2012/12/01

ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』

Panic Americana Annex 
Ver. CPA #3
Jhumpa Lahiri, 
The Namesake




壮大なる通過儀礼
年 森田和磨(もりたかずま)
 
 アショケとアシマという若いインド人夫妻が故国を離れアメリカに移住し、その地で授かった男の子にロシアの作家と同じゴーゴリという名を与える。というのも、まだインドに住んでいたころにアショケはニコライ・ゴーゴリの本に命を救われたことがあり、それゆえ夫婦にとってこの人の名は特別な生のしるしになっていたのだ。ところが、当の少年ゴーゴリはそんな経緯などつゆ知らず、自分の名にひたすら反感を覚える。周囲の人々の好奇の目が堪えがたいし、そもそもニコライ・ゴーゴリは狂人だったというではないか。やがて大学入学を機に、これ幸いとばかりに青年は改名する。そして、新しい名でいくつかの恋愛を経験し、インド的な両親からは距離を置き、アメリカ人としての青春を謳歌する。

親への反抗が子供にとっての通過儀礼であるとすれば、ゴーゴリと両親の距離も不可避な運命であったかもしれないのだが、そのあとで彼はもう一つの儀礼を経験する。今度は親の背負っていた宿命を感甘受するという儀礼である。彼の移民の子という出自を考えると、それも避けられない体験であろう。そこに到達したときには、彼は両親との魂の融合からは一歩か二歩のおくれを取っている。そのおくれが物語に切なさを与え、インド系移民二世代の生を追いかけてきた読者の心を揺さぶるのだ。そして、ある人の旅立ちが待っている。

 最後のクリスマスパーティの描写がいい。去る人は淋しさを抱えつつ生活の解体作業を行い、息子はある方法で両親の想いを救い出す。生々しい重さを引き受けた時、ゴーゴリは初めてその名にちなんだ生き方を選ぶのだ。そして、それが通過儀礼の完結を意味するだろう。物語はそのようなささやかな大団円にむけて、静かにその環を閉ざしていく。壮大で、それでいて静謐な「生」の物語。

運命に翻弄されるということ
3年 山本恵美(やまもとえみ)

1968年、アメリカのアパートの一部屋。ここに住むインド・カルカッタ出身のアシマと夫のアショケの子供が小さな息吹の芽を育んでいくところからこの時間・空間的にも壮大な物語は始まる。2人は、彼らの間に生まれた小さな宝物をゴーゴリと名付けた。この名は、父の死期を救ったあるロシア人作家の名前にちなむ。この名前をひどく嫌ったゴーゴリは名門大学在学中に改名する。そこから様々な人間模様が両親とゴーゴリのもとで、アメリカとインドを舞台に展開していく。

 ゴーゴリはその名前に長年コンプレックスを抱いていた。名前というのは、その人の存在を規定する。そしてその人がこの世に生まれてきた理由を象徴する。にもかかわらず名前を変えるのは、今までの存在とは異なる新たな自分へ生まれ変わるということでもある。ここで注目に値するのはこの物語の中で起こる偶発的な事故によって運命が正反対の方向に動いていくという点だ。

 父は車両事故に遭い、すぐそこに死がせまる経験をしたが、後にアメリカで妻と幸福な家庭をきずくことになる。とてつもなく負に満ちた経験が幸せに包まれる運命をひきよせたのである。これをゴーゴリの改名の場合にあてはめて考えると、ゴーゴリが自分の嫌いな名前を捨てて新たな自分を開拓していこうとしたことは、彼にとっては今までになく晴れ晴れとした出来事かもしれない。しかし改名したゴーゴリに降りかかってくるのは、大切な存在の死、大切な人からの裏切り等あまり喜ばしくないことだ。この本は偶発的な出来事、運命に翻弄されていく主人公の姿を2世代、2大陸を舞台に描きながら、どこかミステリアスな日常をも描き出していると思う。

カレーにちなんで
4年 坂雄史(ばんゆうじ)

名前の由来、名付けの親の存在、それは誰にとっても特別なものであり、個人をその人たらしめる最初の証でもある。日本でも個性的な名前にしようと風変わりな名前を付ける親もいる程だ。個人にとって名前はそれほど貴重なものとなる。父を救ったロシアの作家にちなんでゴーゴリと名付けられた男の子がアメリカで人生の紆余曲折を経ながら、インド人の父母に見守られながらも成長していく物語である本作は、登場人物たちを暖かく包む優しい筆致でそれぞれの感情を丁寧に描き、彼らに待ち受ける運命の艱難辛苦を柔らかくほぐし、爽やかな読後感をもたらしてくれる。

 移民の国、アメリカに移り住んだベンガル人夫妻とその子を中心に、本国を離れ慣れない慣習に体を馴染ませていく苦労と、それでも自分たち民族の風俗を守り、外国でも力強く生きていく姿を描く本作は、民族のアイデンティティを鋭く問う物語でもある。カレーとタンドリーチキン、色鮮やかなサリーがぼくたちの思い描くインドのイメージだ。美しいベンガルの風習を丹念に描いていく様は好印象であり、料理からは香辛料のスパイシーな香りが漂ってくるようだ。

 美味しいカレーにはスパイスが不可欠。本書を彩るのはインドへの愛、両親の愛、文学への愛、そしてゴーゴリが経験する数々の甘くほろ苦い恋愛の存在である。カレーの隠味となった苦いコーヒーが辛味を引き立て、味に深いコクを出すように。誰にでもあるようでどこにもない唯一の愛の存在。それがゴーゴリの人生を美しくする。


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