インド系アメリカ作家ジュンパ・ラヒリを学部ゼミ卒論の主題に選んだのは、 2010年度、巽ゼミ第 20期生として入って来た松宮静君が最初である。全体のタイトルを “Other Indians in Jhumpa Lahiri’s Fiction: A Note on the Characters in The Namesake”といい、全 52頁。ここに収録したのは三章構成のうちの最終章。ご参考までに、松宮君の卒論全体の目次構成を掲げておく。
Introduction: Reviving Immigrant Narratives: Newness and Oldness of The Namesake
Chapter One: Lahiri as the Leader of New Immigrants Generation: Immigrant Narrative without Message
Chapter Two: Fragments of Identity: Names, Lovers and Architectures
Chapter Three: Departure from the Home: Houses and Vehicles for Ashima and Gogol
Conclusion: The Travel to Discover Himself: The Namesake as Travel Literature
わたし自身がラヒリを読んだのはご多分に漏れず前世紀末、傑作短篇というべき「病気の通訳」や「停電の夜に」が最初だったが、ともすれば民族的にして政治的な問題に拘泥してしまいがちな非白人系アメリカ文学のうちでも、そうした束縛にいっさい囚われていないところに、新世代の登場を感じたものだ。じっさい作者名を隠してブラインドテストしてみれば、彼女の小説がほんとうにインド系の作家が書いたものか、それとも多文化国家のメカニズムを熟知する非インド系、それも白人系の作家がインド系の風味をまぶして書いたものか、容易には判定しえまい。それほどに、ラヒリは西欧文学の文法と物語学をしっかり習得したうえで創作に臨んでいる。じっさい映画化もされた第一長編『その名にちなんで』
もっとも、この作家を真正面から扱うにはひとつの困難が待ち構えているだろう。一番厄介なのは、彼女はもともとイギリス生まれでアメリカ育ち、しかも大学院教育までも受けた、知的にも経済的にも中流以上、限りなく上流に近いところに属する作家であり、本来、インドという出自を気にする必要すらないほどに多民族国家アメリカの最上級に溶け込んでいるということである。げんに彼女の作品には、ハーヴァードやイエール、ブラウン、コロンビア、コーネルといったアイヴィーリーグの諸大学が乱舞するうえに、博士号取得者や大学教師、学者研究者といったキャラクターが当然のように登場する(個人的にはコーネル大学が一瞥される「よいところだけ」が印象深い)。ラヒリを読むのに重要なのは、一見したところ不可欠に見える民族の問題以上に階級の問題ではなかろうか、というのがわたしの推測であった。
しかし、松宮君の卒論は、『その名にちなんで』の主人公ゴーゴリとともにその母アシマの背景を類推的に考えることで、性差の問題から故郷および移民世代を再検討するという、いわば盲点を突く戦略に貫かれたものである。そこには、ジュンパ・ラヒリには 21世紀のアメリカ文学の将来を占う意味で、わたしが想定していた以上の可能性が秘められているかもしれない、ということを実感させるにじゅうぶんな論拠があった。
かくしてサバティカルの終わった 2010年度、松宮君が学部 4年となり卒論に取り組み始めた年度の四月より、わたしはそれまで長年、アメリカ文学史の講義で使用して来たジョージ・マクマイケル編のプレンティス・ホール版アメリカ文学アンソロジー Concise Anthology of American Literature