小さい頃からとにかく本を読むのが大好き。でも、なかなか本を買ってもらえなかった。別に貧乏だったからというわけでもない。本というのは、レコードや映画より、ずっと安価な娯楽だし。でも、とにかく次から次へとすぐに読み終えてしまうため、親もあきれて、「あなた浪費家ね」と言われることになってしまった。
では、どうしたか。まず家中のお宝探し。でも哀しいかな、教養欠乏家庭に子供向きの本はなく、そのうち、友人の家にいっては友人そっちのけで、本棚のまえにえんえんすわりこんで、いやがられたりした。ごめんなさい、Yちゃん。
こんなわけで、超けちんぼな読書家に育った。どうケチか、というと、本は読み終わるまでぜったいに放り出さないというものだ。もったいないからね。やがて図書館を発見して懸命に通い詰める。しかーし、いまでこそ文庫もマンガも買ってくれる図書館は、当時ハードカバー全盛期。安価で消耗品のSF文庫なんて入れてくれない。だから買った文庫本は何回でもしつこく読んだ。世の中に本を途中で放り出すヤツがいるなんて、まさに「信じられなーい」という心境。
ところが、生まれて初めて、一冊の本を途中でぶんなげる羽目となる。20代後半のときのこと。タニス・リーという英国の女性作家の書いた『銀色の恋人』という長篇SFだ。
なぜやめてしまったのか。答えは簡単。あまりにもイタイ内容だったからなのだ。
物語は、未来世界の美形ハンサム・ロボット、シルヴァーと富豪のお嬢様ジェーンとのロマンスを描く。人間とロボットの間の恋愛がゆるされるわけもなく、ふたりは愛し合いながらもひきさかれ、ロボットは破壊される。センチメンタルなロマンス、ロミオとジュリエットのような悲恋、と、ある男性書評家は SF専門誌に紹介した。
とすると、わたしは悲恋だから、イタくて、途中で読むのをやめたのだろうか。その書評を読みながら、それはまったくちがうと、とてつもない激情にかられた。
ロボットとロマンスに陥る少女は、母親が精子バンクから精子を買ってきて生まれた子どもだった。ビジネスウーマンで美人で勝ち気な母親が、大事に大事に育てたひとり娘で、だからこそ娘は母親の完全管理下で母親を尊敬し盲従していたのである。
少女がそんな自分の境遇をロボットのようだったと気付くのは、自分と同じ境遇のロボットを愛しはじめてからだった。この母と娘の間にある、愛情と反抗の部分が、当時強大な母からなかなか自立できなかったわたし自身の胸にこたえたのだった。母の孤独を知りつくすからこそ母親に対する愛情を否定できないままがんじがらめになり、その苦しさを訴えかける、そんな息詰まる展開があまりに真に迫っていたため、なげださずにいられなかったのだ。つまりこの物語は女の子のマザー・コンプレックスをリアルに捉えていたのである。
そう気がついたわたしは、こんどはおしまいまで本書を読み、また繰りかえし読みなおし、母と娘との間にある愛憎について考え込み、生まれて初めて、長い長いエッセイを書き始めた。一九八八年のことである。わたしのもの書き生活は、そんなふうに始まった。
(読売新聞朝刊 13面『時の栞』2002年 12月 1日号に所収)