2016/06/20

【写真を追加しました!】Book Reviews『現代 SFのレトリック』


『現代SFのレトリック』
四六判、276頁
岩波書店
本体 3,900円 + 税
1992年 6月

今回とり上げるのは、1992年に刊行され、このたび復刊された名著『現代SFのレトリック』です!以下では、1992年初版刊行当時に発表された書評群、および巽先生による 2つの「謝辞」を特別掲載いたします!

CONTENTS
  • 書評集
  • 謝辞1:『現代SFのレトリック』出版記念会(巽孝之『日本SF作家クラブ正会報』)
  • 謝辞2:新著余瀝(巽孝之『三田評論』1992年 12月)
  • 写真集:『現代 SFのレトリック』出版記念会(1992年 7月 2日@ LOVE & SEX)
  • 関連リンク
  • 関連書籍



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書評集

巽孝之の新著『現代SFのレトリック』は、『サイバーパンク・アメリカ』(著者によれば、1980年代 SF運動を現場証言するルポルタージュ)、『サイボーグ・フェミニズム』(同じく、80年代的思考を裏付ける文脈を編訳したブリコラージュ=再構築仕事)などの SF研究・批評作業を前提とした第一評論集である。長年、SF論や SF批評に情熱を傾けてきた著者による最初の収穫として、本書の完成を喜びたいと思う。
笠井潔『北海道新聞』1992年 7月 19日

著者・巽孝之は、慶大で米文学を教える気鋭の研究者。一方、長い活動歴を持つ SFファンとしても知られており、緻密な文学観と豊富な SF知識のダイナミズムから紡ぎ出される論理の綾は、スリリングかつ刺激的だ。冒頭、B・J・ベイリーを糸口に J・ティプトリーへと至り、さらに S・レムや J・G・バラード、 P・K・ディックなど、現代 SFの巨匠たちを経由して、サイバーパンクの旗手 W・ギブスンをオーバーテイクし、未知の魅力を秘めた新鋭 R・コールダーヘと論を進める構成は、現役の批評家が、その複雑さと微妙さゆえに、判断を留保してきたかに見える、“現代” SFの潮流を、見事に総括するものになっている。
川又千秋『産経新聞』1992年 7月 4日

いま世界で最も光っている SF評論家が、世紀末の社会状況の中で、あまりにもシリアスな問題意識とポップな表象徴形態のために<見えないジャンル>となり、文化の地層に姿をくらましてしまった SFの現場を臨床報告する。
石川喬司『日本経済新聞』1992年 6月 28日 

かように本書は SFが現在小説(主流文学)と同化・普遍化し、「見えないジャンル」と化したことを主張しているのだが、その論旨の背後に一貫して流れているのは、あくまでもジャンル解体=枠組みの破壊の問題であることは明確である。サイバーパンク、タナトイド、ガイノイド、ナノテク、ジェンダー、スリップストリームといった、著者が喧伝する新しいコンセプトの数々がすべて脱領域の概念であることがなによりもその証左である。したがって、本書は現代 SF論であり、また現代文学論であるとともに、優れたポストモダニズム論でもある。本書のような卓越した SF=ポストモダニズム小説論を著した巽氏と同時代を生きる我々 SFファンおよび英文学徒は幸福であるといわねばならない。
風間賢二『図書新聞』1992年 9月 26日

かのブルース・スターリングが現代文学とサイエンスフィクションの境界線上の作品を<伴流文学>と称して以来、日本でもこういった前衛性と大衆性を兼ね備えた(と、される)小説が多々訳出されてきたけれど、決して商業的に成功したとはいい難いし、一方で<大衆>とか<前衛>といった規範じたい、日々解体されてゆく。そんな時代に、SFというカテゴリーロマンスの可能性の中心と境界を定めるのは容易ではなかろう。ともすれば批評言語の遊戯に陥りかねないサブジャンル研究としての SF批評に、巽氏は終始慎重なスタンスで臨む。未来どころか現代を描くレトリックと化しつつある SFの現場を、文化の深層に根ざした SF的イデオロギーの文脈を「終焉しない物語」の最前線として見据えていく眼差し。だからこそ本書は今まさに読まれねばならない。
木村重樹『REMIX』1992年 8月 

