研究社<英語青年> 2003年 6月号
レスリー・フィードラー追悼特集号
あの日、デンドゥール神殿で
巽孝之
あの日、デンドゥール神殿で
巽孝之
最初は 1986年 1月 11日から 17日まで、ニューヨーク・シティで行われた第 48回国際PEN大会の席上。ちょうどコーネル大学留学中だったわたしは、このホットな大会についてつぶさに観察する機会を得た。ロナルド・レーガン第 40代合衆国大統領が 1983年に「戦略防衛構想」(SDI=Strategic Defense Initiative)、すなわちソ連の戦略ミサイルを発射直後に宇宙空間から撃ち落とすスター・ウォーズ計画を樹立したのち、アメリカがますます保守化をきわめ、カール・セイガン曰くの「核の冬」が広く恐怖を呼び起こしていた矢先のことだ。
かくして開会式当日発売の<ニューヨーク・タイムズ> 1986年 1月 12日号には、批評家ジョージ・スタイナーが「監視される言語--作家と国家と」なる一文を寄せ、大会テーマ「作家の想像力と国家の想像力」を「なんともそらぞらしいフレーズ」と皮肉った。さらに当時の国際 PEN会長ノーマン・メイラーは、かつて 1952年に制定されたマッカーラン=ウォルター条例を利用して左翼系芸術家を抑圧した元凶たるジョージ・シュルツ国務長官を招き、開会式にてスピーチまで促したため、これを「職権濫用」と見るスーザン・ソンタグらが一斉砲撃開始。ただし公平を期すなら、この時シュルツ本人は「現在ではこの条例は適用されていない」「作家の自由に関する限り政府もイデオロギーも食い止めることは不可能」「それどころか作家と国家の関係は時として友好的に、また創造的にすらなりうる」と明言、かなりの拍手さえ獲得している。
シュルツ・ショックの影響は 1月 15日早朝、国際 PEN大会では珍しいパネル「サイエンス・フィクション」にも及んだ。司会にニューウェーヴ思索小説の大御所トマス・ディッシュ、パネリストにはその盟友サミュエル・ディレイニー、幻想小説の俊英ジョン・クロウリー、境界領域文学の旗手ジョン・カルヴィン・バチェラー、そして文学批評の権威レスリー・フィードラーといった錚々たる顔ぶれをずらりとそろえたパネルは、SFなど大衆的な「ジャンル小説」がいかなる「自由」をもたらすかという点で、実り多い討論を導く。
とりわけフィードラーが、規範的な「必読文学」にも親しみながら自分がたえず大衆的な「選択文学」へ還ってくること、いまやこうした文学の区分を崩さなければいけないこと、そして、SFは「イデオロギー的というよりは神話的に読者を真理へ導いてくれるジャンル」であり、仮に逃避文学といわれようが「囚人以外に逃避が咎められるべき人間などいない」ことを主張したのは、シュルツ・ショックへの回答としても、パネル全体の展望を拓くためにも、資するところが大きい。したがってこの晩、メトロポリタン美術館内部のデンドゥール神殿を舞台に行われたレセプションで、わたしはかねてより「必読文献」の著者としてしか知らなかったフィードラー本人と、パネルでの議論に関する質疑応答を交わす。彼がいきなり日本語を交え始めたのにはびっくりしたが、いまにしてみると戦時中、日本語通訳も務めた経歴の持ち主ゆえの対応だったのだろう。1989年の 5月には、岩元巌氏がプロデュースした「日米の理解と誤解」会議(於・国際文化会館)のためイーハブ・ハッサンやラリイ・マキャフリイ、ノーマ・フィールドらと来日、そこで同席したのが最後の会話となった。
