巽孝之
『ちくま』 10/1997
一冊の本を書いている時というのは、不安の連続である。以前の本では盲点に隠れていたコンセプトを発見した瞬間は興奮するのだが、やがて、集めても集めても資料が足りないような気分に襲われる。この不安を解消しない限り、本は絶対にまとまらない。ところが、たったひとつの出来事によって大いに励まされ、みるみる自信が湧いてくる場合もあるから、何とも不思議なものだ。
しかし、ちょうど同書をまとめていたころニューヨークの自然史博物館を訪れたのがきっかけで、同じゴールドラッシュ時代が黄金と同時に古生物発掘熱が高揚していく、ダグラス・プレストンいわくの恐竜ゴールドラッシュ時代でもあったというもうひとつの文化史をも再発見してしまう。この視点に立てば、メルヴィルもマーク・トウェインも、恐竜文学史とでも呼ぶべきまったく斬新な文脈から読み直すことができる。かくして『ニューヨークの世紀末』とほとんど同じ時代を扱いながらもまったく文学史的解釈の異なる『恐竜のアメリカ』の構想がまとまった。九五年真夏のことである。
しかし、そのほとんど直後の七月中旬。ボストンにおける会議に出席したわたしは、アヴァンポップ伝道者である畏友ラリイ・マキャフリイの駆る車でケープ・コッドへ足を伸ばし、とんでもない僥倖に出くわす。プロヴィンスタウンからボストンへ戻るフェリーに揺られていた最中、わたしは、生きて動いているクジラを、この目の前で、生まれて初めて目撃したのである。
しかも一頭や二頭ではない、ざっと一ダースは下らぬザトウクジラの群れが、目と鼻の先にざわざわとひしめいていたのだ。
漆黒の巨獣たちは船のまわりから突如躍り出て大口を開け、歯を剝きだし、潮を吹き、その尾鰭を誇示するかのようにもんどりうってみせていた。望んでも見ることのかなえられることの少ない壮大なる海のパフォーマンス。それが十分、十五分とくりひろげられたのだから、たまらない。正直なところ、にわかには信じられなかった。仮想現実テクノロジー全盛時代に暮らす者の哀しさ、これはたんに運がよかったのか、それともこれもまた高度に制御された何らかの企業的演出なのかと考え込んでしまったほどである。
しかし、まさにこのザトウクジラたちの饗宴を肉眼で目撃したことが、わたし自身の恐竜文学的想像力を大いに掻き立ててくれる「何か」になったことは、まちがいない。無数のザトウクジラの彼方に、わたしは太古の恐竜時代にまでさかのぼる進化論的系統樹の謎を幻視した。たとえばレイ・ブラッドベリの名作短編「霧笛」において、灯台の霧笛に応え海の闇から声が聞こえてきたように、クジラたちもまた、わたしたちの側の謎に憶測をたくましくしているとしたら?わたしたちがクジラを知り得ないのではなく、むしろクジラたちのほうが、ほとんど意図的に自らの正体を隠蔽する術を磨いてきたのだとしたら?
太古の昔からずっと見られてきたのは、じつはわたしたち自身かもしれない——そんな想像がますますふくれあがったおかげで、以後、『恐竜のアメリカ』の執筆は滑るように進み、今年の三月には第一稿が完成を見る。世に恐竜本は数あれど恐竜文学論は稀少価値らしいという現状も、わが野心を煽り立てるのに充分だった。
ところが、だんだんマイクル・クライトン原作、スティーブン・スピルバーグ監督の『ジェラシック・パーク』続編『ロスト・ワールド』公開が迫ってきて、わたしはまた新たな不安に駆られていく。『恐竜のアメリカ』には、文学サブジャンルを中核に据えたアメリカ文学史のラディカルな読み直しという性格とともに、日米恐竜文学比較研究という隠し味をも潜ませたため、小説版とは大幅に異なるという『ロスト・ワールド』の内容は、大いに気になるところだった。ちょうど再校ゲラが届けられてきた七月初旬に、ようやく日本でも公開されたから、さっそく劇場へ足を運んだのはいうまでもない。
このような次第で、わたしはようやくいささかの自信を持って、『恐竜のアメリカ』を送り出す。