一冊の SFが、それが読まれはじめたとたん、読書するあなたの今いる世界そのものを消滅させる。そういう感覚。巽さんの歓ばしき批評姿勢は、素直にその至福感覚を認めていると思う。従って、この書『現代SFのレトリック』の中で語られている言語は、作品×読み手(巽孝之)=融合世界——の内部言語である。今もっとも先に進んでいる現代批評言語と解析法を駆使し、巽さんは、作品×読み手=融合世界の豊饒さを証明するのだ。実作者としても励まされる一書である。なぜか。本書で論じられた諸例に共通するのは、SF内宇宙発見後の諸作品である。大脳二百万個の細胞を繋ぐ新シナップス回路の開削によって、われらの SF宇宙が、今なお無限地平の世界であることを気付かせてくれるから……。
荒巻義雄『SFマガジン』1992年 10月

<現在>の SF性、SFの現在性、現代批評の SF性。本書で著者はこの三領域を一気に駆け抜ける—現場報告の生々しさと事後報告の冷静さを交えたスタンスを駆使して現代の SFを語りながら、めくるめく速度で。このような試みにふさわしい書き手が著者をおいて他にいないことを、おそらく誰もが認めることだろう。そしてさらに付け加えるなら、この試みに著者が成功していると書いても、おそらく誰も異存はないだろう。
大崎洋一『読書人』1992年 8月 10日

最新の文学研究の方法論にのっとって、学術的な論考の手続きを踏まえながらも、至るところで SFファンとしての情熱を火花のように飛び散らせる文章。本書の魅力は何よりもまずそういった、理論と実践の融合を可能ににする独特の文体にあり、時としてかなり難解で悪文に近しい印象を与える箇所があるにもせよ、論じられている対象の「レトリック」に相応しいレトリックを著者が若武者のような勢いで一貫して繰り広げていく様子は、ともかく壮観である。巽氏は後書きで、本書は体系的な現代 SF史ではなく、一種の「現場証言」である、と謙遜しているが、このような理論的水準で書かれた「現場証言」は、少なくとも日本ではまったくなかった。SF批評史上、記念碑的な一冊である。
沼野充義『新潮』1992年 9月

現代に生きながら文学を考えるには、テクノロジーが「自然」の中に織り込まれ、思想も信仰も情報と化して消費経済に組み込まれ、メディアが「見えないスーツ」として肌の下にまでくいこんできている、そうした現実に歓喜したり驚嘆したりしないクールさが必要だ。SF化した現実の陳腐さを感じとり、科学の名でオーソライズされた物語の倒錯を自明のこととし、自らの文学的感動もセンス・オヴ・ワンダーも、すべて自走する文明システムに組み入れられていることを認識した上で、激しく形を変えつつある文学と批評のありようをマップしていくこと。本書はそれに徹している。とにかくリソースフルである。(中略)情報が爆発する現代と本気で交わらなければ、これだけのマテリアルは積み上げられない。僕自身が遠巻きにして眺め、沈思黙考してきた題材のなかへ、とにかく巽氏は飛び込み、具体的な細部にまみれながら、そのゴタゴタと格闘を続けている。その勇気と元気に拍手を送りたい。
佐藤良明『英語青年』1992年 11月

量子力学、神経生理学、ポスト構造主義、フェミニズム理論、新歴史主義をはじめ、それこそ読者が瞠目するしかない多分野における最新の学説を援用しながら、かといって狭隘な悪しきアカデミズムに陥ることなく、SFファンの心意気を忘れない伸びやかな文体をもってこそ、ポストベトナム的表象ともいうべきタナトイドをはじめとする、本書に見られる数々の SF的な発見がなされたのである。さらに、巽氏の一流レトリックを応用させていただけるならば、氏がそうしたキマイラ的な修辞学を発見したのではなく、「科学もまた一種の物語営為」と見なす時代こそ、科学と文学の境めが不鮮明になった現代こそが氏独自の弁論術を要請したというべきか。そういう意味で、本書はただ現代 SF批評の一成果というのではなく、科学サイエンス文学フィクションの思想に関心を寄せるすべての読者に向かって開かれている。
越川芳明『時事英語研究』1992年 10月

