2000/02/18

Ogushi Hisayo's Essays:ニューエイジ登場4



私が生まれてはじめて<出版記念パーティ>なるものを体験したのは、今から11年前のこと。当時芝浦にあったクラブ<ゴールド>で開かれた巽孝之氏『現代SFのレトリック』(岩波書店)出版を祝したパーティは、場所のせいなのか、あるいはSFというテーマのせいなのか、ボンデージ風のアクセサリーやピンヒール、スタイリッシュなスーツ、無国籍風衣装など、思い思いに着飾った人々が勢揃いしていた。今思い返してみるになかなか不思議な参加者層だったように記憶している。

 ふとあたりを見回すと暗いフロアでもひときわ目立つ人物がビデオ撮影をしていた。端正な顔立ち、腰まで届くほどの漆黒の髪、どこかの民族衣装であろうか、長い袖と裾はその人が動くたびにふわりとゆらめいていた。思わず目を奪われたこの人物こそが、今をときめく「紅茶界の貴公子」、ティーインストラクターの熊崎俊太郎氏であった。そのパーティの直後、ウィッグをはずしてスーツに着替えた若かりし日の熊崎氏と知己になって以来、現在にまでいたるつきあいが始まることとなった。

 熊崎氏が折にふれて開催する茶会に頻繁に顔を出すうちに、多くの人々と知り合いになった。アニメーター、ソングライター、コンピュータ・プログラマー、演劇関係者、編集者など、その活躍分野は多岐にわたる。私がパソコンやゲームに興味を持ったり、インディーズのバンド目当てにライブハウスに行くようになったり、あるいは下北沢などの小劇場に興味を持ち、いまもしばしば舞台をみるようになったのも、そうした人たちからの影響が大きい。その中に、作家・竹内真氏の姿があった。

 竹内氏に初めて会ったのは、お互いまだ学生の頃だったと思う。大柄で人なつこそうな竹内氏は私とはほぼ同年代だったこともあり、大学卒業後は筆一本で創作活動にいそしむ彼の潔い姿勢にはおおいに刺激を受けた。第2回三田文学新人賞、第5回ゆきのまち幻想文学大賞、第5回船橋誠一顕彰青年文学賞佳作、第43回毎日児童小説優秀賞、第66回小説現代新人賞という輝かしい受賞歴を持つ彼のストーリーテリングの手腕がおおいに発揮された『粗忽拳銃』(集英社)で第12回小説すばる新人賞を受賞し、ついに竹内氏はメジャーデビューを果たす。その知らせを聞いたとき、私はほんとうに嬉しく思ったが、驚きはしなかった。彼の小説のファンとしては「当然!」という思いがあったからだろう。その後『カレーライフ』(集英社)『風に桜の舞う道で』(中央公論社)『じーさん武勇伝』(講談社)とコンスタントに作品を世に問い続ける竹内氏の姿は、いまも私を刺激し続けている。

 おなじく、パーティで知り合った作家といえば、昨年『空爆の日に会いましょう』(マガジンハウス)を上梓し各方面で絶賛された小林エリカ氏である。彼女と写真家フカサワカズヒロ氏が中心になっているアーティスト集団<東京アナログ化計画>の存在はすでに聞き及んでおり、独特な絵柄とストーリーで審査員特別賞を受賞したアニメーション『爆弾娘の憂鬱』は私の大好きはアニメーションのひとつだ。したがって「作家」というのは彼女のアーティスト活動の一面にすぎない。

 第一作品である『ネバー・ソープランド』(河出書房新社)は、『ピーター・パン』をエイジズムで読み替えた秀作だ。自分をウェンディ、夫をピーターと思いこんでいる老婆が妄想する世界を詩的でエロティックな筆致で描いたこの中編小説に魅了された私は、いったい小林エリカなる人はどのような感覚を持った人なのだろうかと思っていた。

 とあるホーム・パーティで出会った小林氏は、線が細い可憐な女性で、すこしはにかんだように話す、どこか不思議なオーラをもった人だった。その後彼女は米軍によるアフガン空爆への抗議を表すために、空爆が続く限り異性の家を泊まり歩く(友人宅のときもあれば、人づてに紹介された見ず知らずの男性の家に泊まるもある)、という「反戦運動」を半年間にわたり続け、そのときの記録と夢日記を『空爆の日に会いましょう』という一冊の本にまとめたのである。本書を読んで私は、あの可憐な小林氏のどこにこんな強い意志と社会に対する鋭い感覚が潜んでいるのかと、今も不思議でならない。だがもちろんそれこそがアーティスト・小林エリカの魅力の源なのだが。

 実際に何かをクリエイトしている人々の持つ、創作への姿勢やモノの考え方、感覚に実際にふれることができる機会というのは、文学を批評する側にとっては不可欠なものではないかと私は思う。もちろん作者の意見を聞くばかりでは批評にはならないが、つねに対話を続けることこそが、作品や作者に対する自分の位置をバランスよくとり続けていくヒントになっているのではないかと思う。

 さまざまな人たちとの出会いによって、「批評家としての位置」が少しずつだが理解できるようになってきたように感じている昨今、果たして私がアメリカ文学を研究するきっかけとなったサリンジャーに本当に対峙できる日は来るのだろうか。まだもう少し時間はかかりそうだ。私の「ブンガク修行」はこれからも続くのである。

(『週刊読書人』2003年7月25日号)

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