本日は亀井俊介先生、南雲堂の『アメリカ文学史講義』全三巻完結と岩波書店の『アメリカ文化と日本――「拝米」と「排米」を超えて』のご出版、まことにおめでとうございます。
わたくしは先生には直接教えを賜ったことはないのですが、その少なからぬご著作を長く愛読してきた者のひとりであり、また日本英文学会や日本アメリカ文学会などでは折にふれて酒席をともにさせて頂き、そればかりか、昨今では松柏社より<アメリカ古典大衆文学シリーズ>なる翻訳出版の共同監修者まで勤めさせて頂いているため、今日の会では若輩ながら畏れ多くも発起人の末席を汚すに至ったのだと思っております。
それにしても、ふりかえってみるに、わたしと亀井先生とが親しくお話しできるというのは、見方によってはいささか奇妙に映るかもしれません。というのも、わたしが大学院生として学び、アメリカはコーネル大学へ留学してアメリカ文学研究者としての基礎を固めた1970年代後半から1980年代半ばにかけての期間というのは、いわゆる構造主義や記号論、脱構築といった批評理論の全盛期であります。自分がそうした最先端の批評理論の波を全面的に浴びて育ってきたことを決して否定するつもりはありませんし、それは昨今では、自分自身で試みているアメリカ文学思想史の言説的準拠枠を再検討する作業にも、大いに役立っています。
ところが、亀井先生というのは、『アメリカ文学史講義』のあとがきでもくりかえしておられますが「いまは『知の技法』よりも『情の技法』が必要だ」という明快なる主張を長く発展させてこられたかたですね。今回の場合、具体的には、こんなふうに述べておられる。「このごろ文学・文化研究の世界では『知』がおおはやりだが、『情』は衰弱しているように思える。私はこの講義で、どうも『情』をこそ盛り上げることに心を用いてきたらしい。そしてその『情』への私の思いの根底には、プリミティヴィズムとでもいうべきものが働いているような気がする」(第三巻「あとがき」)。すなわち、わたしのようにアメリカ文学研究に批評理論を導入してやっているような人間とは、表面的には相容れないかのように見える。わたしのほうも、むしろ年輩の世代のかたには、亀井先生ぐらい強烈なメッセージを持ち続けてほしいものですから、長いあいだ、じつに歯ごたえのある先行者として仰ぎ見てまいりました。
それでは、いったいどうして昨今では亀井先生とよく一緒にお仕事するようになったのか、といえば、それはひとえに、アメリカ大衆文化、アメリカ大衆文学への興味が一致している点に求められるでしょう。SFやロックをこよなく愛するわたしにとって、たとえば亀井先生が、かつてマーク・トウェインへのオマージュとして書かれた現代作家フィリップ・ホセ・ファーマーのSF小説を分析する論文を発表しておられるのを知ったのは、大きな喜びでした。
こんなことを考えながら、たまたまアメリカ共和制時代の小説史をひもとき、とりわけ再評価の進むアメリカ最初の小説であるWilliam Hill BrownのThe Power of Sympathy (1789) を読み直していましたところ、ひとつふしぎなことが起こりました。というのは、この小説The Power of Sympathyは不倫や近親相姦を扱った典型的なお涙頂戴メロドラマ、いわゆるセンチメンタル・ロマンスでありまして、旧来そのタイトルは「親和力」とか「共感力」と訳されてきたのですけれども、そこで語られているのがまさしくアメリカ独立精神を支える感情の問題であってみれば、ひょっとしたらこれはほんらい「情の技法」と訳すべきタイトルだったのではないか、と実感したのです。そう、アメリカ合衆国最初の小説は、亀井先生の文学的信条である「情の技法」を主題としており、まさにそこから、独立革命以後のアメリカ文学史は始まっている。こうした再発見を促して下さっただけでも、亀井先生の『アメリカ文学史講義』は本文とあとがきともども啓発的であり、わたしたち後発者にとっての模範であり続けるだろうということを確認しまして、祝辞に代えさせて頂きたいと存じます。
2000年12月10日(日曜日)
6時―8時