コンピュータ・ウィルス、エイズ、ヴァーチャル・リアリティ、無国籍化してゆく都市、ナノ・テクノロジーなど、SFで語られたファンタジーや悪夢が現実化へ突き進んでいる現代の SF、もしくは SF状況の現代を読み解くというよりは加速的に走査しながら、その輪郭をグリッド状の全体像のように浮かび上がらせていくのは、サイバーパンクをはじめ現代文学と化した SF評論の第一人者。本書はその第一論集となる。ファンには随所に参照される現地生情報が嬉しいだろう。
『Fool’s Mate』1992年 9月 

「実はこの本を読んで、長編小説のネタを一本拾っちゃったんです。なるほどこういう手があったのかと。本になったら、巽さんに何かお礼をしなきゃいけないけれど、とりあえず、ここで感謝の念を表明しておきます(笑い)」
——書き手に霊感を与えれば、評論家冥利に尽きる。
『腐りゆく天使』 。タイトルはとっくに決まっています。心に傷を持った牧師がいて、彼の教会の裏に大きな天使がいて、彼にしか見えない。その牧師が悪い心を持ったときに、その天使がだんだん腐っていく……。ずいぶん前から温めていた構想なんだけど、天使が腐っていくイメージを具体的にどう小説化すればいいかで行き詰まっていたんですよ。ところがこの評論集をよんで、“獏チャンこういう筋立てはどう?”って巽さんが教えてくれたってわけ」
夢枕獏『週刊ポスト』1992年 8月 7日

巽孝之は共感呪術師である。共感呪術といのは、けものの絵を描いて狩猟の成功を祈ったり、人形を使って人を呪ったりする魔術のこと。似ているもの同士のあいだには神秘的な関係があるから、一方が他方を呼びよせる、という考えかたが背後にある。因果関係ではなく、類似が重視されるわけだ。これを言語に適用すると、地口や駄じゃれや語呂あわせが生まれる。巽評論の推力は、じつはこの共感呪術的な感性ではないか。氏の第一評論集『現代SFのレトリック』を読んで、つくづくそう思った。(中略)まこと刺激的な論考であり、最新の批評理論を駆使しながら、たんなる応用篇に堕していないところは、さすがというほかない。
中村融『SFマガジン』 1992年 9月

本作は『サイバーパンク・アメリカ』『サイボーグ・フェミニズム』等で、すでに充分にその先見性と時代性を知られる巽孝之の初の評論集となる。修辞学としてのサイエンスフィクションを顕在化させたのは、どのような言語空間の変容だったのか。「メタ」のレベルにおいて、「詩」のロジックと「SF」のロジックを対比させることなどにより鮮やかに描き出される。
谷崎テトラ『すばる』1992年 9月

今回の本を卒読して気づいたことだが、巽孝之によるルビの振り方はなかなか独創的である。いかにも英文学徒らしい抑制された文体のなかにちりばめられたルビ。あてずっぽうに本を開いてみても、疑似文学パラリテラチャー語読力イマジネーション記号の網の盗賊サイバーパンクどこかの網の目サイバースペース…この言語感覚はまさにわれわれが翻訳でサイバーパンクを読むときに味わっていきたものではないか。擬験シムステイム皮膚電極ダーマトロード没入ジャックイン…このようにわれわれ漢字文化圏のサイバーパンカーは、漢字とルビが織りなす眩惑でもって、“網の目のなかの何処かの国”に向かって情報操作してきたのである。エクリチュールと概念の“地域特性”を活かしつつ、SFの地政学的力戦を引くこと。
上野俊哉『Studio Voice』1992年 9月

学者で研究家で評論家で、そして現役の SFファンである彼だから、できた仕事だろう。並大抵の愛情や情熱ではできない。底辺には SFばかりでなく文学全般への広範な知識が必要だが、それだけで可能なことでもない。SF観の相違をみて「ふふん」と笑うゆとりを与えてくれない。「こういう読み方があったのか」と自己嫌悪に陥ることさえ許してくれない。ただ脱帽するばかり。この一冊、巽孝之著作品といものを超え、日本 SF界の大きな収穫となった(もちろん、これからより一層大きな仕事を彼がするであろうことも承知の上で)。こうした評論集が出版される現実を見れば、SFの未来は明るいという気がしてくる。文句なく、夏休み必読課題図書である。巽君、あんたはえらい!
『新潟 BAMU』1992年 6月 17日

