2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:街角

Soundings Newsletter #26  (1992)
ある朝、街角で
巽孝之

東京都内から郊外へ引越したその大学の新キャンパスは、いかにもポストモダンな校舎で埋めつくされていた。個人研究室の大半にはパソコンが最低一台、各階・各学科ごとに高性能のゼロックス&ファックスなど電子機器が複数、あらかじめ常備されたハイテク学術環境。パソコン・ネットを利用したメール交換も盛んだ。ほんの数年前まで個人研究室などなく共同研究室があるきりだった大学だとは想像もつかない。だが、スタッフの中には、過ぎ去りし時代を懐かしむ声もある。理由は簡単、共同研究室時代にはあった人間的連帯が、個室化/ハイテク化によって失われるのではないかと危惧するためだ。ではどうするか。この大学では、以前にも増して熱心に慰安旅行が計画されるようになったという…… 

豊さをめぐる書物が花盛りである。豊さを語るスタンスは人それぞれ。けれど中でも最も鋭角的と思われる奥出直人氏の『トランスナショナル・アメリカ―豊さの文化史』(岩波書店)を読んでまっさきに連想するのは、ごく最近評者自身が目撃した上のストーリーにほかならない。とりわけ、この実話を語ってくれた同大学スタッフがふと「新キャンパスになって未だ豊さになれていない人々もいる」と洩らしていたことは、想像力を刺激するところ大であった。なるほど、現代人の大半は資本主義的ハイテク化を豊さへの道と捉えて、それが知的洗練とも連動するという物語を信じているだろう。そのかぎりにおいて「アバンダンス」の対義語は「慰安旅行」になりそうだ。だが、慰安旅行提唱者の側にしてみれば、むしろ人間的連帯を得られるチャンスこそ真の「豊かさ」であるはずだ(むろんこの場合の「豊かさ」を英訳しても「アバンダンス」にはならない)。ここには、古色蒼然としたテクノフィリア/テクノフォビアの二項対立論議ではおさまらない問題がひそんでいる。端的にいえば、「豊かさ」というのは実体どころか、むしろ近代から脱近代へいたるプロセスを円滑化するために採用された「物語」であるということだ。「豊かだったアメリカ」「豊かになった日本」を語るとき主題化されているのは物質的繁栄そのものではなく、むしろいかに「豊かさという名の神話」が効果を発揮していったのかという言説史のほうなのである。そして、いみじくも『トランスナショナル・アメリカ』第5章は「アバンダンスという『フィクション』」と題されている。

ところで、豊かさというフィクションはともあれ、散歩している街角でふとフィクションの豊かさに出会ってしまったとしたら?

まず、冒頭の新大学キャンパスが、筆者が昨年暮れに一週間近く通いつめた集中講義先であったと解釈していただきたい。そして、通勤のため(同大学には宿泊施設がない)、筆者は同大学から二駅離れた京王線沿線某ホテルに投宿したと前提していただきたい。

いつものように駅の改札へ向かっていると、どこか様子がおかしいのだ。改札付近の通勤客がいっせいに同一方向を向いて立ち止まっている。何か事件でも起こったのかと思って通勤客の視線の行方をたどってみたが、その先は虚空でしかない。あたかも不思議な少年が「時間よ止まれ!」と叫んだようでもあり、あたかもジョージ・シーガルの彫刻群のさなかにほうりこまれたようでもあった。しかし、そのような超現実的時空間は、ひとつの号令とともに破られる。通勤客たちはいっせいに歩き出した。そう、彼らは某テレビ局の某トレンディ・ドラマのロケのために雇われた「通勤客を演じる通勤客」だったのだ。いうまでもなく、雑踏の中心には日本中知らぬ者のないあのヒロインが輝いていた。そのドラマは同駅所在の某デパートを舞台にして行われていたから、まさにその街全体が巨大なドラマ用セットとして貸し出されていたというわけだ。街でフィクションを買うよりも早く、すでにわたしたち自身が知らぬ間にフィクションの登場人物にされている。いかなるたぐいの豊かさであれ、それはふだんそれと気がつかないからこそ豊かさなのだということを、この時ほど感じたことはない。