2016/01/01

Miscellaneous Works:エッセイ:ボストンの人々

ボストンの人々

「富士見高原愛好会会報」第 43号
2010年 8月 1日

慶應義塾に勤めたのが 1982年だから、とうに 4半世紀以上が経つ。外国文学研究に携わる以上、定期的な在外研究期間は必要だが、しかしわたしの場合、最初の職場である法学部英語セクションより、80年代半ばに 3年間のアメリカ留学の機会が与えられたにすぎない。 89年より所属した文学部英米文学専攻においては、もろもろの事情により、ついぞ在外研究に恵まれることがなく、今年 2009年まで待たなければならなかった。

ということで、今年は上半期の半年間だけではあるものの、文学部勤続 20年目にして初めてのサバティカル(特別研究休暇)を取ることが可能となり、フルブライト基金の援助も得て、その大半を北米で過ごすことにした。前半の 3月から 5月までを東海岸はニューイングランド諸大学での講演旅行と文献調査、後半の 8月から 9月までを西海岸はサンフランシスコ周辺のスタンフォード大学に所属して調査研究。もちろん、サバティカルの使いみちは、人によってさまざまだが、わたしの場合は、とにかく「サバティカルでなければできないことをしたい」と思ったのである。

こう書き出すと、長めの近況報告のように響くかもしれないが、しかし今回のような機会はめったに得られないので、専門のアメリカ研究以外の目的のうちには、じつはわれわれの別荘とも必ずしも無縁ではない秘密の調査計画をもまぎれこませている。10年ほど以前の別荘に訪問されたかたならば、わたしの両親が決まって、母方の祖母と大伯母および大叔母から成る三姉妹を招き、一夏のあいだ超高齢家族を切り盛りしていたことを、よくご記憶だろう。表面上は、何の変哲もない老三姉妹が優雅なご隠居生活を営み、娘夫婦や孫たちに平和に囲まれていたかのように映ったであろう。しかし、そのさらなる親の世代、すなわちわたしの曾祖父母は、明治のはじめ、津田梅子を追うように、若くして渡米し、ボストンに住みアメリカにおける医学・生物学教育を受け、帰国後はその経歴を元手に日本文化へ貢献するという、激動の人生を歩んだ人々だった。そのため、別荘で過ごしていた晩年の大伯母や大叔母も前世紀には国際的に活躍した姉妹であった。

曾祖父は岐阜出身で名を川瀬元九郎(1871年—1945年)、曾祖母は東京出身で名を山口富美子(1873年—1956年)という。

元九郎が幼いときからキリスト教とともにアメリカ合衆国への憧れを募らせたのは、宣教師にして英語教師でもあった A・ F・チャペルの影響が大きく、げんに彼は中学のころ岐阜聖公会にて受洗し、イーサクなる洗礼名を授かっている。以後、大阪の高校を経て 1892年の夏、まだ 20歳のころに渡米し、ボストン大学で医学を修め、1899年には博士号を取得し、富美子と結婚。その秋のうちに帰国して築地病院(のちの聖路加病院)に勤務し、やがて麹町隼町に小児科・内科の医院を開業するに至る。

いっぽう山口富美子はといえば、年齢こそ川瀬元九郎より 1歳下でありながら、じつは、のちの夫よりはるかに長い米国生活歴を持つ。というのも、彼女は 1885年、若干 12歳のときに渡米し、ボストンに暮らすマサチューセッツ州知事の家に同居して小学校から高校までの教育を受けていたからである。たかだか 12歳の少女が親の快諾を得て海を渡った理由には諸説あるが、ふりかえってみれば彼女より 10歳ほど上の津田梅子は 1871年、ほんの 6歳にして官費により渡米しているのだから、明治初期における国を挙げての海外進出熱には、いまのわれわれの常識など到底及ばぬものがあったとしか言いようがない。はたして富美子はアメリカ教育にみごとに適応し、女子の入学を認め始めたばかりであったタフツ大学に入って生物学を専攻している。1889年にアメリカを代表する見世物集団バーナム&ベイリー・サーカスの「地上最大のショウ」で一世を風靡した巨大なアフリカ象ジャンボの遺骸が剥製にされてタフツ大学に寄贈され、話題を呼んでいたころだ。
 
なにぶんアメリカに日本人が少なかった時代であるから、ふたりは必然的に出会う。1896年か 97年と思われるある日のこと、タフツ大学の校長が富美子を呼びつけ、ひとりの青年を紹介したのだ。このときのエピソードが面白い。元九郎の持参したずっしりと重い行李から、いきなりジリジリジリジリとけたたましい音をたてて目覚まし時計が鳴り響き、曾祖母はずいぶんと恥ずかしい思いをした、という。しかし、そののち交際が順調に展開したのは、1899年に元九郎がボストン大学医学部を卒業するとともに華燭の典を挙げたことからも一目瞭然。帰国して曾祖父は医者となり、曾祖母は日本女子大学で英語教師とともに体育教師をも務め、二男五女を設けていく。今回の調査では、ボストン大学とタフツ大学の両図書館を調査し、ふたりの在籍した証を確認した。

両者はさらに、ボストン大学でもタフツ大学でもないエマソン大学という教育機関の創設者 C・ W・エマソン(超越思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンの親戚)を真の師匠と仰ぎ、彼の影響でエマソン式体育法を学び、その関連で我が国に初めてスウェーデン式体操を紹介し、共著『衛生美容術』(1902年、大日本図書)までものしている。じっさい、元九郎の文部省への積極的な働きかけにより、大正以降にはスウェーデン式体操が日本政府の採用するところとなるのだから、曾祖父母はアメリカから学んだものに対して、通常以上の愛着を覚えていたにちがいない。

だからこそ、かの第二次世界大戦終盤、東京大空襲の折に、吉祥寺へ非難していた曾祖母は、怯える孫たちに向かってもこうくりかえしたという。
 
「わたしの友達のアメリカがそんなひどいことをするはずはありません、わたしには何もこわいことはありません」。

その曾孫のわたしがアメリカ研究にいそしんでいることを思うと、これほど深い言葉はない。