2012/05/01

『メタフィクションの思想』(ちくま学芸文庫、2001年)


—巽孝之
メタフィクションの青春
『ちくま』04/01/2001


 あれはもう、かれこれ二〇年近く前、一九八二年の秋ごろだったろうか。
 当時、大学院生としてアメリカ文学研究を始めたばかりのわたしは、毎週のように神田神保町の北沢書店や日本橋丸善へ通いつめ、海を越えて届いたばかりの新刊が出るたびごとに、胸を踊らせていた。そのころは今のようなインターネット社会など存在しないから、ただひたすらに図書館と洋書店を活用するしか、理論的最先端に接する道はない。奨学金とバイト代はすべて書籍代に消えた。いまはもう、自分がどの本をどこの書棚に置いているのかすら、定かには把握しきれなくなっているけれど、当時は、手に入れる本一冊一冊が宝物だった。
 そんなある日のことだ、丸善洋書売場のIさんが、アメリカから届いたばかりのハードカバーを薦めてくれたのは。赤と黒を基調にした抽象的デザインが鮮烈なその表紙には、Larry McCaffery なる著者名と、The Metafictional Muse なる書名が刻まれていた。ふうん、ラリイ・マキャフリイという人の『メタフィクションの詩神』、版元はピッツバーグ大学出版局か。
 初めて聞く名前だった。しかしそのころのわたしは、折しも勃興するデリダやド・マンらのディコンストラクション系批評理論をテコにして、専門である一九世紀アメリカ・ロマン主義文学を二〇世紀ポストモダン文学と区別せずに、すなわちポウやホーソーンやメルヴィルらの作品群がバースやピンチョンやバーセルミらの作品群と時代を超えて共振するものと見る研究に没頭していたため、これが必読書のひとつになることは目に見えていた。
 帰り道、広尾の商店街にある地下の喫茶店に入り、矢も楯もたまらず、パラフィンの香りもなまめかしい同書のページを繰った時のことを、まるで昨日のように思い出す。はたしてIさんの選択眼はいつにも増して正しく、わたしはコーヒー数杯でその店に何時間ねばったことか。夢中になって読んだのは、いうまでもない。その本は、クーヴァーやバーセルミやギャスといったポストモダン文学の巨匠たちのテクストを取り上げ、メタ観念の発生史を自意識性、批評性、遊戯性を中心に解説し、それがいかに推理小説やSF小説、そしてスポーツ小説のサブジャンル的本質に関わっているかを、鋭利かつ明快に記述した一冊だった。まさか四年後の八六年夏、アメリカ留学中に出席したサンディエゴの会議で著者本人と衝撃の出会いを遂げ、以来、ともに八〇年代SFの新潮流サイバーパンクや九〇年代文学の新潮流アヴァン・ポップに関する理論的検討を重ねていくことになろうとは、それどころか現在文学の共同研究や学術誌の共同編集までやるようになろうとは、予想もしていない時代のことである。
 かくして、八〇年代半ばの三年間の留学を経て九〇年代に入り、わたしは日米で同時多発する根本的な理論革命に立ち会うことになった。その結果、メタフィクションもまた仮想現実時代の支配的イデオロギーのひとつであり、現在文学史における理論的蝶番ではないのかという決定的な認識を得て、まとめあげたのが『メタフィクションの思想』である(ちくまライブラリー初版表題『メタフィクションの謀略』[一九九三年])。
 今回、ちくま学芸文庫に入れていただけることになったのを機会に、自他ともに認めるアヴァン・ポップ・ガール・小林エリカ氏に表紙を、メタ文学的発想における先駆的英文学者・高山宏氏に解説をお願いできて、ほんとうにうれしい。小林氏はデジタル・コミック「爆弾娘の憂鬱」で国際的評価を獲得、小説家としても『ネバーソープランド』でデビューした新進気鋭のアーティスト、そして高山氏は『アリス狩り』以来健筆をふるい、目下、新著『奇想天外・英文学講義』が話題の自称・爆弾男。期せずして絶妙な取り合わせに支えられたこの文庫版が、もうひとつの爆弾になるのを、大いに楽しんでいただきたいと思う。