2000/02/19

Tsuneyama Nahoko Essays:アメリカ演劇史を書き直す



いま、アメリカで演劇史再考の新潮が生まれている。
1960年代のマイノリティ(少数派)復権に端を発する政治・社会的変化は、従来とは異なる歴史観をもたらした。それによって、過去の忘れられた作品が発掘され、評価の定まった主流作品は再解釈の洗礼を受けるようになった。かくして80年代後半に始まった文学史全般を見直す潮流は、九十年代末にとうとう演劇の分野へと押し寄せてくる。このとき演劇史書き換えを後押ししたのは、演劇に審美的価値のみならず、社会的な存在意義をも見いだそうとする、発想の大転換であった。
「芝居というものは、今も昔も、自然に対して掲げられた鏡」だとハムレットも述べるように、そもそも、演劇とは外部社会を濃く反映する芸術形態である。日本語で「演劇」とひとことで言っても、それは「ドラマ」(戯曲テクスト)と「シアター」(上演、興行)の二要素からなり、特に「シアター」は時代と観客の要請に応えられて初めて成り立ち、残るものだからである。
長らく、アメリカ演劇研究においては「ドラマ」こそが「演劇」であると捉えられ、その結果、リアリズム劇が誕生した20世紀初頭以降にのみ重点をおく歴史観が支持されてきた。正確に言えば、ユージーン・オニール(1888-1953)がアメリカ初の近代劇を発表した1916年をもって、演劇史は始まるというのだ。
しかし、こうした、作品を時間や場所を超越した普遍的な創造物と見なしたり、劇作家の意図だけを論じたりする方針は疑問視され、もう一方の要素である「シアター」 ──演劇がさまざまな言説と交渉する中で成立し、受容される「場」──の考察に最大の関心が集まり始める。すると、今までの基準に従えば高く評価されることはなく、よって歴史に残されることもなかった近代劇成立以前の大衆演劇文化に、新たな文学史的価値を見いだすことが可能になるではないか。アメリカ演劇史は一挙に二百年以上もさかのぼり、17世紀植民地時代から書き起こされるようになったのだ。
演劇活動のテクスト(戯曲)とコンテクスト(社会的文脈)を突き合わせれば、その内に意識的/無意識的に織り込まれた「アメリカ」の姿が浮かび上がる。観客が「ドラマ」の内容を解釈し、「シアター」が観客に働きかける相互作用は国家、民族、政治、経済、宗教、思想などによって異なるはずで、ここにアメリカ固有の条件を探ることができるだろう。そうした条件のひとつとして、拙著『アメリカン・シェイクスピア──初期アメリカ演劇の文化史』(国書刊行会刊、2003年)において、初期アメリカ演劇史を読み直すキーワードに用いたのが、ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)である。
いきなりここで、イギリスが誇る劇作家の名前が出てきて驚かれるかもしれない。実際のところ、日本アメリカ文学会と日本シェイクスピア協会の年次大会は毎年のように日程が重なるため、ある時、いつもどちらか一方にしか出席できないと愚痴を漏らしたら、「同日開催で困るのは君だけだね」と一笑されてしまったことがある。
だが、18世紀初頭に最初の常設劇場が開場して以来、舞台が庶民の娯楽として栄華を極めた19世紀を通じて、紛れもなく、アメリカ演劇の中核はシェイクスピアが担っていた。しかも、その人気は単に上演回数が一番多いだけにとどまらなかった。アメリカ人はシェイクスピアを自分たちの社会と嗜好に応じて書き改めて、好き勝手に楽しんだのである。
ジュリエットの年齢を結婚適齢期に引き上げたり、荒野をさまようリア王の悲劇をハッピーエンドにしたりといった、原作のカット&ペーストはお手の物。スターは客席に向かって長台詞を披露し、台本を熟知した観客は喝采かヤジでそれに応えた。無数に残る「ジュリアス・スニーザー(くしゃみ男)」や「ハムレットとエッグレット」のようなシャレや地口、替え歌のたぐいからは、パロディは元ネタが浸透していて初めて成立するという前提を思い出せば、大衆がいかに広く深くこの劇作家に親しんでいたか分かる。
さらには、シェイクスピアの隠喩は、アメリカ演劇にそれと気づかずに反復されている。たとえば、ストウ夫人(1811-96)の『アンクル・トムの小屋』(1852)は反奴隷制小説として我が国でも有名である。だが、そこに見え隠れするストウの人種差別意識に注目すると、シェイクスピアの『テンペスト』における征服者プロスペロのごとき白人至上主義の系譜を、『アンクル・トムの小屋』を舞台化した同時代のショーから、そのショーを劇中劇に採用するミュージカル『王様と私』(1951)まで、百年にわたってたどることができる。奴隷制反対の旗印とされた小説に窺える作者自身の黒人観は、ショーでは、大衆好みのメロドラマ的勧善懲悪の法則によって隠蔽されつつも温存され、次世紀のブロードウェイではアジア人蔑視へとかたちを変えて受け継がれているのだ。
初期アメリカ演劇史におけるシェイクスピアの位置を確認する作業は、こんにち我々が忘れているある過去を想起させる。それは、アメリカはかつて植民地であり、その文化はポスト植民地文化だという事実である。植民地は宗主国の文化を模倣し、やがて異種混淆的な新しい文化を創出する。新大陸アメリカはシェイクスピアの伝統を、あこがれたり反発したりしながら模倣し、独自の演劇を作り出したのだった。
しかも、この百年でアメリカの立場は劇的に変化した。ふたつの大戦を機に国際社会の政治・経済的覇者へと転じると共に、最大の文化発信国へと変貌した。演劇の中心地と化したブロードウェイでは、『じゃじゃ馬馴らし』をドサ回り役者に当てはめた『キス・ミー・ケイト』(1948)、『ロミオとジュリエット』を人種抗争に置き換えた『ウェスト・サイド物語』(1957)、『十二夜』にヒッピー文化を絡ませた『ユア・オウン・シング』(1968)、ディズニー版『ハムレット』の『ライオンキング』(1997)など、シェイクスピアに新解釈を施した舞台が次々と生まれている。
アメリカがシェイクスピアを作り替え続ける。この意味において、シェイクスピアは、いままさに再考の過程にある演劇史に加えられるべき、アメリカの劇作家だと言えるだろう。


<新潮>2004年3月号に掲載されたエッセイ

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