近藤舞卒論講評 2017
巽 孝之
久々の卒論講評である。学部ゼミが始まったのが 1990年、ゼミ雑誌 Panic Americanaの創刊が 1996年、そしてウェブサイト “Café Panic Americana” 愛称 CPAの設置が 1999年。このうち CPAは日本アメリカ文学会ウェブサイトよりも早く出発し、多くの企画のうちには学部の模範的卒論を厳選して講評つきで読めるページも設けてきたが諸般の事情で断続的となり、まことに申し訳なく思っている。ふりかえってみると、これまで CPAで読めるようにした卒論は ゼミ 27年の歴史のうち全 8編。第 2期の中村美緒君のアリス・ウォーカー論から同じく太田玲奈君のブレット・イーストン・エリス論、第 3期の大串尚代君のポール・ボウルズ論、第 4期の碓氷早矢手君の火星文学史、第 6期の宮本菜穂子君のライマン・フランク・ボーム論、同白鳥賢司君のフィリップ・ K・ディック論、そのあと長い沈黙の果てにアップした第 19期の宮城献君のカート・ヴォネガット論、そして第 20期の松宮静君のジュンパ・ラヒリ論まで。中には、翻訳家や文芸評論家に引用されたり出版を打診されたりした卒論もあり、まことに喜ばしい限りだ。
今回、卒論採録を再開しようと思ったのは、2016年度に提出された卒論のうちでも、26期生ゼミ代を務めた近藤舞君のマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』論が、適確な主題設定においても着実な論理展開においても達意の英文構築においても、そして謝辞から年表、書誌目録へ至る伝統形式においても、群を抜いて模範的だったからである。
ふりかえってみれば、ゼミ史上、ミッチェルを主題に提出された卒論は少なくない。『風と共に去りぬ』( 1936年)は初代のゼミ代・佐々木万利子君からをはじめ、10期の小林美香君、13期の西岡絵美子君、22期の松本彩花君(研究発表会代表も務めた)、それに 26期の近藤君まで五名を数える。折しも一昨年には畏友・鴻巣友季子氏による新訳版が新潮文庫全五巻で刊行されることとなり、わたし自身に最終巻解説のお鉢が回ってきたので、改めてテクストを読み直し、最新の批評的・文学史的再評価を洗い直す機会があったことも、このテーマで卒論を書くゼミ生を励ますきっかけとなった。同書ラストの決め台詞ともいえる「明日は明日の風が吹く」( Tomorrow is another day)の発想の根本に新約聖書マタイ伝第六章にいう「明日のことは明日自らが思い悩む」( the morrow shall take thought for the things of itself)があるのは周知であるが、この物語に思い入れの深い鴻巣氏はそれがこの日本語訳で定着してきた背景を徹底調査し、菊田一夫脚本で一九六六年に帝劇で本邦初演されたさいに「明日は明日の風が吹く」と訳されたものの、じつはそれに先立ち、石原裕次郎主演の一九五八年の日活映画に「明日は明日の風が吹く」というのが存在する史実にも目配りしてみせた(鴻巣友季子『全身翻訳家』[ちくま文庫、 2011年 ])。日米比較文化史的にも、俄然本書への興味が再燃した瞬間である。さらに、アメリカ文学史では長く正典扱いされることの少なかったミッチェルながら、昨今ではグリール・マーカス&ワーナー・ソラーズ共編『ハーヴァード版新アメリカ文学史』( 2009年)などでも再評価されるに至っているのも、追い風となった。この小説は、南北戦争後の白人優越主義秘密結社KKKを扱っているという共通点においては、のちにサイレント時代の名画となる D・ W・グリフィス監督『国民の創生』(1915年)の原作トマス・ディクソン・ジュニアの『クランズマン』(1905年)と比較するのが定番であったが(同書の初邦訳が KKKで卒論を書いたゼミ 5期生の綿引あき子君と本塾法学部の奥田暁代教授の共訳『クー・クラックス・クラン−−革命とロマンス』[水声社、 2006年 ]として刊行されていることも、このさい特記しておこう)、まったく同年 1936年に発表されたノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーの傑作『アブサロム、アブサロム!』との比較研究も進んでおり、そのあたりの成果を取り込めば、南北戦争時代には敗戦国となったスカーレット・オハラの南部がいかにして 1930年代大不況下のアメリカのサバイバルを促すモデルとなったかも判明しよう。
はたして近藤君は、そうした最先端の『風と共に去りぬ』研究をすべて貪欲に取り込むとともに、各章ごとに問題点を整理しつつ論旨を膨らませていく。そのさい、いまなお邦訳のないウィルバー・ J・キャッシュの名著『南部の精神』 The Mind of the South( 1941年)を熟読し、とりわけ南部白人が階級や政治、宗教上の対立で分裂していても、こと人種が問題になると最終的に一致団結するというる白人優越主義思想 “Proto-Dorian Convention”(「原始ドーリス式因習」とも訳される)に個人主義やロマン主義の特徴を絡めて検討していったところは、高く評価に価する。そして最終的には、誕生ほやほやのトランプ政権下のアメリカを鋭利に意識しつつ、彼の移民排斥政策がいかに再建期におけるディクソンやミッチェルの精神性とも共振するかを浮き彫りにしたうえで、2016年度でなければ不可能なミッチェル論を仕上げるに至った。
正確にいえば、トランプ大統領が選出されたのちに卒論締切は設定されていたわけだから、 26期生のほかの卒論にもトランプとアメリカ文学の関わりを扱ったものは少なくない。それでも、これまでフェミニズム的に、あるいは南部文化史的に読まれることの多かったミッチェルの『風とともに去りぬ』を ポスト・グローバリズム時代とも言われる 21世紀のアメリカ新政権との関わりで読み直したことの意義は大きい。卒論において、作家が生き作品が発表された同時代を超え、たえずアメリカ的現在とのつながりを意識する姿勢は、広く推奨すべきものだろう。その点でも、近藤舞君の本卒論は模範的である。