2000/02/23

Miscellaneous Works:解説・評論・講義:天池


初出:書評<新潮>1999年8月号 
「彼女たちのミステリー--日野啓三『天池』」
(講談社、2,000円)

日野啓三の文学を貫くのは、自然がひとつの都市であり、都市がひとつの自然であるという双方向の認識である。このうちどちらかのベクトルだけなら、それを実現している作家は数多い。技術論的空間を自然なものと見なすスペキュレイティヴ・フィクションでも、自然という準拠枠内部に言説的構造体を喝破するネイチャー・ライティングでも、そうした先例は枚挙にいとまがない。だが、この作家はJ・G・バラードやフィリップ・K・ディック、トマス・ピンチョンに傾倒する一方で、エミリ・ディキンスンやカルロス・カスタネダやグレゴリー・ベイトソンに没頭し、自然と都市とが自在に交錯するところにひとつの神秘的瞬間さえ幻視する。無宗教時代の啓示か、超絶主義的な唯物論だろうか。その神秘的瞬間を描く独自の美学は、たとえば因襲的な反ロマンティシズムとしてのモダニズムでもなければ、必ずしも尖鋭的なバッドテイストでもオカルティズムでもない。そこにはむしろ、今日の日本的感性からは締め出されがちな治癒と生命力への希求がひそむ。日野作品を読み進む時、ふと日本的主流文学の言説風景から根本的に逸脱した座標軸にさしかかっているような気がするのは、そのためだろう。この人は根本的に現代日本の誇るカルト作家なのだ。同じ主題を扱っても、誰も日野啓三のようには書けない。だが、いったんその類い稀なる妙味がわかってしまえば、彼の文学は麻薬である。だから、そんな彼が『群像』一九九七年一月号から九九年三月号まで連載した最新長編『天池』もまた--途中二度の手術をはさんだため完成が危ぶまれたものの--日野文学独自の個性をこれまで以上にフル回転させており、日野フリークにはまたとないプレゼントとなった。 

季節は秋、舞台は関東平野の北西、群馬から日光へ抜ける国道沿いに位置すると思われる小さな湖。作家は、かつて実在するこの土地を訪れ、何よりも湖に突き出した「ボート乗り場の浮き台」に印象づけられて本書を構想したという。それは、どんな物語か。

中心を成すのは、その湖のかたわらに建つ民宿を切り回している家族。一見何の変哲もなさそうだが、彼らはそれぞれに本質的な魂の傷をもつ。一家の主たる老人は、いかに大手の観光開発会社の勧めといえども決して土地の権利を手放さず、時に彼自身が「湖の主」とすら目される象徴的な家父長であるにもかかわらず、かつて連れ添った妻が思い詰めたあげくにこの湖で入水自殺してしまったという過去から決して免れていない。老人の三人の娘のうち、長女の希は過去の失恋に伴う手の火傷から長く精神的に立ち直ってはいなかったが元ベトナム従軍記者という宿泊客とのあいだに新たなロマンスを見出し、次女の朱美は夫とともに事実上この民宿の女主人を勤めるものの幼馴染みである国語教師との失楽園的不倫関係にあり、末娘で年の離れた女子高校生の夏子は三歳の時母親と死に別れながら、こんどは老いたる父親自身が稲妻のかけめぐるさなかで東京からの女の宿泊客とともに入水する衝撃的場面に立ち会う。ここに何らかの具体的な犯罪者と殺人事件でも介在すればたちまち火曜サスペンス劇場なみのミステリーが一本出来てしまいそうな雰囲気の設定だが、しかし物語の中心はあくまでこの湖であり、そこに轟く雷鳴とともに各人の傷つき罪の意識に苛まれる心へ訪れる、もうひとつの神秘的契機である。かくして、この地に集う人々はそれぞれの心に根深い傷を抱えながらも、湖への落雷によって何らかの癒しへ足を踏み出す。その意味で、『天池』は人間の知性ならぬ自然の神秘が探偵役を勤め、存在の暗闇を照らし出す一風変わったミステリーとして読まれるかもしれない。そう、共観福音書もまたひとつのミステリーとして読みうるのと同じように。

