工作舎<土星紀>第 136号(1998年 4月号)
標本箱
——夏——
巽孝之
標本箱
——夏——
巽孝之
最も衝撃的な「事件」が起こったのは、その時である。
日曜日の朝、付近唯一の商店街がある富士見町のコープを訪れたところ、やはり同地の別荘に避暑に来ておられた土居健郎氏御夫妻とばったり再会したので、わたしは即座に一緒にいたポールをご紹介申し上げた。するといきなりポールの表情が一変し、おずおずとこう告げるではないか。「こんなところでお会いできるなんて、ほんとうに光栄です。『「甘え」の構造』は昔からぼくの聖書、土居先生は長い間ぼくの英雄でした」。
たしかに土居教授のベストセラー『甘えの構造』(弘文堂、1971年)は、73年にはもう“The Anatomy of Dependence” のタイトルで英訳版が出版されている。そもそも原著自体に、スポック博士の育児書とヒッピー文化との関連が詳細に分析されている。だが、じっさい同書に影響を受けて思想形成したフラワー・チルドレンの典型がこんな身近にいるとは意外だった。わたしはさっそく書庫の奥から、大学時代に線を引きまくった『「甘え」の構造』を取り出し、ポールのディック研究をも取り出した。
一夏の高原における奇跡的な遭遇が核爆発を起こし、ふたりの文筆家の著作を根本的に読み返す機会を与えてくれた。こんな経験は、いまどき滅多にない。