(邦題「サイボーグ・フェミニズム」)にほかならない。

ハラウェイ論文とディレイニー論文を並べて訳出できたらおもしろいね、という会話は、 87年ごろから小谷氏と交わしていた。わたしはアメリカ文学・批評専攻で彼女は生物薬品製造学専攻、しかも双方 SF ファン。ハラウェイ論文とディレイニー論文は文学と科学の境界を脱構築しつつ SF 的フェミニズム批評/フェミニズム SF 論の今日的可能性をさぐるテクストゆえ、単独訳ではたいへんだが共訳だったら何とかなりそうな気がしたのだ。折も折、『現代思想』編集長(当時)の西田裕一氏の要請で、同誌 9月号「セックスの政治学」特集号のために、じっさいハラウェイ/ディレイニー両論文を訳出する機会が与えられる。それと前後した暑い夏の盛りだったと思う、88年の拙著『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房)を読んだトレヴィルの川合健一氏から、サイボーグ・フェミニズムを主題い一冊にまとめてみたいという申し出を受けたのは。

以来、丸 2年近く。性転換作家ジェシカ・アマンダ・サーモンスンの論文も併録することにして、やっと完成したのが本書である。川合プロデューサーの尽力で、デザインも特別美麗。あとは内容のほうも遜色なく読めるものになっていることを、ひたすら祈るばかりなのだが。

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【関連リンク】

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【関連書籍】
ダナ・ハラウェイ、ジェシカ・アマンダ・サーモンスン、サミュエル・ディレイニー/巽孝之、小谷真理編訳『サイボーグ・フェミニズム』(トレヴィル、1991年;増補版、水声社、2001年)


巽孝之『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房、1988年)


巽孝之寄稿「サイバーバンク30周年——ヴァンクーヴァー、オースティン、ロンドン」『SFマガジン 特集 30年目のサイバーパンク』(2014年11月号)

ダナ・ハラウェイ、永野文香訳、波戸岡景太解説『伴侶種宣言―犬と人の「重要な他者性」』(以文社、2013年)


巽孝之 × ギブスン傑作対談 "Eye to Eye: An Interview with William Gibson" (1986) 冒頭所収!Patrick A. Smith, ed. Conversations with William Ginson (UP of Mississippi, 2014)


巽孝之編著『ウィリアム・ギブスン (現代作家ガイド)』(彩流社、1997年;改訂増補版、2015年5月刊行予定)