巽孝之
『東京新聞』 09/25/1997
故・渋澤龍彦の名著『エロティシズム』によれば、そもそもペロー原作の『眠れる森の美女』の魔女は子供の独立を阻む恐ろしい母親を象徴しているそうだが、他方ヤマタノオロチの魅力がなかったら、以後のわたしがコナン・ドイルの『失われた世界』の現代に棲息する恐竜たちに惹かれることも、そして円谷映画やテレビのウルトラ・シリーズからぞくぞく繰り出される怪獣たちに魅了されることも、決してありえなかった。
ペローの竜は抑圧的だが、ヤマタノオロチやウルトラ怪獣は開放的だ。正義の味方は必ず登場してくるけれど、わたしたちがほんとうに見たいのは、巨大なる竜の姿がこれでもかこれでもかと暴れまわる破壊力である。物騒に聞こえるかもしれないけれど、破壊のスペクタクルが見る者にカタルシスばかりか、かえって建設的な活力さえ与える場合が、決して少なくない。
かくして恐竜映画というのは、人々が見たいものを見せるという見世物市場(スペクタクル)の論理に最も忠実な表現形態のひとつであるのが判明しよう。そもそも化石内部に奇跡的に残存した恐竜のDNAからクローン恐竜を造ろうとする生物学的発想自体が、映画国家アメリカに暮らす科学者ならではのものだ。しかし、そうした着想の原型は、すでに一九世紀中葉のアメリカ文学史及び文化史において示唆されていた。チャールズ・ダーウィンの自然観察力を海洋作家ハーマン・メルヴィルは『白鯨』以後の作品で痛烈に揶揄したし、古生物学者マーシュ博士らの恐竜化石発掘競争と博物館経営者バーナムらの詐欺師的見世物競争がまったく同時に激化していくのを、マーク・トウェインは鋭く物語化している。時には、複数の化石をツギハギして、クローンよろしく新種の恐竜をデッチ上げる傾向さえあった。見世物的欲望にみごとに応えてみせようとする点では、詐欺師的興行も権威主義的古生物学者も変わるところがない。
いま恐竜大陸アメリカを考え直すことは、確実に新たなる日米比較文化論を導くだろう。