2014/07/20

2014/06/20:エイミー・スエヨシ先生ご講演レポート!(巽研究会四年・小林万里子さん「自と他の相克の中で生まれた愛国心 ―ヨネ・ノグチの留学体験にみる」)

以前にCPAで告知したとおり、6月20日(金)慶應義塾大学三田キャンパスにて、エイミー・スエヨシ先生によりますご講演 "Queer Compulsions: Race, Nation, and Sexuality in the Affairs of Yone Noguchi" が開催されました。慶應義塾大学とも縁の深い野口米次郎(1875-1947)を扱い、"Queer" という切り口からお話くださいました。このご講演を受け、現在、巽孝之研究会に在籍されている、小林万里子さん(四年生)に講演レポートを書いていただきました!小林さんは、昨年、メディア・コミュニケーション研究所での三田祭論文にて、野口米次郎を研究されました。本レポートでは、スエヨシ先生のご講演を参照しながら、昨年から関心を持たれている野口の「愛国心」について再考されております!

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自と他の相克の中で生まれた愛国心
―ヨネ・ノグチの留学体験にみる

巽研究会4年 小林万里子


Amy Sueyoshi, Queer Compulsions:
Race, Nation, and Sexuality
in the Affairs of Yone Noguchi
(2012)
2014年 6月 20日(金曜日)、アメリカ学会のために来日されたサンフランシスコ州立大学教授、Amy Sueyoshi 氏による、"Queer Compulsions: Race, Nation, and Sexuality in the Affairs of Yone Noguchi" と題した講演を三田で拝聴する機会に恵まれた。この講演に興味を惹かれたのは、昨年の秋、私が所属するメディア・コミュニケーション研究所、都倉ゼミの三田祭論文において野口米次郎を取り上げたからだ。その三田祭論文は、「戦争と慶應義塾」というテーマのもと、慶應ゆかりのメディア関係者を複数人取り上げ、彼らと戦争、慶應との関わりを論じたもので、私は慶應出身者である野口米次郎と戦争との関わりを主に扱った。そのため、今回は Queer という全く異なる切り口から野口米次郎の新たな一面を見ることができ、非常に貴重な機会であった。

野口は、戦時中多くの葛藤、矛盾を抱えながらも多くの戦意高揚詩を書いたことから、戦後プロパガンダ詩人として糾弾され、その存在は今や葬り去られてしまっている。私の三田祭論文における最大の論点は、なぜ野口が戦争に肩入れすることになったのかという点であった。若くしてアメリカに留学し、ウォルト・ホイットマンを始めとする欧米の詩人を敬愛していた野口が、日本が戦争に突入し、戦局が激しさを増す中で、どのように自身の愛国心、欧米への敵対心を露わにしていくのか、その心境の変化が議論の中核を成していた。戦争中の野口の胸中を記した資料は少なく、彼の意識を慮ることは困難であったが、その中で明らかになったのは、留学という経験を機に刺激された、彼の愛国心だった。そこで今回は、講義で伺った Amy Sueyoshi 氏の論考と比較しつつ、再び彼の「愛国心」の目覚めについて考察したい。

Amy Sueyoshi 氏の議論は、アメリカに留学した野口の性的倒錯、さらには異国の地で直面した自己喪失の問題に焦点を当てたものだった。中でも印象的だったのが、彼の「日本人」としての自意識が高まってゆく過程である。Sueyoshi 氏によると、渡米時、野口の日本人意識はまだ希薄であった。ホイットマンやアーヴィングなどの米国詩人に深く傾倒していた野口は、当時、彼らへの憧れしかなかったという。そこで、野口は米国に来た日本人の詩人としてではなく、彼らと肩を並べた米国の詩人としての成功を夢見ていた。しかし、当時のアメリカにおいて実際彼へ向けられたのは、オリエンタルで未知な日本への羨望の眼差しだった。Sueyoshi 氏は自身の論文において、20世紀転換期にあった日米関係について次のように述べている。

