2012/05/01

特別講演

フルメタル・アパッチ―日米文化の受容と変容

巽孝之


Hiroshima Bugi
現代アメリカを代表するポストモダン作家で自称「ポスト・インディアン作家」の Gerald Vizenor が2003年に発表した最新長篇 Hiroshima Bugi の主人公は、アニシナーベ族と日本人の混血青年ローニン・ブラウン。しかも第一章がいきなり「羅生門のローニン」と題され、第一行目が「原爆ドームこそおれの羅生門だ」と始まるのに、読者は度胆を抜かれる。彼の名は芥川龍之介原作、黒澤明監督の『羅生門』の浪人とも『忠臣蔵』の浪人とも二重写し、三重写しになるのだ。天災で荒れ果てた平安京を舞台にした盗人の小説「羅生門」は発表当時(1915年)には第一次世界大戦の災厄を反映していたはずだが、まったく同様、同じ平安時代において検非違使に取り立てられた木こりや盗人たちの証言の不確実性を浮き彫りにした「藪の中」(1922年)を融合した映画『羅生門』は1950年の制作だから、そこに原爆投下後のポスト・アポカリプスを幻視するのは難しくない。

この環太平洋的な視点は、戦後大阪の兵器工場跡に出没したスクラップ泥棒たちがジョン・フォード系西部劇の影響で「アパッチ族」と渾名され、1950年代から90年代にかけて開高健や小松左京、梁石日らの文学に影響を与えたこと、アメリカ作家 Jake Page が歴史改変小説 Apacheria  (1998年)で合衆国の意義を問い直したことを考えさせる。かくして本講演では拙著最新刊 Full Metal Apache: Transactions Between Cyberpunk Japan And Avant-Pop America (Durham: Duke UP, 2006) を補足・発展させるかたちで、『ヒロシマ・ブギ』から混血インディアンの文学史を、そして戦後における表象の廃墟と廃墟のアパッチ族を考察した。

その過程で理論的骨子となったのは、黒人文学に関する限り、どれだけ混血化が進んでも「黒人としての血の一滴」という起源神話が根強いため「白人としてまかり通る」ことを語るパシング・ナラティヴが浸透するいっぽう、アメリカ・インディアンの場合には、そもそも「インディアン」という範疇そのものが起源の捏造であり、混血に混血を重ねてきたこの民族においては、もはや起源なきシミュレーション・ナラティヴとしてしか成立しないという最新の認識である。こうしたシミュレーション・ナラティヴは、混血児インジャン・ジョー以来の恐怖感を薄めるようでいて、じつは日本アパッチ族に代表される新たなポスト・インディアン種族の恐怖と蠱惑を同時にもたらす。だからこそ、日本アパッチ族の物語は、現在のキッチュ・オリエンタリズムを代表しつつも、植民地時代以来の人種的無意識のジャンクヤードに巣くうアメリカン・ナラティヴの伝統をも逆照射してやまない。

『Soundings Newsletter』 
12/01/2006