そんなことを思い出しながら、フィードラーの膨大な書物群の中でも、『アメリカ文学における愛と死』をはじめとする三部作や、文化研究の先駆『フリークス』、そして事実上の遺作となってしまった 1996年刊行の The Tyranny of the Normal(Boston: David R. Godine, 1996)の意義を考え直す。1980年前後の大学院時代、フィードラーといえばいわゆる精神分析批評、神話原型批評というカテゴリーとともに教え込まれている。シェイクスピアからホイットマンまで、ディケンズからフィリップ・ホセ・ファーマーまで、多岐に渡る対象の中から類型的人物像を再発見し小気味よく切り捌くテクストには、批評の想像力と文学の創造力が矛盾しない地平が、確実に切り拓かれていた。文学史に限っても、植民地時代のメアリ・ホワイト・ローランドソン、ハンナ・ダスタンらのインディアン捕囚体験記や、共和制時代のスザンナ・ローソン、ハンナ・フォスターらの感傷小説の示す物語学を早くから積極的に分析してみせたのは、もともと大衆小説にも造詣の深いフィードラーならではの洞察であり、だからこそ彼が織りなすヒーローやアンチヒーローに関する系譜学的分析は説得力充分だった。キリスト教的伝統を批判しつつ、セクシュアリティとゴシックロマンスを基軸にアメリカ文学史を再考していくその方法論は 1960年代以降の我が国においても絶大な影響力をふるったが、その射程は広くて長く、1990年代以降、新歴史主義以降の風土において、わたし自身がアメリカン・ナラティヴの再検討に関心を抱くようになったのも、フィードラーが遠因だったかもしれない。
もちろん、これほどに完成された学者批評家の場合、良くいえばどれを読んでも個性的、悪くいえば自己反復的という事態が起こりうる。スタイルを容認するかマンネリを断罪するか、判断の基準は受容者次第。遺作となった The Tyranny of the Normalの場合も、長く耽読してきた読者には、まさにこのいつも変わらぬフィードラー節こそが楽しいはずだが、人によってはたんに変わりばえのしない論理としか映るまい。けれども、自伝的部分をふんだんに盛り込み、多くの講演をもとに編集されたエッセイ集は、163ページというスリムな一冊ながら、この多面的な学者批評家のいちばん本質的なところ、いわばいちばんおいしいところだけは、きちんとつまみ食いできる仕掛けになっている。
全九章の内訳は、宗教や性現象を皮切りに、文学における医者、看護人、身障者、臓器移植、不老不死、児童虐待、そして老いらくの恋に至るまで多種多様ながら、アメリカにおいて人並みとされる基準が、いかにして知らず知らずのうちに規格外の集団に対する言説的暴力を働いているか、そのさまをヴィヴィッドに描き出す。『フリークス』を書き上げた原動力が、ナチスドイツの時代はもちろん、WASP中心社会においては著者自身をも含むユダヤ人など人種的少数派そのものがフリークスと見られてきた事情にあることも、雄弁に語られる。だからこそフィードラーは、1960年代以降の文学的正典がいかにして現在進行形の(対抗)文化的現象と連動していくかに、留意する。
たとえば本書中、SF作家ロバート・A・ハインラインのベストセラー小説『異星の客』( 1961年)が、火星人の認識能力を魅力的に輪郭づけることで、チャールズ・マンソンの殺人宗教を触発したいきさつがくりかえし言及されるのは、ひとつの徴候だろう。とりわけ興味深いのは、児童虐待問題を世代間闘争と関連づける著者の分析が、新世紀のいまこそ読まれるべき明察を残すくだりだ。彼は指摘する--いまやイスラム系の北アフリカや中東において児童虐待めいた体罰が大人に対しても行われるとともに、キリスト教系資本主義アメリカにおいても死刑が再評価されるようになったこと、このテロル漬けの現代世界において反暴力の動きはいまにも消え失せようとしていることを。
そう、フィードラーの遺作は、必ずしもひとりの批評家の歴史に関する文学的落ち穂拾いにとどまらず、世界の未来を占う預言的聖典としての意味を持つ。フィードラーという名の神殿は、いま開かれたばかりだ。