2012/08/01

エドガー・アラン・ポー「黒猫」

Panic Americana Annex Ver. CPA #1

Edgar Allan Poe, "Black Cat"


*なお、テキストとして巽先生訳『黒猫・アッシャー家の崩壊』(新潮文庫)を使用したため、「黒猫」ではなく、他の短篇を取り上げているレビューもありますが、ご了承ください。

奇妙な関係
3年 高橋紗里 (たかはしさり/ゼミ代)

ある善良な動物好きの男が酒に溺れて、かわいがっていた猫と妻を殺してしまう。中学生の時にエドガー・アラン・ポーの「黒猫」を、ひとり就寝前に部屋で読んだ時の恐怖心と衝撃は今でも忘れられないでいる。大切にしていた飼い猫の目をえぐりとり、挙げ句の果てにはその猫を吊るして殺してしまう。するとまた男の前に、別な黒猫がふと現れる。殺した妻を埋めた地下室の壁から、猫のおぞましい叫び声が聞こえてくるラストシーンは何回読み直しても背中がゾゾッとする。中学生の時の私は、酒によって人間としてのバランスを失い狂人化した主人公の残酷さに、ただひたすら圧倒された。そして、残虐な仕打ちを受けても尚、飼い主にまとわりつき、殺されても蘇る黒猫が奇妙で仕方なかった。

しかし、今改めて読み直してみると、主人公の男と黒猫の間の何とも奇妙な関係は、まるで私たち人間のありふれた人間関係に重なるような気がする。もちろん、日常生活では(有り難いことに)このような残虐行為を目にすることがないが、互いの思惑や自分に対する相手の気持ちがさっぱり理解できず、人間関係で辟易することは日常茶飯事だ。私たちは、主人公のように「天邪鬼」になって、やってはいけないことをやらかしたりする。主人公は飼い猫を愛しく思いながらも、同時に憎悪の念を抱き、理性を失った瞬間にその猫に危害を加えてしまう。私たちも同じように、愛情を抱いている相手に対してでも、ひょんなことで感情を抑えられなくなり言葉で人を傷つけてしまいがちだ。

私たちの目には不可解に映る主人公と黒猫だが、その二つの存在が相手に寄り添ったり傷つけたりする様は、私たち「正常」な人間の不気味な心理を、行動を、物語っているのかもしれない。


黒猫の誘惑
4年 松本彩花 (まつもとあやか/パニカメ係)

この作品は、「黒猫」というタイトルから予想できるように、不吉な結末を迎える。幼少時から素直で思いやりのある主人公は、黒猫が現れてから、「天邪鬼」の精神にとりつかれ、溺愛している相手に残虐な行為を繰り返す。その主人公の心理機構は、現代社会における幼女への性的虐待等の犯人に通じるものがあると感じた。これらの犯罪を犯す人物は、近所では、きちんとあいさつができる、心の優しい青年と見られていたケースも多い。しかし、ある時突然衝動にかられ、事件をおこすのだ。これと同様に、「黒猫」の主人公は心が優しい青年だったにも関わらず、猫を虐待し、妻をも殺める。この点から、「人間は誰しも犯罪や残虐な行為をおこしたいという願望を持っている」という、著者の人間観を感じさせる。しかし、そうした欲求を潜在的に人間は持っているにも関わらず、犯罪や残虐行為を犯す人はそう多くない。では、残虐行為を実行してしまう人間と、その欲求を抑圧できる人間との違いは何か。

それは、その衝動を引き起こす、「黒猫」との出会いだろう。主人公は黒猫との出会いによって破滅への道へと送りこまれ、黒猫はその美しい外見で人を魅きつけるが、実態は死神そのものである。こういった、一見とても魅力的に思えるものでも、破滅をもたらすようなものが、人間の身の回りにはありふれている。そうした誘惑に負け、破滅への道をたどってしまうのが、この作品の主人公であり、世の犯罪者達なのである。この作品は、誰もが潜在的に持っている、暴虐行為への衝動を、「黒猫」のような日常にありふれたものに引き起こされる、人間の危うさを具現化しているように思えた。


「わからなさ」の恐怖
3年 山家里佳 (やんべりか/合宿係)

