2000/02/24

Miscellaneous Works:祝辞の達人:8


1999年10月23日午後6時より
自由が丘ラ・フェスタにて 

ただいま司会者からもご紹介ありましたように、今回、新郎新婦が華燭の典をあげられるにいたる過程で、わたくしのアメリカ文学演習におふたりが出席していたことがひとつの決定的なきっかけになられたようなので、ある意味では責任をとらされるかたちで僭越ながら祝辞をさしあげることになりました。

で、この祝辞を短くするとしたら、こんなにかんたんなことはないわけです。佐藤君というのは、見るからに秀才タイプでほんとうに秀才である。亜紀子さんというのはそんな佐藤君を物心両面において支える、いわば学者の妻として模範のような方である。いってみれば佐藤君は文学者としてはほぼ理想的な逆タマに乗ったわけですが、先日拙宅にご挨拶に見えられたときにも何ともおふたりはお似合いでした。しかし、いまにして思い起こせば、わたしにとっていちばん印象的だったのは、いまを去ること七年前、一九九三年十一月の学部研究発表会で、山本ゼミ代表として発表にたった佐藤君が、「アン・ブラッドストリートにおける後妻の位置」という主題の発表をしたことです。はじめ、その主題だけをきいたときには、佐藤君はまだ若いのにどうして再婚後の後妻のことなど取り上げるのだろう、と思ったものでしたが、その発表を聞いてみると、これは今日の佐藤君の学者的才能を予測させるような、きわめてアカデミックなもので、たいへんたのしい議論になっていたのを覚えています。つまり、当時のピューリタン植民地共同体が健全に発展していくためにはどうしても一夫一妻制にもとづく家族のユニットを保たなくては成らないため、アン・ブラッドストリートは、仮に自分が死んだあとの夫はほとんど自動的に後妻をむかえるのだろうと懸念し、そのいまだ来たらざる後妻に対してあらかじめ嫉妬を隠さなかった、つまり彼女はいまの結婚生活を何よりも大切にしていたのだという、たいへんユニークな発表を佐藤君はしたわけです。しかし、ふりかえってみれば、まさにこの時の発表というのは、来るべき後妻という存在に仮託してブラッドストリートが自らの結婚観を披露し、さらにそうしたブラッドストリートに仮託した佐藤君本人が自らの結婚観を学部生の聴衆約二百人の前で堂々と披露してしまった瞬間だったかもしれません。いずれにしても、この発表の時から、佐藤君と亜紀子さんは結婚に向けてすでに走り出していたのであり、その七年後、今日のこのめでたい日を迎えたのだと思います。

しかし、わたしも佐藤君とは学部時代、大学院時代合計して七年間はつきあってきたので、じつはこうした、一見したところ外見も中身もクールな秀才タイプの彼が、じつはなかなかにおもしろいキャラクターであるということも、さいごに付け加えておきましょう。今世紀の偉大な文学批評家に三田とも縁の深いジョージ・スタイナーがおり、彼の主著には「言語と沈黙」といのがありますが、佐藤君を観察してきてわたしが最近ひとつの結論に達したのは、彼をつらぬいているのはいわば「饒舌と寡黙」とでも呼べるような原理だということです。彼は授業でも学会でもいわゆるアカデミックな話題においてじつによく議論が展開できる。それはいわゆる雄弁、というふうにふつうはいいますが、しかし一方で彼は、コンパや酒の席などでけっこう三田のファカルティの物まねなどして周囲を笑わせたり、おしゃべりがとめどもなくなってしなうこともある。これは、たんなる雄弁を超えて、饒舌の域に達しているのだと思います。それにひきかえ、いっぽうではこの同じ佐藤君がきわめて寡黙な人物になってしまうこともあり、あれは博士課程の面接のときだったか、アーマー先生の質問にたいして緊張したあまりなのか十分間ぐらい黙り込んでしまってひとこともしゃべらず、わたしなどこのとき相当焦ったおぼえがあります。授業のときなどでも、佐藤君に質問すると、相当長い沈黙をへたあとでも英知と洞察にみちた返事がかえってくることがあるのと同時に、相当長い沈黙のあとになにひとつ考えてなかったみたいな反応がかえってくることもある。これはわたしは、たんに暴露趣味でいっているわけではありません。一見、見た目と中身が一致しておりおおむね人格が予測可能に見えている佐藤君のなかにも、じつはこうした饒舌と寡黙の二大原理が混沌と渦巻いており、それが彼のキャラクターをなかなかおもしろいものにしているということをいっておきたいのです。佐藤君はけっこうカオスな奴で、だからこそとてもおもしろい人物です。そんな彼がいったいどんなおもしろい結婚生活を営んでいくのか、いまからわたしはたのしみでなりません。

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