2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:ザトウクジラ


季刊『アーガマ』
(1996 Summer)



ザトウクジラにうってつけの日



クジラを見た。生きて動いているザトウクジラを、この目の前で、生まれて初めて。
しかも一頭や二頭ではない、ざっと一ダースは下らなかっただろうか。

漆黒の巨獣たちは船のまわりから突如踊り出て大口を開け、歯を剥きだし、潮を吹き、その尾鰭を誇示するかのようにもんどりうってみせる。望んでも見ることのかなえられることの少ない壮大なる海のパフォーマンス。それが十分、十五分とくりひろげられたのだから、たまらない。とてつもない僥倖、はてしのない贅沢。初めておぼえる、歓喜とも畏怖ともつかない感動を、わたしはじっと噛みしめていた―。



これは、去る一九九六年中旬、アメリカ東海岸はケープコッドの突端、プロヴィンスタウンからボストンへ向かうフェリーに乗った時、そのさなかの出来事である。船は片道十六ドル、海上列車とも呼べる純然たる交通機関なので、べつだんホエール・ウォッチングの料金が入っていたとも思えない。去る三月には、西海岸はサンタ・バーバラに住む友人宅を訪問した時、豪華帆船で一時間ほどのホエール・ウォッチングに出かけたこともあったが、その時には季節があわないのか、とうとうクジラを見ることはなかった。

ふりかえってみれば、そもそもクジラというのは、わたしたちがよく知っているつもりでいながら、いまなお、じっさいに見るまで実在するかどうかも定かでない生物である。幼き日に見た図鑑や連れていってもらった博物館のたぐいで、すっかり見たつもりになっている何か。アメリカ文学の古典であるハーマン・メルヴィルの『白鯨』から強烈な印象を受けて、クジラはもちろん、どこかに白子のクジラさえ存在することを信じて疑わない向きもあるかもしれない。あるいは、ロバート・F・ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』のように一千マイルの全長をもち小惑星帯さえパクリと飲み込んでしまうような超巨大クジラ、大原まり子の『銀河系ネットワークで歌を歌ったクジラ』のようにコントラバスめいた低音で美声を響かせるクジラを思い浮かべる向きもあるかもしれない。たしかに実在するにもかかわらず、それに関する幻想のほうが圧倒的に馴染みぶかいというのは、クジラという生物を何らかのかたちで決定的に性格づけてはいまいか。

だから、目と鼻の先で、無数のザトウクジラがのたうつのをじっさいに目撃した瞬間にも、正直なところ、にわかに信じられなかった。仮想現実テクノロジー全盛時代に暮らす者の哀しさ、これはたんに運がよかったのか、それともこれもまた高度に制御された何らかの企業的演出なのかと考え込んでしまうのは、ほんとうに悪い癖である。

とはいえ、さらに信ずべき捕鯨史をひもとけば、べつだん仮想現実時代を待つまでもなく、クジラの容姿に関する報告は、もともと相当に奇妙なところがあった。

十六世紀の半ば、精力的な情報収集家で知られるチューリヒの医師コンラート・ゲスナーのまとめた『動物誌』には、当時スウェーデンで北欧生活全般を描いたオラウス・マグナスの『北方民族文化史』(一五五五年)から「猪鯨」のスケッチが引用されているのだが、これなど全身を鱗で覆われ、二本の牙を持ち、四ッ足で、しかもそれぞれの脚にはごていねいに爪が生え、全身の風貌はまるで水棲アルマジロといった風情(森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』[名古屋大学出版局、一九九四年]に引用)。これがファンタジーの挿絵ならばいざ知らず、れっきとした日常を扱う文化史に載ってしまうのだからすごい。この時代、クジラの現物を確認したことのない画家の想像力の産物が、堂々と罷り通ったのである。
もちろん以降、具体的にクジラを目撃した人々がより正確なクジラを描き出すことになるのだが、しかしそれでもなおつい最近まで、古生物学史の領域において、クジラの誕生と進化は最大の謎とされてきた。恐竜時代の終わった直後に生きていたメソニックスという哺乳類の仲間が、いかに今日のクジラになっていくかという経緯については、一九八〇年以降にようやく研究が進み始めたところだ。



だからこそ、無数のクジラをこの肉眼で見ることができたあの時にさえ、わたしは彼らの実体の彼方に、太古の恐竜時代にまでさかのぼる進化論的系統樹の謎を幻視していたような気がする。しかし、まったく逆に、たとえばレイ・ブラッドベリの短編「霧笛」において、灯台の霧笛に応え海の闇から恐竜の声が聞こえてきたように、クジラたちもまた、わたしたち側の謎に憶測たくましているとしたら?わたしたちがクジラを知り得ないのではなく、むしろクジラたちのほうが、ほとんど意図的に自らの招待を隠蔽する術を磨いてきたのだとしたら?

太古の昔からずっと見られてきたのは、じつはわたしたち自身かもしれないのである。

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