巽孝之『メタファーはなぜ殺される―現代批評講義』
松柏社、2000年
旺盛な筆力でメタレベルの文学批評をアメリカ的仮象をバックに続ける著者の、これは読書を読書する方法の本。
松岡正剛<埒外案内>2000年7月号
講義ノート形式の、まことにアクチュアルな最先端の批評理論攻略本である。実際、本書は、著者の慶応大学におけるアメリカ文学の批評理論の講義がもとになっている。「現在批評のポレミックス」「現在批評のカリキュラム」「現在批評のリーディングリスト」の三部構成になっており、そこからは著者自身が体験したポストモダンの理論的変容がつぶさに学習できる仕掛けになっている。
無記名<東京新聞>7/9/2000
気鋭のアメリカ文学者による現代アメリカの文学批評。深い読解によってアメリカの文化の真相に迫ると同時に、日本人によるアメリカ文学研究の成果についても検討する。アメリカ文化に関心をもつひとにとっての必読書。(中略)
本書は現代アメリカの文学批評の単なる展望ではなく、またここの批評作品についての断片的な紹介でもない。このようなアメリカの文化的状況をしっかりと把握した上で、個別的な批評作品についての念入りな書評を積み重ねるというかたちで書かれている。読者はこのすぐれた読み手の手引きによって、彼がその重要な論点をえぐりだしている著作のそれぞれを読んでみたいという誘惑に駆られるだろう(後略)。
宇波彰<bk1>7/11/2000
この本は、そうした現在もっとも新しい批評理論を、主としてアメリカの批評家の具体的な実例によって示している。だから決して誰でもすぐにわかるような入門書とはいえない。しかし、新しい文学理論---デコンストラクションとかニュー・ヒストリシズムとかいう名前に困惑し、尻込みしかかっている文学愛好者にとっては、実にありがたい解説書となる。著者は慶應義塾大学で米文学を教える教授だが、読者は巽先生のゼミにモグリで出席できたようなスリルを味わうことになる。そして難解な抽象的理論の羅列ではないことに気づいて安心する。あくまで具体的な事例に基づいた講義であるから。そしてその事例も(中略)狭い専門領域にとじこもらず、文化全体にわたる広い目くばりによって選ばれていることを、ここでぜひ強調しておきたい。
小池滋<bk1>7/29/2002
(外国の)文芸批評という特殊な分野を対象とし、さらに入門書でもないとなると、それこそ専門家や学者・研究生にしか解らない/楽しめない、いわゆる学芸書のひとつなのかというと、これがそうでもない。なぜならば(評者である私のように)文芸批評にも英米文学にも馴染深いとはいえない「読み手」にとっても、本書のもつ「批評理論そのものの物語性=面白み」という部分は、如実に伝わってくるからである。
木村重樹<小説すばる>
本書第一部の各章にはそれぞれ「ディコンストラクションのあとで」、「ニュー・ヒストリシズムのあとで」、「ポストコロニアルのあとで」、「クイア・リーディングのあとで」と副題がつけられている。その批評理論も最終的なものではあり得ない。常にそれは読まれ(誤読され)、乗り越えられていく。巽氏の議論は常にその先が見据えられている。本書を通読して何より感じたのは、巽氏のこれまでの批評テクストがこうした同時代の批評群といかに活発に相互交渉しあってきたかであり、だからこそスリリングであったという事実である。こうした批評全般の魅力、そして巽氏個人の批評の魅力、どちらも本書を通して改めて納得させられる。本書は我々が巽氏の批評テクストを読み、そして乗り越えていくためにも読まなくてはならない必須のテクストとなったのである。
上岡伸雄<読書人>7/14/2000
割りと近しい友人たちがこのところ傑作を書く。俊才相手に失礼を覚悟でいえば四方田(犬彦)氏は本のつくり、文章もどんどん巧妙に、それでいて至極透明になっていく。評伝作家としても残る人だ。そういう本のつくり方の巧みさを評論でやったのが巽本。頭の良さではナンバー・ワンというところを堪能させてくれた。松柏社の覇気、脱帽です。
高山宏 「2002年上半期」<図書新聞> 8/5/2000
