2012/05/01

「文明は融合するのか」


——文明は
融合するのか
『駿台文庫』
4 & 5/ 1994


 ナノメートル(1メートルの十億分の一)レベルでの生命活動の分析が行われ、人工知能(AI)や人工生命(AL)の研究も進む現代。生命と機械の境界が明確には分けられなくなるように、文学も経済等との境界がどんどん不明確になってきているようだ。いや、むしろ現代文学、特にメタフィクションと呼ばれる自己言及的な20世紀後半の新しい文学の背後には、はっきりと資本主義経済のイデオロギーが見えて来るという。
 ポスト構造主義とともに発展してきた自己言及的な小説、メタフィクション。果たしてそこにどんな現在が見え、またAIやALとどんな共通点を持っているというのだろうか。
 
巽:「かつてメタフィクションは、二〇世紀後半を彩るアンチ・リアリズム文学の最先鋭と見られていました。文学は現実を模倣するという古典主義的前提に則るフィクションの諸条件を問い直し、最終的には我々の暮らす現実自体の虚構性を暴き立てる、絶好の手段だったのです。
 そのためメタフィクションは小説の内部にもうひとつの小説を物語るもうひとりの小説家を登場させたり、小説内の人物が実在の人物と時空を越えて対話するなど、自己言及的な装置に頼った。そしてこの装置を使い当の小説自体、さらには現代文学やその批評理論までも根底から洒落のめしてしまおうとしました」

 当初、メタフィクションは極めて前衛的な文学実験で、文学内部の問題のように見えていた。しかしそこに極めて現代的な社会そのものの問題が潜んでいるというのだ。

——文学の背景に資本主義経済のイデオロギーが見えてくる

巽:「確かにメタフィクションを純粋にフィクションがフィクションに自己言及したものだと考えることもできる。気のきいたアヴァンギャルディズムだとね。実際、そう言われていた時代もあった。しかし、何故いまメタフィクションが現代人の心理構造にアピールするのかということを考えなければいけない。するとメタフィクションの構図が資本主義経済システムそのもののアレゴリーになっているからだということが見えて来る」

 例えばスティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』というメタフィクション小説にはアドルフ・ヒトラーが登場する。この小説の中でヒトラーは、ある作家に自分のための小説を書くよう依頼する。しかし作品を読み進めると、歴史的にはファシズムという大きな物語の生産者だったはずのヒトラーが立場を逆転、物語を消費する読者になってしまうのだ。

巽:「生産者が消費者に変貌すること、これはまさに資本主義社会システムの変質にたいするアレゴリーです。そういう時代のメンタリティーを構造化している。
 我々は通常、文化と資本主義経済は無縁だと思っていた。経済活動とフィクションの世界を別に考えていました。しかし実はそれほど簡単には割りきれない。
 いまアヴァンポップなんていわれますが、これはアヴァンギャルドなもの、本来社会的に革新的であったものが、どんどんポップカルチャーの中に商品化され、消費されていく現象をさす。資本主義はさまざまな文化を消費活動の中に取り込んでしまう。しかも資本主義が本当に消費しているのはアヴァンギャルドなものでもポップなものでもなくて、実はアヴァンギャルドからポップカルチャーにいたる文化機構を消費するメカニズム。そのメカニズム自体を資本主義は消費しているんです。
 アヴァンギャルドだったものがポップ商品として芽を出すように、現代では資本主義が文学産業の中において資本主義の制度自体に自己言及しているというシステムがある。
 まとめていえば、資本主義が興味深いのは、経済と文化を分けて考える考え方自体を消費しているということです。本当に強靭な生命力を持ているんですよ。まあ、それだけに世界中がアメリカナイズされ、ソ連もなくなってしまったわけですが」

 ヘビが自らのシッポを食べるように(ウロボロスの蛇!)資本主義経済はメタフィクション文学の中に現れた前衛的=反制度的フィクショニズムそのものさえ、資本主義社会の現実として取り込んで成長していくというのだ。

巽:「たとえばJFケネディ大統領暗殺を考えてみればいい。一九六三年十一月二十二日にJFKが暗殺された時、我々は何らかの謀略をTVメディアが事実として報道したと信じた。ところが三〇年近くたった今、最も謀略的だったのはメディア自体だったのではないかと疑われてくる。現実と虚構をいちばん攪乱する謀略家はメディアそのものなんじゃないか。ハイパーメディア漬けの日常を生きている我々は、いわばメタフィクション漬けともいえる。
 日本でも筒井康隆がさまざまなラディカルなメタフィクション小説を書いてきた。しかしそれがどんどん現実化するようになった。高度経済成長期にハイパーメディア的発展を遂げた日本社会は筒井康隆自身をもその内部に取り込んでしまうわけです。筒井が現実をパロディ化すると同時に、現実も筒井をパロディ化している。」

 我々が生きている現代資本主義経済社会は極めて強靭な胃袋を持ったウロボロスの蛇であるようだ。

——AIを考えることとメタフィクションの構造を考えることの接近

巽:「同じような構図はナノテクの場合でも見られるでしょう。『今日、ハイテクが我々の肌の下にまで潜り込んでいる』とブルース・スターリングが言ったことがありますがいまや超微細なテクノロジーが様々な人工臓器を我々の体内に取り込んでガンを治療する兆しさえ見え始めている。その人工物は人間によって作られたものではあるけれども、ひとたび体内に置かれると、こんどはその逆にテクノロジーによって人間が考え方を構造化されるようになる。 
 また同時にテクノロジーを創る人間の同時代のイデオロギーが機械の根本に擦り込まれるという逆の問題もおきてくる。
 ナノテクによる超微細な人工生命があり得るとすれば、その設計段階においてどんなに制御しても人間の無意識が擦り込まれる可能性も否定できない。  
 すでにそういう量子論的人工生命に関する小説も出てきていますが、やはり時代のイデオロギーを反映しかねないという問題を抱えているんです。
 イデオロギーとテクノロジーとレトリック。この3者は一見そう見えるほどには分断されてはいないんですよ」

 テクノロジーが進化を続ければ続けるだけ、文学という文化活動を含め、人間のあり方というものがより深く問われていくことになるのだろう。

巽:「AI的な問題系を考えることと、メタフィクションの構造を考えることが、今日、極めて近接してきていることは間違いないでしょう」