2012/05/05

「歴史なき国の巨大妄想」


 「歴史なき国の巨大妄想」
巽孝之
 『東京新聞』 09/25/1997



幼いころに観たディズニー映画『眠れる森の美女』(一九五八年)は終盤、魔女が変身する巨大な竜が怖くて怖くて、ほとんど泣き出しそうになったものだが、東映映画『わんぱく王子の大蛇退治』(六三年)に出てくるヤマタノオロチはとてつもなくカッコよくて、すっかり夢中になってしまった。

故・渋澤龍彦の名著『エロティシズム』によれば、そもそもペロー原作の『眠れる森の美女』の魔女は子供の独立を阻む恐ろしい母親を象徴しているそうだが、他方ヤマタノオロチの魅力がなかったら、以後のわたしがコナン・ドイルの『失われた世界』の現代に棲息する恐竜たちに惹かれることも、そして円谷映画やテレビのウルトラ・シリーズからぞくぞく繰り出される怪獣たちに魅了されることも、決してありえなかった。

ペローの竜は抑圧的だが、ヤマタノオロチやウルトラ怪獣は開放的だ。正義の味方は必ず登場してくるけれど、わたしたちがほんとうに見たいのは、巨大なる竜の姿がこれでもかこれでもかと暴れまわる破壊力である。物騒に聞こえるかもしれないけれど、破壊のスペクタクルが見る者にカタルシスばかりか、かえって建設的な活力さえ与える場合が、決して少なくない。

正確をきすなら、恐竜は怪獣ではあるまい。だが、たとえば一九二五年代に製作された最初の『失われた世界』の映画化は、すでに原作から逸脱したかたちで、アマゾン奥地で発見された恐竜がイギリスの首都ロンドン市内で暴れ回るという展開だった。幻想作家レイ・ブラッドベリの名作短編「霧笛」(五一年)では太古の恐竜が寂しい灯台の霧笛にこたえて姿を現すが、それを映画化した「原子怪獣あらわる」(五三年)はやはり恐竜がニューヨーク市へなぐりこむ体裁を採っており、しかもその日本公開が偶然にも『ゴジラ』と同じ五四年なのである。

したがってスティーヴン・スピルバーグの映画『ロスト・ワールド』がマイケル・クライトンの原作を改変し、動物園の街サンディエゴにティラノザウルス・レックスを放すという脚本を選ばざるをえなかったのも、実はハリウッド映画で連綿と培われた恐竜スペクタクルの伝統を実に忠実に踏襲しつつ、おそらくゴジラに代表される日本怪獣映画の成果をも貪欲に取り込んだ結果だった。

かくして恐竜映画というのは、人々が見たいものを見せるという見世物市場(スペクタクル)の論理に最も忠実な表現形態のひとつであるのが判明しよう。そもそも化石内部に奇跡的に残存した恐竜のDNAからクローン恐竜を造ろうとする生物学的発想自体が、映画国家アメリカに暮らす科学者ならではのものだ。しかし、そうした着想の原型は、すでに一九世紀中葉のアメリカ文学史及び文化史において示唆されていた。チャールズ・ダーウィンの自然観察力を海洋作家ハーマン・メルヴィルは『白鯨』以後の作品で痛烈に揶揄したし、古生物学者マーシュ博士らの恐竜化石発掘競争と博物館経営者バーナムらの詐欺師的見世物競争がまったく同時に激化していくのを、マーク・トウェインは鋭く物語化している。時には、複数の化石をツギハギして、クローンよろしく新種の恐竜をデッチ上げる傾向さえあった。見世物的欲望にみごとに応えてみせようとする点では、詐欺師的興行も権威主義的古生物学者も変わるところがない。

そう感じた時、幼いころからの恐竜熱が、いわゆるアメリカ文化研究で長く盲点へ追いやられてきた部分と交差した。そこには、長い歴史を誇るイギリスに対して、巨大なる古生物を誇ろうとするアメリカの政治的無意識が横たわっている。ただし、そんなアメリカ的巨大妄想から多くを学んだ昨今の日本の恐竜小説からは、大原まり子のように、古代恐竜を見せるどころかクローン恐竜を食べるという衝撃的発想さえ認められる。

いま恐竜大陸アメリカを考え直すことは、確実に新たなる日米比較文化論を導くだろう。