本書は、簡単に言ってしまえば、英米文学研究書のブックレビューを中核にした現代文学批評の講義録である。だが、これはブックレビューのお手軽なイメージとも、講義録という退屈な語感とも無縁の、いわば読むことの冒険記であり、生きるということと深く関わっている書物だという印象を深くした。(中略)巽氏の仕事は、今現在のためだけではなく、歴史的に自分たちの時代が何を残しうるのかを常に念頭において営まれている。そしてそれこそは、目まぐるしく変化する現代の意匠に惑わされることなく、本当に現代の本質を捉える唯一の方法であることを、われわれにその思想的果実をもって示唆するのである。
長山靖生<論座>2000年8月号
本書は著者の慶應義塾大学文学部における現代文学批評クラスの講義ノートをその原型としている。各章はすでにさまざまな場で個別に発表された論文や書評であるが、一冊にまとまったことでますます力強く「現在批評」のダイナミズムを訴えかけてくる。(中略)文学批評のあり方を貪欲に追求し実践してみせた本書がいかなる批評的可能性をもちうるか、それは読者自身の想像力/創造力にかかっている。
麻生えりか<英語青年>2000年10月号
本書はさまざまな罠(トラップ)にみちた一冊である。(中略)特に、私のように小説を書く人間にとって魅力的な仕掛けとは、文学創作(クリエイティブ・ライティング)への刺激にほかならない。最先端の批評理論を提示し、その発展過程と共に鋭く論じながら、その先にある文学創造性を探らせる、という著者の底力である。もちろん、文学に関わるレベルは各々だが、読者自身が自らの文学を鍛えるために、周到に計画されている。(中略)本書のメソッドにひとたび触れた読者が、この批評書がたんに「文学批評」のみならず、「文学創作」への可能性をも秘めていることに気づくだろう。それこそが、本書の持つ最大の魅力であり、独創的な罠なのだ。
吉川道子<三田文学>2000年79号
これは到達点である。混迷を極める現在批評指南書としての到達点であり、巽氏の10年にわたる構想の到達点であり、氏の同じ歳月の執筆活動が一つの形をとった到達点であり、この書物の原型となる氏の教室における講義の到達点である。
下楠昌哉<Soundings Newsletter #42>12/15/2000
巽孝之『メタファーはなぜ殺される』(松柏社)。米文学者による最新海外文学研究書の書評集---というと、何やら堅苦しく、専門家以外には関係なさそうに思えるかもしれないが、そうではない。本書は「読むこと」「考えること」の悦びを、徹底的に追及した知的快楽の書である。
長山靖生「ワイド特集印象に残った本<全120冊><週刊読書人>12/15/2000
この本をひもとく[メタファーを殺してください]と、たちまち次の文句が目にはいる仕掛けになっている---「すべての現在批評は、メタファーをめぐる噂で始まり、メタファーの検死をめぐる記録で終わる」と。これ自体たいへんメタフォリックな文章だが、そういう「修辞的装置群の廃墟」がこの本を「構築」している。そして、この本の内容はまさしく「現代批評講義」であるが、その「講義」に耳をかたむけ、理解しようとすることは、とりもなおさず巽のメタファーを殺してジャーゴンにする作業にほかならない。そして読者がそのジャーゴンをもちいて相互に伝達しあえるようになるとき、著者の理論は市民権を獲得し、著者の目的は達成されるのである。が、そのときはまた巽が新たなメタファーを発明して、どこかにずらかるときでもある。巽の本をよむ者はあまりナイーヴであってはならないのである。
八木敏雄「アメリカ小説の研究」『英語年鑑2002年』(研究社、2002年)
「苛立ち」の程度はともかくとして、私の憶測がある程度正しければ、巽氏の矛盾のエネルギーは今後もほとばしりつづけるだろうし、時代が変わればディコンストラクションやポストモダニズムの意匠=衣装を外してでも、活発な思索と執筆をつづけるだろう。矛盾は人を休ませないからである(言い換えれば、ポストモダニズムがともすれば衣装に見えるほど、矛盾への巽的欲望は深く、ポストモダニズム自体に対する矛盾をも時として恐れないのである)。このことを最終的に示唆する点において、『メタファー』の巽孝之は佇立する一人の作家たりえていると私には思われる。
平石貴樹<アメリカ文学研究#38>日本アメリカ文学会 2/23/2002