At the turn of the century, their affection for one another took on greater significance than just their individual selves. . . . Many Japanese, intent on moving toward "progress" as defined by the West, adopted American technology, styles, and values. Conversely for Americans, Japan offered a cure to a cultural malaise brought on by industrialization. . . . The arts and literary community in particular took up Japonisme, an appreciation of Japan as holding high aesthetic value that Americans could appropriate for their own leisure. (Sueyoshi 30)

当地での野口への反応も、例外ではなかった。野口が1893年、18歳にして初めてアメリカサンフランシスコの地に降り立ったとき以来、長年彼を世話することになる作家、Charles Warren Stoddard も日本人としての野口に魅力を感じた一人だった。彼らの最初の出会いを、Sueyoshi 氏は次のように書いている。

Charles Warren Stoddard
(1843-1909)
At the first meeting, Yone sensed Charlie’s disappointment. "It would have been more natural had I been barefooted and in a Japanese kimono," he recalled. Charlie "condemned" Yone as "far too Americanized." . . . Yet even if Yone insisted on wearing Western cloths, Charlie remained hypnotized by the "boy" form the "Orient." His race gave him an animal-in-the-wilderness-like innocence untouched by civilization. (Sueyoshi 30)

当時欧米文化に陶酔していた野口は、着物を着るのではなく、西洋風の格好を望んでいたが、それは Charlie のような日本文化愛好家にとっては惜しいことだったようである。

しかし、Sueyoshi 氏によると、時が経つにつれ、野口の考えは徐々に変化する。後に撮られた写真には、彼が「日本人」として見られるプレッシャーに屈していく姿、「日本人」を売りにして作家活動を送る決意を固めた野口の姿が収められているのだ。

ただ、当時のアメリカは、本当にこのように親日的であったのか。私が以前参照した資料は、その事実に対して否定的な論調を示している。
 
野口は、サンフランシスコに着いた途端、失望と不安に打ちひしがれる。街は汚く、アメリカ人の日本人への態度も概して侮辱的であった。(和田 45)

和田氏によると、野口はアメリカ滞在中、ジャップとののしられながら皿洗いやハウスボーイをするなど、アメリカの日本への屈辱的な態度に直面し、狼狽した。野口が自身の愛国心に目覚めたのは、日本に対する差別意識を感じたアメリカ滞在中ではなく、むしろその後赴いたイギリス滞在中であったというのだ。彼が渡英するのは1902年のことで、1895年には日清戦争で勝利した日本に注目が集まり始めた時期に当たる。その時代背景について、野口より前からロンドンに在住していた画家、牧野義雄氏は次のように書く。
 
この頃英国は保守党の天下で、米湖奥では残留日本人が故国を崇拝して居るとあまり受けがよくなかつたが、英国では反対に日本人が日本を愛すると云ふと関心な愛国者と云つて敬意を表した。(牧野 5)

また1900年、新渡戸稲造の『武士道』が Bushido: the Soul of Japan として出版されるや、欧米で広く読まれ、たちまち10版を数える。この時に、欧米社会の日本を見る眼は、強い関心へと移っていったのだ。

そんなロンドンで野口は、1903年、満を持して自身の詩集、From the Eastern Sea(『東海より』)を発表する。価格は新聞が一部1ペニーだった当時にして、大胆にも2シリングに設定され、野口の手でロンドンの文学者や新聞社に送り付けた。そして一夜にして、ロンドンの文壇にその名をとどろかせたのである。

一躍時の人となった野口は、特にロンドンで歌麿や北斎の版画を愛好してきたジャポニザンや、東洋の神秘にあこがれるオリエンタリストたち、また戦勝国日本を理解しようとする研究者たちに歓迎される。しかし実際のところ、彼らによって鼓舞されたのは野口の方であった。ある夜、詩人スタージ・ムーアの夜会で北斎について聞かれた時のことを、野口はこう告白する。

