2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:アメリカ講演旅行1996

Panic Americana #1 (11/30/1996)
アメリカ講演旅行1996
巽孝之

去る 3月から 4月にかけて 1ヶ月強のあいだ、アメリカ東海岸諸都市をめぐる初めての講演旅行を行った。3月 12日のハーヴァード大学文学文化研究センター(ボストン)を皮切りに、3月 15日~16日のジャパン・ソサエティ映画プログラム(ニューヨーク)、4月 2日の慶應ニューヨーク校(パーチェス)、それに 4月 13日~15日のブラウン大学歴史学科シンポジウム(プロヴィデンス)まで。専門上の国際会議や関与中の共同研究のことを考慮に入れると、訪米しなければならない事情はいくらでもあるのだが、目下の時点でサバティカルも取るわけにはいかず、最近は時差ボケがきついため、あまり学期期間中に留守をしたくもない。何とかまとまった休みを利用して不義理を一挙解消する方法はないものかと思っていたところ、幸い上記ジャパン・ソサエティの尽力により、ジャパン・ファウンデーションがアゴアシを保証してくれたため、思い切って春休みを大幅にはみだすというわがままなスケジュールを組んだ。そのため、ゼミ 5期生の卒業に立ち会えなかったことにまことに申し訳なく思っているし、日程上、新 3・4年生との初顔合わせが大幅に遅れてしまったことにはほとんど罪悪感を感じている。しかし、にもかかわらず英文科教師がたえず研究の水準向上をこころがけるべき外国文学研究者である以上、高品質高頻度の多文化間意見交換は不可欠であり、そのことが結果的に学生諸君、とりわけゼミ生諸君にも大きく貢献することになるはず……という名目を掲げておけば、とりあえずはお許しいただけるだろうか。論より証拠、かつてサンディエゴ州立大学教授ラリイ・マキャフリイたヴィデオ映像作家デイヴィッド・ブレアが来日時にそれぞれゼミで講演してくれたのも、まさしくそうした交流の副産物にほかならない。

今回に関していえば、とりわけ日米比較文化論を中心にしたディスカッションから得られた収穫が大きく、その成果はおいおい活字にしていくことになるだろう。ただし、多忙自体を楽しむには、わたしは少々歳を取りすぎている。というのも、ふりかえってみるに、そうしたハード・スケジュールはたしかに充実しているものの、一方ではそのスケジュールのすきまでほとんど何もせず遊んでいた期間、グリニッジ・ヴィレッジにおけるサラブレット生活の 2週間が得られたことのほうが、はるかに貴重に感じられたからだ。文学研究の基本は、いうまでもなく、本を読み批評的思索をめぐらすだけでなく、その結果を自らも言語化して公表することにある。本を読む各主体は、それぞれがべつべつの歴史的経験を経て形成されているので、同じテクストをインプットしたとしても、必ずしも同じアウトプットが出てくるとは限らない。そこに、文学研究の妙味がある。いいかえれば、一冊の本を読んでからしばらくぼんやり時間をすごし、それがやがて思わぬかたちで自分個人の言葉となって表現される=生きられるようになること、そこに文学作品を読むことの最大のスリルがある。

読後感は、ひとりずつからこそ有意義なのだ。けれども、あるていど読書が制度化してくると、インプットからアウトプットへ至る間の時間がせばまり、誰もが似たような結論でその場しのぎをしてしまう。レポートや書評原稿の締切りが拍車をかける。これは文学研究の産業化どころか読書主体の自販機化であり、文学部学生だろうが職業的文学者だろうが、この陥穽にハマる可能性は免れない。それは講演中のわたし自身が、最も恐れていたことだった。

ところが、そんなある日、滞在先から目と鼻の先に位置する大手書店バーンズ&ノーブルのユニオン・スクエア支店に足を踏み入れたときのこと。そこでは書棚の本なら買わなくても書店内喫茶店に持ち込んでよい、ゆっくり読んでからレジへ持参するかどうかを決めればよいという画期的な戦略がとられており、わたしは心底仰天した。いまどき喫茶店を設置する書店ならいくらでもあるが、商売を度外視しているのは例外的だろう。仕掛け人は、昨今進出著しいシアトル資本のスターバックス・コーヒー、それがこの大手書店ともついに提携開始したというわけである。電脳文化の進展以来、かつての喫茶店での読書や雑談はインターネットでのスキャニングやチャッティングに取って代わられ、喫茶店文化はとりわけ三田界隈では確実に衰退しつつあるように感じていただけに、もともと喫茶店で本を読むのが好きなわたしは、新鮮な衝撃を覚えた。そこでは立ち読みが禁じられているどころか、座って読むことが大いに奨励されているのだから。精読すべき本だろうが速読できる本だろうが、とりあえずは書店に入ったら買うかどうか決断することが迫られている高度資本主義時代において、仮にこうした書店改革が普遍化すれば、多忙なる現代人の読書生活の根本へ心地好い衝撃を与えることになるだろう。

一冊の本を読むのにそれだけの時間がかかろうがかかるまいが、それは大したことではない。一冊の本を読み終えた後に、どれだけぼんやりとコーヒーを啜っていられるか、それが一番の問題なのである。