2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:新人賞のころ



サウンディングズ英語英米文学会
サウンディングズ・ニューズレター#51
(2005年7月11日発行)
特集「私の論文作法」


かれこれ20年以上もむかし、まだ20代のことだから、いまではとりたてて経歴に記すこともない。拙著の著者プロフィルでも、すでにふれることはない。

しかしわたしにとって、やはり1984年に第七回日本英文学会新人賞を「作品主権をめぐる暴力── Narrative of Arthur Gordon Pym 小論」(『英文學研究』第61巻 第2号[1984年12月])で受賞したことは、まちがいなくアメリカ文学を専攻する学者研究者としての重要な第一歩だった。ポウはわたしが四谷の大学院で修士論文、博士課程修了論文の主題に選んだ作家であったが、当初はとくに方法論もたてず、闇雲に作品を読みこむばかり。ところが1980年にポウとカントの体系的類比を扱った修士論文を脱稿したとき、まったく同時期にグレン・オーマンズという北米の学者がほぼ同じ発想の論文を発表していたのを知ったのがきっかけで、わたしは猛然と尖端的な批評理論をも読みあさるようになった。太平洋をはさんで同時期に同じ発想をしていたわけだから、やがては極東の島国で書かれる論文がオリジナリティを主張する可能性も今後大いにありうるだろう、と勝手に思いこんだのである。かくして博士課程修了論文のときには、作家を論じるのに自ら構想していたジャンル理論と1980年前後に勃興していた北米の脱構築批評理論との相性がいいのに気づき、両者の融合を図った。日本アメリカ文学会を中心に、以後長年の親交を結ぶことになる仲間と出会って切磋琢磨し、さまざまなかたちで発表の機会を与えられたことも、大きな刺激となった。このころより、わたしにとって論文作法とは、学会発表を経て何度となく「書き直すこと」以外にありえなかったような気がする。

だからそうした仲間のひとりで、のちにはともに共著を出すことになる現・筑波大学教授の鷲津浩子氏が1983年、ホーソーンの『七破風の屋敷』をメタフィクションとして読み直すという画期的な論文により、第六回日本英文学会新人賞佳作に入選されたときには、ひとつの扉が開かれたのを実感した。当時、たしかに構造主義以後の理論は流行し始めていたが、実情は理論書の翻訳・紹介など啓蒙活動の盛んな段階で、それが具体的な文学研究にも有効なのだと雄弁に証明した実践はまだ少なく、学界内部でも反発が強かった。噂先行の警戒心や疑心暗鬼が先行し、ポール・ド・マンいわくの「理論への抵抗」が、文字どおり新しい理論への抵抗勢力というかたちで潜在していたのだ。そんな時代に、イーハブ・ハッサン譲りの自由な発想でホーソーンに挑んだ鷲津論文がお堅い学界でも高い評価を受けたのだから、衝撃というほかはない。すでにバーバラ・ジョンソンやジョン・カーロス・ロウの脱構築批評にどっぷり漬かっていたわたしに、鷲津氏本人が「巽君も応募してみたら」と背中を押してくれたのが、新人賞論文執筆の直接的な動機となった。

この当時、わたしはフルブライト大学院留学生として1984年夏からコーネル大学へ行くのが決まっており、そのときの研究計画も「アメリカン・ルネッサンスの作家たちを構造主義以後の理論で読み直す」というもの。したがって、いささか大げさに言うなら、この新人賞論文は、それまで過去に行ってきた学会発表を集約し、これから未来の留学生活へ向けて跳躍するためには、どうしてもくぐり抜けておかなければならない関門だった。

はたして1984年4月30日、すなわち新人賞論文締切当日、まだ今日のように論文執筆にやさしいワープロもパソコンすら存在しない環境下、四百字詰原稿用紙30枚の草稿相手にぎりぎりまで推敲を重ね、飯田橋のジローで最後のチェックに余念がなかったのを、昨日のように思い出す。事前に原稿をお見せした秋山健先生からは「文学研究なのだから『型式』という表記は『形式』に代えたほうがいい」というご助言を賜ったが、もちろんそれだけにはとどまらない。ホワイト片手に、誤字脱字をけんめいに修正していたものだ。なぜ飯田橋のジローかというと、なにしろ締切当日だったので、その足で神田駿河台の研究社ビルのポストへ直接投函するつもりだったからである。

若気の至り、という釈明がまだまだ通用する28歳の春。空は青く、どこまでも晴れ渡っていた。

5/29/2005

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