その頃私は恥しながら北斎に関する何の智識も持つてゐなかつた。私はムーアの質問に対して、満足な返答を与へることが出来なかつた。実際この絵さへ見たのが初めてであつた私に、北斎芸術の智識なんてある筈がなかつた。私は一代の恥辱を感じてその晩おそく私の下宿屋へ帰つた。(野口『歌麿北斎広重論』86-87)
 
その日からというもの、野口の脳裏から、ムーアの応接間に飾られていた北斎の無地の木版画「凱風快晴」の残像がひと時も離れなくなる。その強烈な印象を「北斎の富士」という詩に認めた野口は、その時の昂揚する心情を次のように綴っている。

われを見て起て、西洋人を睥睨して東海詩人の面目を発揮せよ、恐れてはならない、慄へてはならない、われはお前に命令する、勇気を出せ!(野口『ヨネ・ノグチ代表詩』6)

それ以来野口の言動には強い愛国心が現れるようになる。1913年、ロンドン日本協会やオックスフォード大学で講演した時の彼の口ぶりは、まるで戦勝国が勝因を語る風だったという。彼は『日本詩歌論』において、「世俗的快楽を絶対に否定することに依つて徳性の強さを得た」と芭蕉を称賛し、日本の詩歌が「かの英詩などに見るやうな遅鈍怯懦や卑賎風俗に優ること万々である」と挑発的に語った。ちなみに、この年の11月には、野口は巽先生の御祖父様であり、当時横浜正金銀行の倫敦支店取締役で、日本人会会頭を務めていた巽孝之丞氏と、日本人会にて再会している。

さらに野口は、1925年に出版した随筆集、『われ日本人なり』にて次のように豪語する。

私は紐育に住み、倫敦に住み、巴里に住んだ世界人であるつもりだ。然し私は祖先を礼讃し生を日本に得たことを誇りとする本当の日本人であることを忘れない(野口『われ日本人なり』19)

その後、太平洋戦争が始まると、野口は『宣戦布告』と『八紘頌一百篇』の詩集を発表し、戦争支持への態度を極端に表した。そして戦後になると、GHQ により、これら二冊の詩集は没収され、野口は戦後忘れられた存在となるのである。
 
以上のように、以前の研究と今回の講演内容とを照らし合わせてみると、野口の留学経験が彼に与えた影響というのは、必ずしも一様に評価できるものではないとわかる。そこには、彼が出会った人、出来事、それを取り巻く時代背景など様々な要素が絡み合い、プライドも美意識も高い野口に、屈折した愛国意識を芽生えさせた。Sueyoshi 氏によると、その過程においてまず彼の「自我意識」に火をつけたのは、アメリカ留学中に深い関係にあったCharles という作家である。今回の講演を聞いて、その交友こそが、のちにイギリスで開花する「愛国心」の土壌をつくったのではないか、という着想を得ることができたのは大きな収穫であった。

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【参考文献】
Sueyoshi, Amy. “Intimate Inequalities: Interracial Affection and Same-sex Love in the “Heterosexual” Life of Yone Noguchi, 1897-1909.” Journal of American Ethnic History 29 (2010): 22-44.
野口米次郎『歌麿北斎広重論』第一書房、1926年、86-87頁。
-------------「俳句対英詩論」『日本詩歌論』、(白日社、1915年)、59頁。
-------------『われ日本人なり』(竹村書房、1938年)、19頁。
-------------『ヨネ・ノグチ代表詩』(新詩壇社、1924年)、6頁。
牧野義雄『渡英四十年今昔物語』(改造社、1940年)、5頁。
和田桂子「野口米次郎のロンドン(18)福沢諭吉・新渡戸稲造との関わり」(『大阪学院大学外国語論集』第52号、2005年9月)、41-59頁。

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