2000/02/17

Kotani Mari Essays:応援演説草稿



本日はお寒いなか、また質の悪いインフルエンザ流行のなか遠方より多数お集まりいただき、本当にありがとうございます。また、諸先生がたにはすばらしいスピーチをいただき、本当に感謝しております。巽ともども、厚く御礼申し上げます。

とはいえ、わたくし実を申しますと、ちょっと当惑しているのでございます。青土社の宮田さんから「ぜひスピーチを」と言われまして、「ヘイヘイ」と引き受けたのですが、いざここに立ちますと、はてわたしはなんでここにいるのだろうと考え込んでしまいます。巽の相棒として皆様に御礼を申し上げる……と同時に巽孝之の同好の士としてお祝いのことばも述べさせていただくという、祝ったり祝われたりどっちつかずの状態です。

昨今ではフィールドワークに赴く人間が「お前はどういう立場でものを申すのじゃ」と常に問いかけられることからも推察されますように、まったく難しい時代に生きていることを痛感せざるをえません。しかし、ただいま冒頭で御礼のごあいさつも無事終わりましたので、ここらへんでお祝いのあいさつに切り替えさせていただきたいと存じます。

以前から、わたしは巽の著作に関しましてある非常な不満がございました。つまり、わたしには、なぜか巽の著作に関して一度も書評の依頼がないのです。これは日本の出版界において「近親相姦書評」や「なかよしこよしのよいしょ書評はよい書評」はイカンという、きわめて健全な精神の現われであり、止む終えない事情ともいえますが、わたくしも書斎にたてこもる読書人のはしくれ。やっぱりそこは一言言ってみたい。幸いここにこういうチャンスをいただきましたので、お耳汚しとは存じますが、この場を借りて『ニューアメリカニズム』書評などをやってみたいと思います。


*前後左右自由自在書評
巽孝之著 『ニューアメリカニズム』(青土社・2400円)を読む

「ニュー」がついて「アメリカ」という標題を眺めれば、我々の頭に浮かんでくるのは、まず大都市「ニューヨーク」。その「ニューヨーク」の名物といえばもちろん「自由の女神」。そう、アメリカとは自由の国だ。

本書は、そんな希望に満ちたアメリカが国家として体裁を整える以前、すなわち植民地時代から南北戦争までを焦点にして、当時のさまざまなテクストからアメリカの内部に隠された闇の記憶を構成するものである。その意味では、いわば、アメリカの前エディプス的記憶探求といった趣を持つ。

全部で八章から成立する内容は、女装するベンジャミン・フランクリン、疑似科学をふりまわす聖職者、ロマンス小説中毒のあまり超勘違い女になるプッツンおばさん、ネイティヴとともに土着化する人質女といったような、いっけん「眉唾」と思わざるをえないようなエピソードを扱っている。スノッブな読者であれば、まず眉をひそめること請け合いの話題が乱舞する。しかし、本書が真にオソロシイのは、そうしたおバカな話題を繰り出しながらも、入念に入念を重ねさらに入念に調べ上げた調査内容を巧みに張り込み、スキャンダラスでジャーナリスティックな言説の向こう側に、アメリカのある精神状態を幻視しようと目論み、それにかなり成功している、ということである。その意味では、ここにあるのは、いかがわしさのなかに実は一抹の真実の光があった…というような心温まるヴィジョンではなく、いかがわしさがひょっとすると真実かも…というかなり意識変革的な感触をもつ。

このように、本書にはもうひとつのアメリカの姿が描き出されている。それはインチキくさいものを信じ、かなり直情傾向があり、こわいほど真面目でドンくさく、超スノッブでミーハーな一面である。国家という一方向への権力的ベクトルが徐々に姿を顕わしていくなかで、いかなる権力ネットワークがいかなる言説を紡ぎ出していくものか。それを物語の一機能として再考すること――それが本書のねらいといえるかもしれない。

また本書は、真のバカバカしさのなんたるかについて、極めて啓発的な意見を提示している。われわれがバカ話を一笑に付すとき、消毒液クサイ表層倫理に犯されてどう現実をみあやまっているかを切実に考えさせるからだ。

そうだ! 新しいヴィジョンが現れるときの興奮を、本書は確かに持っているのである !

このような著書の作者はいったいどのような人物なのだろうか。

著者はこれまで『サイバーパンク・アメリカ』で文学運動サイバーパンクを観察しついでに自分も一緒に踊りまくり、『現代SFのレトリック』では珠玉の海外マッチョSFの王道を練り上げ、『メタ・フィクションの謀略』ではメタフィクションの自走現象を本気で心配し、『ジャパノイド宣言』では日本SFのジャパノイドぶりを頼もしく眺め、『E・A・ポウを読む』ではエドガー・アラン・ポーの作品と生涯を読みなおすという数々の著作をもって知られている。最新作の『ニューヨークの世紀末』ではマルセル・デュシャン作品を黄色人男性ながら「やおい読み」するなど、その屈曲奇抜な「読み」には定評がある。本書においてもその独特の「読み」から紡ぎ出されるもうひとつのアメリカ像は、まずとてつもなくブッとびつつも、優れて実証的に描かれており、知的で破壊力満点の読書体験が楽しめる。

なお、本書は 1996年 11月 25日、福澤賞を受賞した。とはいうものの賞自体は慶應大学内部の行事であり、一般にはよく知られていない。では、本書と著者と福澤賞を一般的文脈で「読み直す」にはどうしたらいいのか。ここで、『ニューアメリカニズム』の実用書的側面を愚考し応用してみたい。

まずは入念に入念を重ね、さらに入念な「調査ノススメ」である。

すると、こんな事実が浮かび上がってきた。福澤没( 1901年)後 77年たって、すなわち 1977年、福澤家の墓を新しくするにあたって掘り返したところ、地下 5メートルを流れる地下水のなかで、土葬したはずの福澤の遺体が、生前と変わらぬ姿で発見されたと言う(土屋雅春著『医者のみた福澤諭吉』(中公新書)pp. 6-8)。遺族のご意向で白臘化したご遺体はダビに付されたというが、それなら「福澤は吸血鬼となって蘇った」という吸血鬼小説を描いてはどうだろうか。餌食としてつけねらわれるのはもちろん福澤賞受賞者で構成される秘密結社「おススメの会」会員。慶應義塾大学三田キャンパス構内旧図書館に新規購入されたグーテンベルグ聖書のCDーROMをめぐって(註:慶應義塾大学 96年一番の話題)、ハイテク日本国民の意識変革をもくろむ世紀末のヴァンパイア・ヴィジョナリスト・福澤と、慶應きっての知恵者ぞろいで常に生徒たちに自らの専門分野の必読書をおススメしている「おススメの会」会員が、サイバースペースを舞台に大激突する吸血鬼ロマン!今年はドラキュラ生誕百周年。この記念すべき年にあててヒットをねらえば、本書・著者・福澤賞が超有名になるだけではなく、作家である貴方も有名になりお金ももうかる。ちなみに一万円札の顔は福澤諭吉、百ドル札はベンジャミン・フランクリン。みんなでニュー・アメリカン・ドリームを達成し、幸せになろうじゃありませんか。

 『ニューアメリカニズム』万歳!
 よかった! めでたい!

……妄言多謝。

(恐怖のコラムニスト・平塚らいてる 記)
※この原稿はどのメディアにも収録されておりません。