『想い出のカフェ』(9/03/1994)
坂の街のグラウンド・ゼロ
巽孝之
巽孝之
サンフランシスコは、時にアメリカ西海岸のパリとも呼ばれる。なるほど、パリもサンフランシスコもともに美しさでは定評がある都市だけれど、この類推にそれ以上の根拠があるのかどうかは、じつはよくわからない。しかし、ロラン・バルトや O・B・ハーディソンらを中心にエッフェル塔をめぐる都市批評が少なからず紡ぎ出されたように、イアン・バンクスやウィリアム・ギブスンらを筆頭に金門橋(ゴールデン・ゲイト・ブリッジ)やベイブリッジへ捧ぐ都市瞑想がおびおただしく繰り出されてきたことは、パリとサンフランシスコがともに都市論のための都市、いわば自己言及都市(メタシティ)であることの証左といえるかもしれない。二十年代パリや六十年代サンフランシスコに思いを馳せれば、各々一時代を画した芸術文化都市として、たしかにどこか通底して見える。
そう感じるのも、サンフランシスコでいちばん印象に残っているのが、何よりそのカフェ文化であるからだ。わが国では、いわゆる古き良き喫茶店が衰亡して久しく、わたし自身の勤務先周辺である三田界隈も学生街の喫茶店は軒並み潰れ、オフィス街向け飲食店に取って代わられてしまったが、他方サンフランシスコ市内やバークレイ周辺では、カフェはまだまだ大学を中心にした知的震源地として意義をもつ。ゲイ文化で知られるカストロ・ストリートのカフェや、自転車急便(バイク・メッセンジャー)として働くパンク少年少女の溜まり場にもなっているヘイト・アシュベリーのカフェ、それにカリフォルニア大学の学生や教師が議論を戦わせるバークレーのカフェ……。
中でも気にいっているのは、一九九二年十一月、とある会議のために市内ディヴィザデーロ・ストリートの宿に滞在していたとき付近で見つけたカフェ “グラウンド・ゼロ” である。このとき、パネル草稿の最終手入れをしなければならず切羽詰まっていたわたしは、あまりにお誂え向きのムードにすっかり酔った。ロフト風とも形容できるマットブラックの店内は決して綺麗ではないのだが、シンプルな椅子やソファがじつにゆったりと置かれ、学生とも芸術家ともつかぬパンクス風の連中が、カップ片手にのんびり本を読んだり原稿を書いたりしている。いまカフェ/喫茶店といえば読書か談論のイメージに限定されるきらいがあり、ワープロ全盛の今日では、カフェの中での執筆風景にはますますお目にかかれなくなったけれど、この坂の上の店には、確実に文化を吸収し創造していく気配があった。片隅には、それを裏づけるアングラ・ペーパーやオリジナル・ポストカードが山と積まれている。思い出深いカフェは数多くても、こんなカフェにちょくちょく入り浸ることができたら……と思わせるようなカフェは、ほかに知らない。
わが国では、かつての人間交流を軸にした喫茶店文化はパソコン・ネット文化に代替されたという説がある。それが喫茶店衰退に関するもうひとつの理由らしい。しかし西海岸の坂の町では、ドラッグからコンピューターへの意識改革を経てもなお、電脳文化とはまったく並行するかたちで、独自のカフェ文化の伝統が脈々と受け継がれていた。