2000/02/23

Miscellaneous Works:解説・評論・講義:AI


週刊読書人7/13/2001号(金)
カバーストーリー

1999年3月7日、20世紀を代表する映画監督スタンリー・キューブリックが急逝した時の衝撃は、強烈だった。彼の名は20世紀を代表する傑作映画『2001年宇宙の旅』(1968年)と切っても切り離せないため、当然、21世紀まで元気に活躍するものと信じていたのは、わたしだけではあるまい。
したがって、当時、シュニッツラーの小説『夢奇譚』をもとに完成したばかりだった遺作『アイズ・ワイド・シャット』の中には、さまざまな「遺言」を読み込みたくなったものである。舞台が世紀転換期ウィーンから現代のニューヨークへと巧みに置き換えられた以外は、けっこう原作に忠実な出来となったが、やはり決定的なキューブリック印を感じたのは、トム・クルーズ演じる青年医師ビルが強いられる秘密の行動のいっさいがっさいを、じつは最初から仕掛けていた謎の男ジーグラーの存在だ。たしかに、ビルが妻以外の女と会話する場面はすべて、誰かが仕組み、誰かが見守っているかのように撮られていた。それは、宇宙船ディスカバリー号を制御しつつ人類への反乱を企てるコンピュータHAL9000が、船長たちの秘密の会話を盗聴する場面を彷彿とさせる。

さてキューブリックは引き続き、60年代にはJ・G・バラードと並び称された英国ニューウェーヴ運動の旗手ブライアン・オールディスの短篇「スーパートイズ」(1969年)にもとづく新作『A.I.』を完成させる予定であった。同作品は、人口過剰のため人口抑制が運命づけられている近未来、少年アンドロイド・デイヴィッドを子ども代わりに購入しているスウィントン夫妻が、思わぬ幸運から実の子どもをもうけることを許す親権くじに当たり、いずれデイヴィッドはお払い箱になるかもしれない、という予感とともに終わる(邦訳『スーパートイズ』[竹書房、2001年]、キューブリック没後に書き足され三部作を成す続編「冬きたりなば」「季節がめぐりて」を含む)。デイヴィッド本人は、自分が人工知能であることを知らず人間と信じ込み、母を愛するようプログラミングされているばかりで決して成長しない永遠の五歳児。これを77年ごろに読んだキューブリックはたちまち気に入り、82年、その映画化権を買う。だが、原作者と映画監督のあいだの闘争はなまやさしいものではなく、キューブリックは20年近い苦闘の果てに帰らぬ人となった。
そこへ、当の『A.I.』に関して、盟友スティーブン・スピルバーグが遺言執行人を任されたという、もうひとつの衝撃が襲う。60年代ニューウェーヴSFと共振してやまぬキューブリックは思索的な監督であり、スピルバーグといえば『インディ・ジョーンズ』や『ジュラシック・パーク』で本領を発揮した娯楽的な監督。仮に見知らぬ他者を描いても、キューブリックはあくまで内宇宙を重視するがゆえにその実在を暗示するにとどめるが、スピルバーグはたとえ外宇宙だろうがとことん地球化=人間化しようとするため、たとえマンガじみてはいても他者のすがたを誰の目にもわかるようデザインせずにはいられない。
はたしてスピルバーグが仕上げた物語は、少年型アンドロイド・デイヴィッドがスウィントン夫妻に引き取られるというところまでは原作どおりだが、さて彼らの「実の息子マーティン」が不治の病から一応回復したのでたちまち厄介払いされるという、原作をはるかに凌ぐ催涙効果満点の悲劇から始まる。にもかかわらず、あくまで母を思い続け自ら人間になろうとする彼は、キューブリックが指示した「現代のピノキオ」とも呼ぶべき歩みによって、水没したニューヨーク・シティの海底に奇跡への鍵を握るブルー・フェアリーを探しだし、そこに閉じこめられたまま二千年が過ぎ去ってしまう。時の彼方で、彼をそこから「掘り出し」たのは、ロボット種族が驚くべき超進化を遂げた末裔というべき機械種族であり、彼らはデイヴィッドの記憶から自由自在に「読み出し」を行い、彼の願望を叶えてやろうとする。
いうまでもなくスピルバーグは『A.I.』が彼にとっての最大の外宇宙、すなわちユニヴァーサル・スタジオの興行用アトラクションにすぐにも採用されやすいかたちで作っている。にもかかわらず、ふたりの巨匠のスタイルが異なるぶんだけ、「もうひとつの『A.I.』」の可能性についてあれこれ考えめぐらすという何ともぜいたくな楽しみが、観客たちには残された。たとえば、二千年後(それは核兵器の影響がようやく一掃される歳月に相当する)、人類がとうに滅亡したあとの遠未来、機械種族の一群が少年ロボットをまさに「発掘」した場面は、名作『2001年宇宙の旅』において、四百万年もの太古のむかしに(クラークの小説版では三百万年前)異星人が月面に埋めた人類進化の触媒たる謎の石板(モノリス)が、宇宙時代を迎えた人類によって「掘り出される」瞬間を、連想させてやまない。かてて加えて、水没都市風景といい、デイヴィッドが自己の無数の試作品に出会う場面といい、『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』におよぶ日本製アニメの影も色濃い。もともとスピルバーグは現代のディズニーといっても過言ではない才能の持ち主だが、『A.I.』には、日米アニメの世界認識をフル活用した実写映画の方法論、文化批評家マーク・ドリスコル呼ぶところの「アニメ・アイ」の方法論が貫かれている。スピルバーグ自身の可能性と限界が、そこにある。


キューブリックであったら、むしろ見知らぬ他者による世界認識すなわちエイリアン・アイのほうを、徹底的に追究したであろう。彼は映画化権を買った八二年当時、スピルバーグの『E.T.』に夢中だった。もちろん、『E.T.』こそは典型的な現代のピーターパン物語であり、アニメ・アイの代表格ではないか、という指摘があるかもしれない。だが、わたしはキューブリックがあれほどまでに『E.T.』にのめりこみ『A.I.』をめざしたゆえんは、子ども自身を最大の「見知らぬ他者」であり、驚くべき内宇宙の旅行者と捉えていたためではないかと考える。『ロリータ』(62年)の神秘的な少女でもいい、『2001年』の超人類スター・チャイルドでも、『シャイニング』(80年)の超常能力をもつ少年ダニーでもいいが、キューブリックの描く子どもは、たえずおぞましいほどのエイリアン・アイの持ち主ではなかったか。その点に関する限り、わたしが今日、ポスト・キューブリックの急先鋒として夢想するのは、たとえば現代のピノキオというモチーフにおいても、他者自身の内宇宙というモチーフにおいてもめくるめく描写を見せてくれた『マルコヴィッチの穴』(99年)のスパイク・ジョーンズ監督のような才能のほうだ。
ところで、アメリカには「SFの黄金時代は12歳だ」という名言がある。奇しくも『A.I.』の主人公デイヴィッドは11歳に再設定されており、それを演じるハーレイ・ジョエル・オスメントがこの仕事を引き受けたのはきっかり12歳の時だったという。12歳、それは子どもが世界のセンス・オヴ・ワンダーを真っ正面から感じ取り最大のエイリアンになりうる瞬間、あるいはそれを境にエイリアン・アイを永遠に失ってしまうかもしれない瞬間。スピルバーグ映画の余白にいまは亡きキューブリックが書きつけたであろう最後の遺言は、このあたりに読まれるかもしれない。



『A.I.』論:キューブリックの遺言




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