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『現代SFのレトリック』出版記念パーティ謝辞
(巽孝之『日本SF作家クラブ正会報』)
※1992年 7月 2日@ LOVE & SEX

本日は雨の中、近くから遠くから、いっぱいお集まりいただきましてほんとうにありがとうございました。また、筒井康隆さん、田中光二さん、合庭惇さん、石川喬司さん、柴野拓美さん、それにラリイ・マキャフリイさん、お祝辞を賜りましてまことに感謝に絶えません。

ええと、わたしは現在、文学部ただの助教授でありますが、それと同時に、ただの SF評論家でありまして、ほんらいならばこのような晴れがましい席をもうけていただくのはあまりにもおこがましい。といいますのも、ひとむかしまえというか、あれはふたむかし以上まえでしたか、SFというジャンルがまだ日本であまり認められていない時代には、それこそ SF作家のあいだで「士農工商 SF作家」という階級制度が暗黙の了解に認められておりました。どのようなハイラルキーのなかであっても SFはいちばん最下層なのであると、まあそういうニュアンスの皮肉を、SF界じたいが楽しんでいたわけです。ですから、そのいいかたを拝借しますと、SF評論家などは、「士農工商 SF作家 SF評論家」という位置付けになりまして、もうかぎりなくアンタッチャブルな存在というか、そもそもそんな職業が成立するかどうかということさえ疑わしいわけです。

にもかかわらず、SF評論という分野に足をつっこんでから、もう 10年以上になります。それまでにも同人誌などいわゆるアンダーグラウンドのメディアでの活動を入れると 20年以上になってしまいますが、具体的には、『SFマガジン』や『SFアドベンチャー』といった SF専門誌で書評を担当し始めたのが 1982年ですから原稿料というものをいただくようになって 10年、つまり SF評論家としてデビューしてから今年がちょうど 10年にあたるというわけです。本日司会をして下さっている関さんとはそれ以来のつきあい、彼にしても 10年を経てこんど新生『SPA』の編集長になるわけですね。

考えてみますと、今年はさまざまな意味で  10年経っている。フィリップ・K・ディック没後 10年、『ブレードランナー』公開後 10年、『ヴァリス』が翻訳されてから 10年。ということなのですが、わたし個人にかかわりあるさまざまなできごとにおいてもちょうど「10年」たっています。まず、そもそも今年はわたしが慶應義塾大学というところへ助手として就職してからちょうど  10年。当時は、日吉の一般教養課程に所属しておりましてアメリカへの留学もそこのシステムでさせていただきました。また、帰国後も時間がありあまっており、一般教養で何でも好きなことを教えていいクラスがあるというので、ずばり「SF」の講座を 1年間開設したりしております。しかし 89年に三田の専門課程に移籍せよという話がもちあがり、今日のようにアメリカ文学の専門科目だけを教える羽目になったわけです。慶應義塾大学の文学部英文科というのは、西脇順三郎・厨川文夫の伝統に根ざしておりますから、ひとことでいって「中世英文学にあらざる者は人にあらず」という気風が支配しておりまして、ここの言説空間におきましてはそもそもアメリカ文学でさえ文学的には最も低級なのだから SFなどはもってのほかである、というニュアンスがございます。わたしはまったく何をまちがったのか、いまそのような環境でくらしているのでありまして、公には SFの講座をもつことはできません。もちろん SFを教えてもいいのですが、専門課程というのはいったい何のせいだかよくわかりませんが、あんがい情緒不安定、自殺志向のある学部生・大学院生というのが少なからずおりまして、いつ窓から身投げして空飛んじゃうかわからない。そのような状況で SFなど教えましたらますますアタマのおかしい学生がふえる可能性がございます。

さて、もうひとつ 10年ということで挙げておきたいのは、SF評論専門の商業雑誌『SFの本』がスタジオ・アンビエントから創刊されて今年が 10年ということですね。この雑誌は残念ながら  9号で休刊してしまったのですが、志賀隆生さんを編集長にして大宮信光さんや新戸正明さん、中井紀夫さんや福本直美さん、川崎賢子さんといったそうそうたるメンバーが群れ集まっていたきわめて野心的なメディアで、わたしもその隅っこにまぜていただいていたわけです。この『SFの本』に自由に書かせていただいたり、当時永田弘太郎さんを中心に同じメンバーでやっていた読書会「トーキング・ヘッズ」に出席させていただいたりしたことが、今日にいたるまで SF批評をつづけていくことになったきっかけのひとつであるのはまちがいありません。

