『現代』25: 9(August 1991)
外部の友人
巽孝之
巽孝之
五月某日、畏友トニー・ピンクニ―から彼の編集する英文学批評誌「News from Nowhere」最新号と手紙が届く。彼はオックスフォード大学院時代に、日本でも『クラリッサの陵辱』など翻訳の多いテリ―・イーグルトンに師事した新進気鋭の学者批評家だ。
八二~八三年ごろ、そんな彼がちょうど日本は某女子短大にて教鞭を執っていた時期のこと、筆者とほぼ同年齢でしかも同様な現代批評の方向に関心を抱いているのがわかってからというもの、頻繁な交流がはじまった。彼が帰国したあとも、また私自身八〇年代中葉に米国コーネル大学に留学したときにも付き合いは途切れていないのだから、かれこれ十年近くなるだろうか。最近のトニーは鮮烈なD・H・ロレンス論を世に問うたばかりか、前述の雑誌のほうも八号を数えて「文化唯物論専門誌」と謳い、ますます鼻息が荒い。あいかわらず熱っぽい手紙には、彼が「ようやく英国内における専任教授職を得た新環境ランカスター大学」の興奮がつづられている。彼がノッているときには、たとえ文面からだけであろうと熱気がたっぷり伝染してくる。
もちろん、外国文学研究者が何よりもまず作品を読まねばならないのは当然のことである。続いて作家を知り時代を学び研究史を漁る。今日ではたいていの主要作家について批評産業が成立しているから、分量 だけでもメゲるほどだ。そんなとき、何かにつけ励ましあえる「外部の友人」が英米にいることは、少なくとも筆者の場合、きわめて意義深いことだった。たんに相性の問題にすぎないかもしれないが、活字からだけでは得られない貴重なリアリティが、そこからは汲み取れるような気がするのである。年に一度は国際会議その他にかこつけて太平洋を往復する習慣になったのも、右のような事情ゆえのことだ。
ただし、どうやら今年の夏ばかりは国内に釘づけにされてしまう。わたしも関係する複数の国際会議が、今年はなぜか日本に並列してしまったせいだ。七月末にはアメリカ研究中心の札幌クールセミナーのパネルが控えており、八月末の国際比較文学会には留学時代の指導教授ジョナサン・カラーやマッギル大学教授ダルコ・スーヴィンが来日予定。特にスーヴィンとは、明春カナダの批評誌を共同編集する関係上、打ち合わせを行なわねばならず、しかも九月に入れば、大学のゼミ合宿が待ちかまえている。
だがいちばん正直なところは、大学時代からの親友のひとりが、九月一日を急遽挙式の日取りに選んでしまったことが大きい。およそ季節外れの日取りだが、そもそも三十代後半に入ってからの結婚自体が(やや)季節外れであろう(花嫁のほうは二十代である、念のため)。
われわれと同じ一九五五年生まれには、たとえば『シェリタリング・スカイ』のデブラ・ウィンガーや『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のケヴィン・コスナー、国内では千代の富士や具志堅用高、江川卓、郷ひろみが入る。いずれもすでに文字どおり一家をなした面々であって、業界によっては引退するか引退して久しいが、第一線を後進にあけわたしつつ第二の人生を画策すべき年齢といえよう。だから「三十六すぎたらたぶん一生結婚しないよ」とうそぶいてやまなかった件(くだん)の親友が突如生涯の伴侶を見つけたといいだしたのは驚愕ものであった。長年の親友の挙式とあっては、渡米計画を中断しても挙式に参列しなければ、どうにもおさまりがつかない。
もっとも、この年になってみると、仕事がらみ趣味がらみの友人は増えるばかりでも、こういう何の貸し借りもない同年齢の親友というのは、どんどん減少しつつあるようにさえ思う。
だから、ほんの数人の親友と年たった一度ずつでも飲みに行くのは、かけがえのない時間である。ここで興味深いのは、その数名の男女というのがわたし自身の個人的な趣味とも本職ともことごとくかけはなれたところに位 置している、いわばもうひとつの意味における「外部の友人」にほかならないことだ。作家になったスカイダイバーもいれば、現在コロンビア大学大学院在学中のスキンダイバーもいる。
中でも前出の親友の場合、航空会社のエリート社員ではあるものの本とはまったく無縁のため、文学の話などできるわけがない。じゃあいったい話が成り立つのかとお思いだろうが、これがけっこう、どうということのない話題をえんえん語り合ってつねに飽きることがなく、しかもそんな会話であろうと、これまた作品研究でも作家研究でも得られない貴重な発見に至ることが少なくないのだ。
絶対無二の親友とは、絶対無二の他者のことかもしれない。さもなくば、私自身が毎夏のスケジュールの外部へあえて踏み出すなどという不条理も、決してありえなかったはずなのである。