2000/02/17

Kotani Mari Essays:実録!合宿ライフ



いよいよ暑いっ!夏も終りを告げ、高原には秋がやってきた。あのめくるめくような避暑地のざわめきも今は絶え、老嬢三姉妹たちはいま何を考え、どう退窟な日々をすごしているのやら?

というわけで、ご好評にお応えして、実録シリーズ(おいおい世の中におもしろいハナシなんてそうそうころがってるってもんじゃないぜー、シリーズってどういうつもりなんだよ)第二弾は、今年の九月下旬に長野県諏訪郡富士見町で開催された「二代メたつみゼミ合宿」の模様をバラしちゃう、ことにする。

「合宿やろうぜ」
といったのは巽孝之だった。

「あいよ」
これ、わたしの返事ね。

時はいつだったか、忘れたのだが、「侍女の夏休み」のずっと前だったのは確かだ。ふかく考えてみることすらせずに、ホイホイ返事をしてしまうわたしはじつに浅はかな女であった。「後悔先に立たず」である。

夏以後、侍女奉公に体力知力精力を吸い取られ、やっぱむいてないワと反省するわたしは、以後の人生を知的労働にささげるべく、サンディエゴへと旅立った。そして現地調査で、いよいよその全貌をあらわしはじめたカーク/スポックやおい小説の研究に没頭していた。友人の支援だってある。

「リビドーにうったえる話っていくらでも読めるよねー、疲れなんか疲れなんか」とあおる友人wは「はやく内容教えろよ」と、わたしをせっつく。

通常なら、シメきりを睡眠不足よりおとろしいもんだと、寝ないで律義にお仕事してしまうワタシだったが、楽しいのだ、うれしいのだ、睡眠不足解消美容パックをベリベリはがし思わず口笛をふきたくなる、そんなすてきな仕事も世の中にはあるのだ。

「ああ、スポック、おれはおまえを×××」といったようなロマンあふるる「読書の秋」に水をさすそいつの名は、怒濤の「運命」。「合宿は来週の予定に決まったから」と申し渡されたワタシは動揺を隠し切れず、つい平塚弁で応対してしまった。

「ええーっ、だって来週から学校はじまるじゃんか、どうすんの?学校は」
「しょーがないじゃなーい、ゼミのひとりが、夏休みにフランスに遊びに出掛けてたんだヨ」
「なにー、ガキのくせしておフランス? わたしなんて学生の頃といやア、せいぜいSF大会くらいしか、旅行したことなんか、なかった、ぜー」
「いいじゃんか、自分だって、こないだサンディエゴ行ったんだべ?」(←つい、巽も平塚弁になっている)
「あれもSF大会だったんだよ」

というようなやりとりのうちにいつのまにか、というか、いつものように手伝わされる事になっていた。         

合宿初日。九月下旬の長野は寒い。おまけに雨。朝からのぐずついた天気のせいで、ワタシの鼻もぐずついている。アレルギーの嵐。ああ…。非情にも巽はのたまった。

「おいおい、その顔なんとかしなさいね、お色なほしとか……」

ふと、一年ほど前の記憶がよぎる。早朝。東京恵比寿の巽家に泊まったワタシは巽を職場に車で送ることになっていた。朝九時ころといえば、明け方眠る習慣のワタシにとって草木は眠らないが、ワタシはねむい丑三時。とーぜん、ねぼけた格好である。体操服上下に、はだしでつっかけ。ひとによっては(暴走)族ファッションというが、湘南では珍しくも何ともない、プロトタイプの朝姿。

「ねえねえ、着替えてけさふしないのー」
と巽がせがむ。

「時間がないじゃん」とワタクシ。「どうせ学生あいてなんだから、朝っぱらから、めかしこむことないでショ?」

すると夫は、大きなおめめをまんまるにひらいていった。「ばーか、ケーオーの学生なら、ハイヒールはいて、ミンクのコート着て登校してるぜー」

ドヒャー!! その後わたしは、夫を門の前まで輸送すると、逃げるようにベットへかけもどった。そして、ふとんにもぐりこみながら思うのだった。そうだ。忘れていたが、ケーオー大学というところは、ええとこの坊っちゃん学校だったっけ。まーでもだれかに見られたら、「うちのねえやです」っていえばいっか。(と、みずから労働者階級を選択するような発言に走るのだった)

……というような戦後の高度成長期哲学をぶっとばす記憶が、突如よみがえったのでいやな予感がしてきた。おまけにSFファン以外のケーオーの学生に会うのはこれがはじめて。まあ、年にF&SFファン以外の人に何人会ってるか、と数えりゃおのずとビビりたくなる事情だってある。無理ないことだ。こういう時は「カマトトぶりババ」するに限る。      

夕方。敵は総勢五名+α。きたきた、おフランスも。医者の息子も。老舗のぼんぼんも。 まず、史上サイテーのカレーでもてなす。(他意はない、久々につくったらシッパイしたのだ)ところが、魔術的リアリスムもかくやと思われる味にもめげず、おかわりした味覚オンチがいた。なんと、医者のむすこの田島クンである。意外につつましいじゃんか。

聞くと、彼はラグビー部に在籍しているとか。なるほど「食事は質より量」のオトコであった。「おれって体育会随一のインテリなんです」と自慢げに自己紹介。ホットドックプレスの調査によれば、イケイケギャルにもてる条件は「KO、運動部、医者の息子」だというが、その三種の神器をすべてかねそなえているのが、彼、田島クンなのである。専攻は、なんとサリンジャ~。「倒錯の森」とかいうマザコン小説が一瞬脳裏をかすめたが、にっこりわらって「ライ麦ですか、オホホ…」というと、彼は、粗暴に「サリンジャーがオレのいうこと聞かなかったら、殴ってやりますよ」とゼミにかける鼻息はあらかった。

食後、いよいよ二代メたつみによるゼミがはじまる。食堂からワタシは追い出され、夜にかけて、まず二時間ほど勉強。巽孝之のビシビシ生徒をしごく声が、響き渡る。その夜、巽の厳しい突込みをおそれて、徹夜勉強組もでる。翌日は、食事とトイレ休憩のほかは一日中しれつなゼミ勉強が続く。こりゃ~、なんとよくおベンキョする青少年であろうか。健全な若者が勉学にハゲむ姿、うーん、うつくし~。(もっとも勉強するのは、一年中でこの二日だけかも知れないが)。

うかつに感動してしまうワタシであったが、それは同時に、分業を基礎とする産業社会によくありがちな構図をうっかり受け入れてしまうことを示していた。すなわち、インテリ階級がインテリしている一方、彼らの生理的欲求(欲望ではない)を処理しなければならない階級が存在するのは世のならいだったのだ。チクショー、ぜったいヘミニズムにいれあげて階級闘争にはしってやるぅ。

こうして賄い婦人と化したワタシはひがな一日、台所で右手にしゃもじ、左手にはやおいSFを携えつつ、「侍女の物語パート2」にはげんだのである。

そのころ、張本人の巽孝之はどうしていたか。連日休みなしでヒイヒイ原稿書きにおわれている鬱憤を解消すべく、生徒を愛のムチでピシピシたたく彼の姿は、水を得たサカナのよう。否、お上品な英文学教授であらせられる初代たつみ父(すなわち舅)を彷彿とさせ、よいセンセイしてましたのでございます、ハイ。

(14/12/90)
主婦友の会<かものはし通信> 5号( 1991年 1月号)