で、さいごに『SFの本』とも関連するのですが、今年が笠井潔さんの SF評論集『機械じかけの夢―—私的 SF作家論』が講談社から出版されて、やはり  10年目にあたるんですね。もちろんわたしは、60年代には柴野拓美さんや山野浩一さん、荒巻義雄さんの SF評論を読んで育った世代なのですけれど、70年代半ばから 80年代初期といいますと英米のいわゆる構造主義以降のアカデミックな SF批評家たち——いまではすでに邦訳もあるロバート・スコールズやダルコ・スーヴィン、パトリック・パリンダーら——がさかんに活動していたころで、むしろそちらのほうを貪り読んでおりました。そこへ笠井さんのご著書があらわれて、英米ともゆうに匹敵する SF批評がとうとう日本にも現れたと思ったものです。その意味では、わたしをして SF批評の同時代的可能性にめざめさせてくれたのは笠井潔さんだったかもしれません。

それ以降のことは、最初の本『サイバーパンク・アメリカ』でも書いたとおりです。1984年から 1987年まで、わたしは SFをいったん忘れて 19世紀アメリカ文学と現代批評方法論の研究に真剣に取り組むために留学したはずなのに、コーネル大学大学院在籍中に、サイバーパンク運動に立ち会ってしまう。そればかりか、たまたま取ったヘンリー・ルイス・ゲイツ教授のアフロアメリカ文学のクラスで、サミュエル・ディレイニーの本が課題図書に選ばれていたりする。それについて書いたレポ—トをもとにして徹底的に加筆改稿したのが『現代 SFのレトリック』第二章です。また、それにつづいて、敬愛するディレイニー自身がコーネル大学の訪問教授になったので、そのクラスを受講することもできた。だからわたしにとって SFといのは、どんなに忘れよう忘れようと思っても絶対に逃げることのできない、知らず知らずのうちに人生の端々を決定してしまっているような何ものか、とでもいいましょうか。これからの 10年間がどうなるかわかりませんが、以後の予定としては、たとえばアメリカ植民地時代の文学の研究書であるとか、メタフィクション論であるとか、現代批評方法論であるとかを出していくことになっています。いずれも SFとは直接関わらないように見えるかもしれませんが、にもかかわらずいずれの分野においても、わたしの「批評」において「SF的思考法」が重要なメタファーをなしていることだけは、たぶんこんごも変わらないと思います。

また、今年はずいぶん SF評論集があいつぐみたいで、年末までに小谷真理の第一フェミニズム SF評論集『テクノガイネーシス』(仮題)が勁草書房から出版されます。小谷真理はかつてはヒロイック・ファンタジー・ファングループ・ローラリアスで鳴らした人ですが、昨今ではトレヴィルやアズロのかたがたのアドヴァイスをうけて、それこそ 10年あまりの歳月を経て SFにもコスチュームプレイにも返り咲くという決意をかためたようです。

というわけで、わたしたちはまことにヘンな夫婦でありますが、こんごともぜひ長い目で見守っていただき、くれぐれもご指導ご鞭撻のよろしきを賜りますよう、つとにお願い申し上げる次第であります。くりかえして、今宵お集まりいただきましたこと、心より感謝しております。

※この出版記念パーティおよび本書『現代 SFのレトリック』は、雑誌 LOCUS でも取り上げられました!