物語の中核といってもよい長女と元従軍記者のロマンスを例にとろう。このオールドミスは幼児期より問題児でさんざん母親の手を煩わせたが、東京の大学で気の合う恋人を得て狂おしいほど幸福な日々を送る。だから、ある日突然、別れ話を切り出された時の衝撃は大きく、彼の目前で衝動的に自らの左手を焼いてしまう。彼女は彼の言葉を聞くや否や、レストランのテ?ブルの上に灯る赤いローソクの上に左手をかざし、こう言ったのだ--「いままでの通りに。そうはっきり約束してくれるまでこの手は引きません」(一八〇頁)。 

きわめて個人的に見えるこの失恋事件から長い長い歳月が過ぎて、長女は民宿を訪れた元従軍記者と知り合い、彼は彼で、相手の左手の傷から自分自身の魂の傷を思い出す。それはかつて、プノンペンにおける住民大虐殺を目撃しながら、そこになぜかたんなる戦争の狂気以上の「何かとても人間的なもの」を、すなわち「それまで漠然と思い描いてきた<人間>の領域を超えた人間の行為」を実感してしまったことに起因する。その述懐は、初期以来の日野文学特有の主題を反復し拡大するだろう。「そんな人間の境界の〃向こう側〃に、ぼくも見入られたように入り込んで、廃墟を、虐殺の現場を探しまわり歩きまわり、文章に書きカメラに撮り……言い難い恐怖と戦慄に震えてきたんだ。共振するものがまったくなかったとは言い切れないそのこと、境界を超えたものにどうしようもなく惹かれるということがぼくの傷、いや生まれた時からの欠損かもしれない」(一一四頁)。

だからこそ彼女が月光のもとに自らの肉の引き攣れた傷痕を差し出し、そこに魂の傷を負う男自身も手を重ね合わせる時、それは美しい一葉の絵を織り成すだろう。さらに、物語後半、湖地帯への落雷とともに、彼女が長年愛してきた巨大な「わたしの樹」、「天と地を結ぶ中心の樹」が燃え落ちる瞬間には、人間自身がそのよりどころを剥奪され、悲哀と歓喜の混濁した崇高なる情景が、ミクロコスモスとマクロコスモスを一気に照応させる--「かつて小さなローソクが掌を焼き、いま巨大なローソクが魂を焼く」(二四七頁)。 

本書は、終章を含む全八章がそれぞれ風景画として構想されている。かねてから作家が好きだったアメリカ東海岸の画家アンドリュー・ワイエスのように、ニューイングランドの何の変哲もない風景の背後にとてつもない歴史的な暗闇を、ひいては芸術家本人の心の暗闇を封じ込めていく手法。そういえばワイエスの描く自然は魔女狩りの植民地史とともに、ヘルガという名の魔女的愛人の個人史をも密やかに塗り込めたものである。

平凡なる風景を過剰なまでに夢想化していく行為を、ひとは思い込みと呼ぶ。それはいささかの事実にも基づかない。だが、本書はまさしく自由奔放な夢想だからこそ、その内部に何らかの真実を突く神秘的瞬間を巧妙に仕掛けてやむことがない。   


***2002年度付記
2002年10月14日午後5時、作家の日野啓三氏が大腸がんのため亡くなった。享年73歳。読売新聞記者としてサイゴン駐在経験もあり、長く批評家として活躍し、1975年「あの夕陽」で芥川賞を受賞してからは、我が国で考えられるほとんどすべての文学的名声を博してきたこの人物について、いまさら経歴をおさらいする必要はないだろう。17日午後6時から信濃町の千日谷会堂で行われた通夜にも参列したが、その詳細も省略する。ここで銘記しておきたいのは、芥川賞選考委員も勤め主流文学の中核を成してきたともいえる彼が、一九八〇年代ごろよりニューウェーヴやサイバーパンクを熱く礼讃してやまず、まさにその文脈において、わたしと語り合う機会を持った経緯である。

