文芸春秋「文学界」( 2002年 2月号)
〈掘り起こすべき作家たち〉
レイ・ブラッドベリ
——データ・ボディの預言者
巽孝之
レイ・ブラッドベリ
——データ・ボディの預言者
巽孝之
わたし自身がかつて 30年ほど前に熱愛し、にもかかわらず今日の市場ではほとんど見かけなくなってしまった日本人作家としては、荒巻義雄と西谷祥子にとどめをさす。こう記すや否や、ちょっと待ってくれ、というツッコミが入るかもしれない。なるほど荒巻義雄は戦記シミュレーションのベストセラー作家だが、彼はデビュー当時、ニーチェを根本に据えた超現実的表現を自家薬籠中のものとし『神聖代』で頂点をきわめるニューウェーヴ系思索小説の旗手であった。西谷祥子は当時絶大なる人気を誇った少女漫画家だが、『ジェシカの世界』を代表とする初期作品は、凡百の文学などやすやすと凌ぎヘンリー・ジェイムズにも迫る文学性があり、いま読み直してもその輝きにはいささかの翳りもない。にもかかわらず、双方の代表作は、いま入手困難をきわめている。
しかし、いちばんシリアスなのは、売れているのに語られなくなったケースではあるまいか。その尺度で、アメリカ作家を考えるなら、たとえば幻想系 SF作家レイ・ブラッドベリの名前が浮かぶ。以前であれば『ユリイカ』誌が特集号を組んだほどの作家が、なぜいま「見えない」のか。ひとつには、萩尾望都らの活躍により、それこそ少女漫画へ吸収されてしまったためかもしれない。もうひとつには、彼の『何かが道をやってくる』などが備えていた特質は、以後のスティーヴン・キングらの活躍とホラー・ブームの隆盛により、すっかり更新されてしまったためかもしれない。かつて高度成長期においてブラッドベリといえば SFやホラーやファンタジイなど文学サブジャンルへの入門者にとって絶好の教科書であり、誰にでも勧められるテクストだったが、いまでは時代そのものがブラッドベリを卒業してしまった気配が漂う。
にもかかわらず、わたしはいまでも、折にふれてブラッドベリを読み返す。それも、『火星年代記』でもなければ『華氏四五一度』でもなく、『刺青の男』( 1951年、邦訳・早川書房)を。これは原題を “The Illustrated Man” といい、1900年、未来から来たという女によって全身に十八の刺青を施された男の物語だ。彼は見世物小屋で働いていたところ、あるとき足を折ったため、退屈しのぎにこれらの刺青を彫ってもらったのだが、何とそれはひとつひとつが未来を予言する物語から成っていた。宇宙旅行、未来社会、地球滅亡、異星人の侵略などなど、それらエル・グレコの細密画を思わせる刺青群は、夜になると動きだし、見る者を眩惑してやまない。1968年にはロッド・スタイガーが主演して映画化もされたが、そこでは全十八におよぶ物語からほんの数点だけが選ばれているにすぎなかった。
もちろん、このような設定はたんに連作集を円滑に展開するためだけのギミックのように映ることだろう。けれども、時間を自由自在に行き来できる存在が、未来の記憶をひとりの人間の肉体に彫り残すという設定は、歩く美術館ならぬ歩く記憶の宮殿の発想として、デジタル文化のまっただなかでデータ・ボディを生きるわたしたちだからこそ、深く実感できるはずである。
つい最近では、クリストファー・ノーラン監督の新作『メメント』( 2000年)が、あまりにも衝撃的な経験をしたために十分しか記憶を保てなくなる男の物語を展開しており、そこでもまた、記憶を保持するため、ポラロイド写真とともに刺青という手段が用いられていたのが、印象深かった。もちろん、ノーランの背後にはウィリアム・ギブスンの影響もあろうものの(とくに『モナリザ・オーヴァドライヴ』)、これは本質的には、まちがいなく刺青の男の、レイ・ブラッドベリの最も現在的な再解釈である。リバイバルがサバイバルを導く奇跡を、わたしはそこに垣間見た。