“Takayuki Tatsumi, English professor at Keio University in Tokyo, had a publication party for his new (Japanese language) non-fiction book The Rhetoric of Contemporary Science Fiction, at the Tokyo club “Gold,” July 2, 1992. Tatsumi and his wife, writer Mari Kotani, were guests of honor, receiving huge bouquets with which they posed next to a colorful abstract stage set.” LOCUS, December 1992


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新著余瀝
(巽孝之『三田評論』1992年 12月)

あらゆる研究書には「謝辞」がつきものだ。しかし、謝辞の献呈先はどんなに多くても多すぎることはない。そこで、この場を借りて、拙著では不可能だった謝辞の別ヴァージョンを書く。

最大級の感謝は、80年代半ば、塾派遣留学時代の米国コーネル大学で教えを受けた黒人文学研究者ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア教授へ捧げられる。彼の課題図書アサインメントには、無数の黒人奴隷体験記スレイヴ・ナラティヴとともに、敬愛するニューウェーヴ系黒人 SF作家サミュエル・ディレイニーのメタ SF『アインシュタイン交点』が選ばれていた。わたしは 19世紀アメリカ・ロマン主義文学を学位請求論文の主題としていたが、このときゲイツのような黒人文学者にとっても SFが現代文学の可能性のひとつであるのを知ったがゆえに、いつの日か今回のような本を出そうというハラも決まったのだと思う。彼の指導のよろしきを得て、この時のターム・ペーパーは米国学術誌『エクストラポレーション』に掲載された(それを全面改稿・訳出したのが本書第二章にあたる)。

ただし、最終的な謝辞は、6月出版以来の書評者諸兄姉へ捧げられなくてはならない。この四ヶ月あまり、『日本経済新聞』から『週刊ポスト』『SFマガジン』『REMIX』『本の雑誌』『新潮』『すばる』『時事英語研究』にいたるまで 20点以上の書評が並んだ。夢枕獏、荒巻義雄両氏のような作家による「長編小説のネタを一本拾った」「実作者としても励まされる」といった所感も嬉しかったが、同時に批評方法論自体を指摘した論評にも大いに鼓舞されている。

「横断したり、自由に動きながら、しかもたえず結びつきを探していくような……全く新しい分野が開拓されている」(中村雄二郎氏)。「最新の文学研究の方法論にのっとって、学術的な論考の手続きを踏まえながらも、至るところで SFファンとしての情熱を火花のように飛び散らせる文章」(沼野充義氏)。「本書は現代 SF論であり、現代文学論であるとともに、また優れたポストモダニズム論でもある」(風間賢二氏)。「もはやレトリックはポリティックに向かって溢れだしている」(上野俊哉氏)。「主流文学/SF小説、学術論文/煽情エッセイの分別に代表されるヒエラルキー制度が、現代文化のあらゆる領域で崩れ落ちている現実を印象づける」(佐藤良明氏)。

いちばん本質的だったのは、『文学』92年秋号に載った大橋洋一氏の書評だろうか。氏は現代文学・SF・批評という三つの尺度から本書を徹底解析し、その文体的特徴にまでふみこみ、本書における不在の中心(と氏が喝破した)ポウの意義を再評価してみせた。ポウはわたしの批評的出発点であるにもかかわらず、いったいなぜポウと SFの関係だけが本書で回避されたのか——このような大橋氏の問いかけに対しては、目下学位論文を徹底改稿のうえ刊行準備中のポウ論一冊を充当することによって、鋭意お答えしたいと思う。

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写真集
『現代 SFのレトリック』出版記念会 1992年 7月 2日@ LOVE & SEX

一次会スピーチ/川又千秋氏
一次会スピーチ/田中光二氏
一次会スピーチ/筒井康隆氏
一次会スピーチ/
ラリイ・マキャフリイ氏&越川芳明氏(通訳)
会場風景
前列左より、山田和子氏、ひとりおいて沢井和代氏、石川喬司氏、山野浩一氏、
背後右端に、岡田斗志夫氏
中央は、嶋田喜美子氏と夢枕獏氏
巽孝之、小谷真理の両氏
右端は、司会の徳間書店編集部・関智氏
 一次会会場「Love & Sex」から二次会会場「タンゴ」へ移動。
中央は、大串尚代氏、その後ろに高千穂遙氏
芝浦「タンゴ」における二次会にて、
左から、小谷真理氏、巽孝之氏、
ラリイ・マキャフリイ氏、シンダ・グレゴリー氏

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関連リンク

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関連書籍
巽孝之『現代SFのレトリック』(岩波書店、1992年)


巽孝之『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房、1988年)


ダナ・ハラウェイ、ジェシカ・アマンダ・サーモンスン、サミュエル・ディレイニー/巽孝之、小谷真理編訳『サイボーグ・フェミニズム』(トレヴィル、1991年;増補版、水声社、2001年)