2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:読書目録(上)

週刊読書人 ( 1992年 7月 13日)
魔術としての読書 
―読書日録<上>―
巽孝之

読書日記を書いたことはなくても、「読むこと」について考えるのは嫌いじゃない。必ずしも読書速度の早いほうではないからだろうか。飛ばし読みというやつがなんとも苦手で、はっきりいえばトロイのだ。

だから、一冊の本をゆっくりじっくり読む。ノートをとるのもいいが、あとになって本とノート両方を探しまわるというのもやっかいなので、どちらかというと余白にどんどんメモを書きこむ。そう、わたしは正真正銘「本を汚すタイプ」、まったくもって愛書家の敵であろう。はなはだうしろめたいかぎり。しかし、研究者という職業、ほんの一冊の本でも即座に何が書いてあったか思い出せないと困るのもたしかなのである。

ところで昨今、そのように「本を汚す」ことにうしろめたさを感じつづけてきた読者にとって最大級の福音がもたらされた。新しい歴史学ないし新歴史主義批評でいうところの「読者の歴史」研究が、それ。ここ数年、大学の講義でも、同じ方法論に立脚する米国デューク大学教授キャシー・デイヴィッドソンの(編)著書を使ってみたが、好評だった。最近邦訳の出たロジェ・シェルチエ編『書物から読書へ』(みすず書房)も類書のひとつだ。

このアプローチは、まあわかりやすくいえば、従来「作家の歴史」にかぎられていた文学史を問いなおし、こんごは「読者の歴史」をも射程にいれた文学史再構築をくわだてようという、じつに野心的な試み。その目的達成のためには、過去の書物の余白に「書き込み」があればあるほど、当時の「読者の意識」をさぐる参考になってよいというわけである。その意味で、前掲書ではわけてもダニエル・ファーブルの論文「書物とその魔術―19・20世紀におけるピレネー地方の読者たち」がおもしろかった。彼は何と、本を読んで書き写したりメモを書きつけたりする習慣自体が「本を手なづけるための魔術」となりえた歴史を探っているのだから。