大串尚代君は、巽ゼミ史上初めて大学院に合格した逸材である。
初代ゼミ生にあたる新 3年生が入ってきたのが、1990年4月。のちに山口君や太田君とともに 2期生となる大串君はこの年、新2年生。その前年に三田に着任したばかりの新米だったわたしは、当時 2年生対象の原典講読を担当していなかったから、この時点ではまだ最初の遭遇を遂げていない。初対面は、同年11月。翌年からの新 3年生を対象にした各ゼミ紹介ガイダンスが第一校舎 2階で開かれ、その直後、教室を出たわたしを呼び止める声がしたのでふりかえると、そこに巨大なアラレちゃん眼鏡が息をはずませながら立っていたのだ。
「ポール・ボウルズとかの研究でも受け入れていただけるのでしょうか」。
あまりにも巨大なアラレちゃん眼鏡が直立二足歩行しているばかりか口を利くこと自体にびっくりしてしまったわたしは、あたかもゴーゴリやカフカ、フィリップ・ロスやユーリディシーの世界へ踏み込んだような気がして、うなづく以外声もなかったように記憶する。
やがて年が明け、ゼミ志望票が回収され、1991年 1月には入ゼミ内定者全員を召集して面接する機会があった。のちにゼミ 2期生となる諸君が、当時、河内恵子先生と共同だったわたしの研究室にずらりと並んだ。ひとりひとりに研究主題を確認していくと、誰もが顔を輝かせていたように思う。この時、大串君はいちばん窓際の、河内氏の机の前あたりに佇んでいただろうか。最後に彼女の番になり、変わらずボウルズの名を唱えたので、昨年11月にはうまく言葉が出なかったわたしは、こう言った。「君、なかなかセンスがいいじゃない」。
しかし以前とは打って変わって、巨大なアラレちゃん眼鏡はニコリともしない。これはとんでもなく生意気な娘かもしれないぞ、というのがその時のわたしの最も正直な反応だった。大串君自身は「あれはひたすら緊張していただけです」というのだから、まったく人間の現実認識というのはカオスなものである。
以来、十年。大串君はきわめて順調に卒業し、修士課程と博士課程を終え、本年 2000年 4月より、本塾英米文学専攻のアメリカ文学担当新任助手となった。この間、いったい何があったのだろうか。
そのことをふりかえる時、必ず思い出すのが、以後の彼女の手になる優れた論文群よりも、何より 1992年 9月の夏合宿で初めて読まれ、のちに卒論にも、それからつい最近提出された入魂の博士号請求論文にも組み込まれることになる、このボウルズ論なのだ。
それは、たんにこれがわたしに提出された彼女の最初のペーパーだったということにとどまらない。書き手本人もいうように、全体的には未熟で未完成なところが目立つかもしれないが、ここには明らかに、ひとりの可能性に満ちたアメリカ文学研究者の萌芽があった。
お読みになればわかるとおり、このペーパーの理論的骨格は、わたし自身のインディアン捕囚体験記に関する論考「マリアの消えた荒野」(<ユリイカ> 1992年 3月号、のち『ニュー・アメリカニズム』第2章収録時には「荒野に消えたマリア」と改題)によって与えられている。これは新歴史主義批評からニュー・アメリカニズムへ移行する時期のわたしが試みた最も野心的な論考だったので、掲載誌が発行されるとともに一部、1991年 8月から翌 92年 6月までの予定でアメリカはオレゴン大学に留学中だった大串君にも送ったのだ。彼女は当時、留学直前に出席していたわたしの授業すべてがオレゴンでの学業にも大いに役立ったことを手紙にしたためており、これはかねがねアメリカの大学と同水準の文学教育を心がけていた教師にとっては、うれしい知らせであった。
しかし、帰国した大串君が発表したボウルズ論に感銘を受けたのは、たんに拙論をいとも素直に応用しているということだけでなく、彼女がそこに、わたし自身には思いも寄らなかった独創的な見解を付け加え、しかもアメリカ文学史の成り立ちそのものを再考させるほどに優れた『シェルタリング・スカイ』論を仕上げているのが認められたからである。もちろん、当時のわたしがコメントしているように、まだまだ傍証不足のところはあるだろう。しかし、学部 3年生のペーパーとしては、これはあまりにも上出来だった。そこには、いい大人になった文学研究者でさえ実行を怠ることの決して少なくない学問的規律の大枠が、以下の三点において、じつにやすやすと達成されていたのである。
第一に、先行研究への負債の誠実なる表明。第二に、批評史を網羅しながらもそこへさらにプラス αすなわち独創性を付け加えていく野心的な姿勢。そして第三に、たったひとつの作品をじっくりと精読しながらも、それによって膨大なるアメリカ文学史全般を問い直す冒険的な洞察力。
じっさい、現代文学の専門家には『シェルタリング・スカイ』を 17世紀のインディアン捕囚体験記と結びつける気力は薄いだろうし、逆にピューリタン植民地文学の専門家には、その伝統が 20世紀にタンジールへ移住した亡命作家ボウルズにまで及んでいると想像する余裕もないだろう。だが、大串君の内部では、これらふたつのまったく異なる準拠枠が、じつに美しい化合力を発揮した。そのことだけでじゅうぶんだったし、これが大串君個人の学問的発見であるからにはそれを尊重し、少なくとも何らかのかたちで公表され引用可能になるまでは、わたし自身の著作でも応用することさえ控えようと思ったものである。
そう、この時わたしは、たかだか二十歳を超えたばかりのひとりの女子大生のペーパーに、心から敬意を払っていた。だから、1994年 3月の<ユリイカ>ボウルズ特集号への寄稿の仕事を何のためらいもなくこの学部 4年生へ回したのは、べつに多忙のせいばかりではない。その意味で、今回 HPに陽の目を見たことを、そして同論文が「引用可能」になったことを、ほんとうにうれしく思う。アメリカから北アフリカへ転移するナラティヴには 17世紀以来の伝統があり、バーバリ捕囚体験記の名で呼ぶ習慣すら確立していたことを知るのは、それから十年近くのちのことだ。そして、ほかならぬバーバリ捕囚体験記のアンソロジーが出版されるようになるのも、つい最近のことだった。これら昨今の学問的動向は、ボウルズ論執筆当時にはいかに論証不足だったとはいえ、大串君の予見した方向性自体はじつに正確だったことを、雄弁に裏づけてやまない。