2012/05/01

『メタフィクションの謀略』(筑摩書房、1993年)

—巽孝之
新著紹介
『メタフィクションの謀略』
『三色旗』06/1994


 本書は、長いあいだ「いつか出してみたい本」だった。
 もちろん構想十二年ていどでは必ずしも長くないけれど、短くもない。七〇年代末、大学院時代にトマス・ピンチョンやジョン・バースの中に見出した現代文学の問題系を、八〇年代の現代批評理論ルネッサンスにおいて、三年近くのアメリカ留学期間に何度も再吟味する機会を与えられ、根本から練り直した結果が、これである。二〇世紀末文学において、メタフィクションは最新潮流どころかみるみる最大主流と化した。メタフィクションという文学形式もまた、何らかの同時代イデオロギーと連携するかたちで歴史化されたのである。だから、その歴史的必然をさぐるという発想が、本書の序説となった。
 ヒントになったのは、米国作家レイモンド・フェダーマンや批評家ラリイ・マキャフリイの「JFK暗殺以降、メタフィクション的実験が勃興する」という意見である。六三年一一月二二日、ケネディ大統領暗殺の瞬間、アメリカ国家がメディア的に演出した理想的球体は粉砕され、国家内部にメディア的謀略を幻視する懐疑主義の時代がはじまった。そして、まさしくこの姿勢が、リアリティとフィクションの境界線にたえず謀略を洞察するメタフィクショニストの形成を促したのだ、と彼らはいう。この指摘を得て、これまで従来の米国メタフィクション作品群が、なぜJFKやヒットラー、シェヘラザードというキャラクターを特権的に描いてきたのかが、たちまち了解された。ピンチョン、ラッカー、エリクソンを対象にした本書のアメリカ小説論には、この視点が貫かれている。
 いちばん意識したのは、日本的メディアを経て育まれた日本的メタフィクションには、また別の全体性幻想と幻滅があったのではないかという問題だ。筒井康隆論と沼正三論を溶接し、本書を最終的に日米文学の問題へ比較文学的に「開いて」いったゆえんである。いまやメタフィクションは新奇なジャンルではない。それは湾岸戦争以後のメディア的謀略を通して高度資本主義日本をもたゆまずリミックスしていく「日常的実践」なのだから。
 やがて書店も「フィクション」「ノンフィクション」だけでなく「メタフィクション」なるコーナーをつくるだろう。そこに『重力の虹』から『磯野家の謎』までがずらりと並ぶ日も、決して遠くないはずだ。