日野文学を読みはじめたのは、そう昔のことではない。1991年に編訳書『サイボーグ・フェミニズム』を出版して以来、深く関わることになる出版社トレウ゛ィルが日野氏のエッセイ集『モノリス』(1990年)を出していたり、畏友である科学技術史家・永瀬唯氏がギブスンを彷佛とさせる日野氏独特のジャンクアート感覚を絶賛していたりしたため、推奨されるまま、徐々に『階段のある空』『夢の島』に代表される彼独自の想像世界にはまり込んでいったのだ。したがって、1996年12月より1998年12月までの丸二年間、読売新聞読書委員に任命されたときには、隔週で開かれる読書委員会の折に、この先覚者的作家と談笑できるのが大きな楽しみとなった。初対面の折に「あなたの批評を読んでいると励まされるよ」と声をかけていただいたのが、はじまりだった。ちょうど池澤夏樹氏が読書委員を辞めた直後であり、新たな「話し相手」を求めておられた日野氏とは、委員会が終ったあとにも個人的に話し込み、何度か、大手町地下のバーで真夜中近くまでグラスを傾け続けたものである。

したがって、1997年の一年を通じ、わたしは何度か日野氏を三田にお招きすることになった。その春には、いまは名誉教授となられた元三田文学編集長・古屋健三先生とともに総合講座「芸術と文明」を運営していたので、6月3日に講演をお願いしているし、その秋には、日本アメリカ文学会第36回全国大会の会場校がたまたま慶應義塾大学だったため、10月12日午前の特別講演はもちろん、同日の夕刻には、ASLE-Japan文学-環境学会の特別講演までお引き受けいただいている。さわやかな秋晴れの午後、当時の拙宅のあったシャンボール三田一階のイタリア料理店アルポルトにて、昼食をともにしたのを、まるで昨日のように思い出す。われながら、まったく甘えきった態度だったとは思うが、このころには日野氏自身も委員会で「最近は巽孝之によく騙されてね」と笑い飛ばすほどになっていた。

すなわち、日野氏との個人的な交流は、決して長いものではない。せいぜい、ここ五年ほどのことにすぎない。にもかかわらず、人間の時間感覚というのは不可思議なもので、わたしの中には、数十年もの知己であるかのような濃密な時間が流れていた。そんな気分にさせる、不思議な人だった。ほんの一年ほど前にも、気軽に電話をかけてこられ「ディックを読んだときのような、あんなとてつもない感動を与えてくれる新しい作家はいないか」と訊かれるほどに、飽くなき探究心の持ち主だった。

晩年の日野文学には傑作が多く、同じく先頃亡くなられた高橋康也氏の脚本、一柳慧の作曲により、バラード系ニューウェーヴの極北であるとともにネイチャーライティングの収穫ともいえる長編小説『光』(1996年読売文学賞受賞)のオペラ化が予定されていると聞く。ここに再録した書評は、1999年に発表された長編小説『天池』に関するものだが、じつはわたしは、まさに作家が本書原型を<群像>連載しはじめた年に作家と頻繁に会っていたので、そのモチーフがエピグラフにも引かれているアメリカ・ロマン派の代表的詩人エミリ・ディキンスンと、アメリカ風景画の代表的画家アンドリュー・ワイエスであることは、あらかじめ聞いていた。前掲アメリカ文学会での特別講演が「神なき時代の超越--ディック、ディキンスン、カスタネダ」と題されていたのは、そのことに因る。ゆえにこの書評も初稿では「ヘルガのための八章」というタイトルに決めていた。けれども、それだともろにネタバレになってしまう。神秘的瞬間(ミステリー)を主題に歌い上げる本書が、いわゆる推理小説(ミステリー)の形式を彷佛とさせるのは、何よりも最大の黒幕であるワイエスの名が、その表面からはいっさい削り取られているためである。だからわたしもゲラ校段階で、、本質的に多重的ミステリーである本書の構想に照らし、当初の仮題を削り取った。そして、2001年9月には、フィラデルフィアの会議を訪れたその足で、ワイエス家ゆかりのブランディワイン・リヴァー美術館を訪れた。このときの記憶は、やがて日野啓三論とともに書かれる本格的なワイエス論において、呼び戻されるだろう。  
11/2/2002

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