『黒猫・アッシャー家の崩壊』の中でも、印象的だったのが「落とし穴と振り子」だ。冒頭、主人公は異端審問を受け、死刑と宣言されたようだが、その後彼はどこへ行き、どうなったのか、はっきりと「わからない」。読み進めても読み進めてもわからない。ただは闇の中にいるらしい。彼は死んだのだろうか。さらに読んでいくと、彼はまだ死んでおらず、牢屋に閉じ込められているようだ。はじめはどんな牢屋かもわからず、徐々に主人公が調べていくことで、彼の置かれている状況が次第に明らかになっていく。そう、私たち読者は主人公とともに少しずつ状況を把握していくのである。

この作品は、常に主人公の視点で書かれており、私たち読者は主人公の視点で読んでいく。第三者が外から状況を説明することはない。私たちは主人公とともに自分の置かれている状況を手探りで調べることで、解明していく。読者は異端審問により死刑宣告された罪人の立場を疑似体験することができてしまうということだ。

このように主人公と一体となり、私たち読者が彼の視点で、「体験」する。それゆえに怖さが一層大きくなっているような気がする。そしてここでもう一度、この短編の前半に目を向けなおしてみたい。読み進めても読み進めても自分の置かれている状況が「わからない」という恐怖が、この前半に現われているのかもしれない。落とし穴があるとわかる恐怖だけでなく、「わからない」という恐怖もあることを痛感した。わからなさの中で、あがき続けたら、予想できない結末へと導かれていった。


自分が愛しているものを
4年 浅野将也(あさのまさや/ゼミ代)

一読して思ったことは、会話がまったく無いということもあり、また、一人称で語られていることもあり、語られている内容自体は非常に残虐にも関わらず、迫力に欠けるという印象を受けた。加えて、主人公が妻を殺害したあとに、油断した理由が不可解である。主人公自身もその理由については、ほとんど記憶にないという発言をしている。しかし、じっくり考えてみると、主人公の精神状態が極めて不安定であったとも考えられる。

また、もう一点注目したい点は、この話の中では「壁」が、一つの重要な役割を果たしているという点である。猫の絵が発見された場所も壁であるし、妻が埋められた場所も壁である。壁を打ち壊して、何かを発見するとはどういうことだろうか、気になるところである。そして、主人公の語り手は、妻を壁に埋め込んだ後に、壁の修復作業を施すことになるが、普通壁の修復作業というものは、容易にできるものではないはずである。

最後に考えなければならないことがもう一つある。それは、黒猫の存在である。文章を読む限り、普通のネコではないはずである。つまりこのネコは何かを表現しているはずである。ここで、私が注目したいことは、主人公がネコのことを好きであったということである。このことは、この黒猫だけだはなく、妻にも当てはめて考えることができる。主人公が愛しているものや人を、最終的には主人公が殺してしまうのである。したがって、最終的には、自分が大切にしているものを失ってしまったのである。


タブーが消えていく
4年 福村舞(ふくむらまい/合宿係)

ポーにはタブーがない。

物質と精神とが互いに作用しながら絡み合い、両者を分けていては到底辿りつかない世界に入り込む。「アッシャー家の崩壊」で屋敷と住人が互いに体力を奪い合い、共に沼へと吸い込まれて消え失せる。またポーの描く世界では、完全と不完全、成功と凋落、愛情と憎しみという背中合わせの概念が行ったり来たりする。このような危うさこそポーの小説を読む醍醐味だと私は思う。

しかし、よく考えてみれば、両極にあるものの共鳴、そして逆転という現象は不思議な現象だろうか。かつてイタリアを率いた、ファシズムの代名詞的存在、ムッソリーニが、その昔、左翼政党に属していた事は有名な事実である。ポーは、小説において、両者の危うい関係性を私達に再度思い出させる。 

さらに言えば、この小説群が19世紀アメリカで書かれたという事実を念頭に置くと、また違った意味を見出すことができるだろう。アメリカン・ドリームを世界中の人間が夢見始めた時代、一部の大成功の影に語られない没落者が大勢いた。彼らは当初同じ夢を持ち、同じ夢に挑んだ時には大差ない存在だったのだろう。それがある時、あるタイミングで大富豪としがない労働者となってしまう。ポーはそんな瞬間を間近で見つつ、その瞬間に潜む不気味なものを、緻密なストーリーとして仕立て、普遍的なものとしたのだろう。こんな事を考えていると、「黒猫」「アッシャー家の崩壊」も、決して理解不能な怪奇小説ではなくなるのである。