週刊読書人( 1992年 7月 27日)
読まれる理由
―読書日録<下>―
巽孝之
巽孝之
さまざまな本があり、さまざまな文脈がある。あるいは、人の数だけ、読書の理由があるというべきか。
- 読みたい本。
- 読み返したい本。
- 電車の中で読みたい本。
- バスの中なら読める本。
- 買ってしまったので読む予定にしている本。
- 読むつもりはまったくないが少なくとも書棚には置いておかなければいけないため買ってしまった本。
- 読まなければならない本。
- 読んで書評しなければならない本。
- 話題になったので買っておいたが時期はずれになってしまいついぞ読まずに終わった本。
- 世間的には読まなければならないらしいが仮に生涯読まずとも楽しく暮らしていけそうな本。
- 読みたくもないし読まなければならないわけでもないが一応は読んでおいたほうが無難そうな本。
仮に右のような「本」たちが現在の日本的読書生活の典型ならば、本というのはまさにその存在自体が「倫理的」といえる。一冊の本は、それを手にした者それを読む者に何らかの倫理的判断を下すよう迫るのだ。高度資本主義文明が書物産業にもたらしたのは、イデオロギーの終焉どころか、高度にイデオロギー的な倫理教育の網の目だったといってもよい。
だから時折、そうした網の目を突き破るような本を受け取った時などは、うれしくてたまらない。それが親しい友人の出した楽しい著書となれば、なおさらのこと。最近では久美沙織の『軽井沢動物記』(扶桑社)が、そんな一冊だった。義務感で書評することもないだろうしツン読の必要もない、これは到着するやいなや一気に読み倒してしまうたぐいの本だ。じじつ動物狂作家・波多野鷹氏との軽井沢新婚生活には、巻末に波多野氏自身による学術的注釈もついて抱腹絶倒。表紙にも装丁にも配慮のゆきとどいた絶品である。