2023/04/01

Book Reviews 『慶應義塾とアメリカ』

『慶應義塾とアメリカ』
巽孝之
四六判上製、268ページ
小鳥遊書房、2022年 8月 31日
本体 2,400円+税
ISBN: 978-4-909812-95-7

2021年 3月 13日(土)にオンラインで開催された巽先生による最終講義とそれに関連する論考が収録された『慶應義塾とアメリカ』の書評をまとめました。今後も随時更新していきます。

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 最終講義は研究者が自身を語るところに醍醐味がある。しかし本書で読者が出会うのは単なる自画像ではない。巽孝之という類いまれな研究者の躍動する精神そのものである。その精神はアメリカ、近代日本、モダニズム、世界文学、そして慶應義塾の間に張り巡らされた無数の見えない糸を炙り出し、その上を驚嘆すべき博学と鋭敏な洞察力によって踏破していく。読者は巽氏とともにこの糸の織り成す世界の深みと、それを覗き見る時の喜びを経験することができるだろう。——成田雅彦『アメリカ文学研究』2023年(第 60号)

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 本書を一読して感じたことは、本書は各部で扱われているテーマである「慶應義塾とアメリカ」は同著者による『モダニズムの惑星』と部分的に重なり合いながら、それぞれ微妙に異なっており、全体を通してかなり広い領域を扱い、<新たな文学思想史>を目指していると理解できる。著者の思想のあり方の一端を示す<新たな文学思想史>にある<新たな>という言葉こそが、<と>の思想が生起する場を背景にしているように思えてならない。このような場でこそ、<新たな>そしてダイナミックで<ラディカル>な思想が生起されるのではないだろうか。
 それを踏まえると、スピヴァクの説く「惑星思考」やディモクの「環大陸思考」なども、またモーガンらの「脱アメリカ的アメリカ研究」(トランスナショナル・アメリカン・スタディーズ)も視野に入り、第一部の「4.福澤諭吉と環太平洋スペクトラム」を読んでいくと、1872年初版というドーデの「最後の授業」と、同年の初版である『学問のすゝめ』とが<と>で結ばれていることにも意義を感じ、さらには二度の渡米を経た、近代日本の父とも称される慶應義塾の創立者である福澤諭吉の独立自尊の理念などが<と>によって共振していることにも思い至る。これらの<と>は、単なる並列の意味合いではなく、対等なものとして一対になり、また一体のものとして現前してくるのである。(中略)本書は「慶應義塾」と「アメリカ」に関する斬新な研究のみならず、アメリカ研究やアメリカ文学研究の意義を改めて指摘する重要な効果をもつものである。このような本書は、知的な刺激を与える潜在力をもち、新たな学問領域のためのさらなる胎動の兆しを見せている。著者は優れた成果を刊行し続ける史上稀に見るアメリカ文学研究者のひとりである。——外山健二「巽孝之著『慶應義塾とアメリカ——巽孝之最終講義』」『ポー研究』2023年(第 15号)

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 米文学者として慶應義塾大学文学部英米文学専攻で長く教鞭をとってきた巽孝之氏が、定年退職にあたり二〇二一年三月一三日に行った最終講義を含め、三つの論考が収められた本書。「最終」とくれば反射的に著者の集大成とでも呼びたくなるが、そうひと言では片付けられない企みがある一冊だ。(中略)特に本書全体にとって重要なのは、円熟期を過ぎた作家が同じ作風を繰り返すいわゆる「自己剽窃」を、作家生命を延長する方策としてポジティブにとらえ直している点だ。「そのマンネリズムないしマニエリスムはやがて芸術家独自のスタイルとして確立することなり、まさにそれを模範として模倣し改良する後続世代が現れ、後続読者も後続観客も現れる」という文が、本書の終わり近くに置かれているのはけっして偶然ではないだろう。この一節は「最終」という本書の題目をひそかに裏切る企みであり、著者の知的営為の続投宣言、さらにその継承と創造的「剽窃」を読者に促すメッセージとして受け止めたくもなるからである。——小平慧「「失われた大義を」をキーワードにして無数の作品・事象にチューニング——「最終」の題目をひそかに裏切る知的続投宣言」『図書新聞』2022年 11月 19日(第 3567号)

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 本書の議論が斬新で興味深いことは言うまでもない。だが私のように慶應義塾と直接関係の無い人間がこの本を読んだ時、次のような疑問が現れてくる。すなわち慶應義塾という「システム」あるいはアメリカとう「システム」が生み出す社会的分断を、本書で扱った文人・作家たちはどのように捉えたかという疑問である。慶應義塾を創設し、明治期の日本人に対して啓蒙活動を行った福澤は、後年、大日本帝国的論理にくみすることになった。一九世紀のアメリカも、経済活動と啓蒙活動を目的として太平洋を渡り、日本をその射程に捉えていたことは明らかである。このようなマクロな視点は、「慶應義塾とアメリカ」というテーマに、別の角度からの切り口を与えるだろう。
 だがそのような疑問はおそらく織り込み済みだろう。実際、作家生命論第二の法則はこのような疑問を先取っている。第二の法則は、サイードの『晩年のスタイル』からだが、巽氏は “self-imposed exile”「自主的に亡命すること」という箇所を含めて引用している。一見するとこれは、第二の法則の単なる言い換えのようである。しかしサイードにおいて「亡命者」となることはホームを喪失することで複数性のヴィジョンと対位法的意識を獲得することであり、それこそがサイードの求める人文学のスタイルである。巽氏が「最終講義という限界状況から芽生えない新しい研究もありうるだろう」と述べるように、『慶應義塾とアメリカ』は巽氏が慶應義塾を退職して「亡命者」となることの「最初の種子」なのだ。その意味で本書は、巽氏の「晩年のスタイル」いや——サイードに肖るならば——「始まりの現象」なのである。——笠根唯「最終講義という名の「始まりの現象」——「亡命者」となることの「最初の種子」」『週刊読書人』2022年 12月 9日(第 3468号)

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 米文学を中心に研究に邁進してきた巽の成果は、第三部「作家生命論の環大陸——来るべきアメリカ文学思想史」にひとつの結実を見る。ジャンル横断的に 3つ 4つの作品を軽妙に扱うのは巽が得意とする所だが、本書では常にも増して重層的な読みを繰り出している。文学から風景論への接続としては、『晩鐘』などで知られる農民画家ミレーやアメリカのハドソンリバー派が描く風景は当時 19世紀の機械化農業を念頭に置いてみるべきだと、巽は独創的に指摘をする。また、作家本人によるアダプテーションを含む広義の「剽窃」が「立派な文学装置的資格を得ている」として、巽は解釈を 21世紀に開く。その延長線上に、本書末尾を飾る『白鯨』論争がある。巽本人も関わった論争である。エドワード・サイードが、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』とジョン・ヒューストン監督の映画『白鯨』の内容を混同した。それが果たしてサイードによる単なる記憶違いか、はたまた創造的再編集によるものかと、巽は問い、自らの思索の遍歴を披露している。昨今盛んなアダプテーション研究にかかわる根本問題であるので、先の展開が待たれるところであろう。
 本書は、明治以来、日本の近代化を牽引した慶應義塾大学の矜持をバックボーンとした、縦横無尽の論述が楽しめる、問題提起に満ちた高書である。——大島由紀子『アメリカ学会会報』2023年 4月 30日(第 211号)