1992/02/16

エリスの文学に見るブラット・パック:結語


結語

 わたしがエリスの文学を読んで、さらに研究してきて痛切に感じたのは、「現代アメリカ社会は病んでいる」ということである。

 アメリカでは毎年、行方不明者がかなりの数にのぼるそうだ。日本みたいに住民登録をする制度もなく、また大都市でホームレスが溢れている状況を考えれば、「行方不明者」と認定されない行方不明者が多いのにも、また頷けるのである。では、彼らはいったいどこに連れ去られるのか。エリスのデビュー作『レス・ザン・ゼロ』にもその存在がほのめかされているが、アメリカには「裏ビデオ」マーケットがあり、その種のテープが一本千ドル、二千ドルで取り引きされているらしいという「噂」が一時期、巷で囁かれたことがあった。日本式の「裏ビデオ」はアメリカでは正真正銘の「表ビデオ」であって、彼らの言う「裏ビデオ」とは『悪魔の生け贄』風の猟奇ビデオ、しかも特撮ではなく、本物を切り刻む光景を録画したものなのだ。そして街頭から姿を消していく人々は、このビデオの生態モデルにされているというのが「噂」のミソだった。それが現実かどうかはわからないが、「病むアメリカ」を象徴するような出来事といっていいであろう。同時にこれがアメリカの現実なのだ。

 また、考えてみれば「病むアメリカ」というのは、ジョナサン・デミィ監督の『羊たちの沈黙』もよく象徴しているのではないだろうか。この映画は1991年アメリカで大ヒットを記録し、映画界最高の栄誉であるアカデミー賞でさえも獲得した。つまりこの映画は、アメリカの時代の空気、気分に迎えられたのだ。では、この時代の空気とはいかなるものなのであろうか。それはこの映画がアメリカで公開された時期を考え合わせてみればよい。ちょうどアメリカが湾岸戦争にうつつを抜かしていた時期なのである。そしてジョナサン・デミィ監督は元々、一部ファンにのみ人気のあるカルト監督で、それが『羊たちの沈黙』で広く支持されたのも、明らかに、湾岸戦争へと突入し、湾岸戦争を通過した90年代アメリカが欲する「無自覚のバイオレンス」とでもいうべき暴力衝動に、見事に呼応したからであろう。『羊たちの沈黙』は、その衝動に応えてあまりある恐怖を用意していたのだ。

 これらのことからわかるように、今やアメリカは、溜まりに溜まった内なるフラストレーションを爆発させるべく、暗い恐怖を欲しているのである。であるから、芸術作品がどれほど箇条で衝撃的で、人騒がせなものになろうとも、それこそ資本制それ自体の破壊を公然ともくろんでいようとも、そのような作品に接したがる重要かつ有益な客層が存在するのである。言い換えれば、もはや、夢と希望を語る明るいエンターテイメントではおさまりのつかぬ地点、エリスの言うように、あらゆることを過度に描き、しかも悲劇をその対極にある喜劇として描かなければ現実を語り切れない地点にまで、アメリカは到達してしまっているのだ。

 また、アメリカの「無自覚のバイオレンス」を表すものに、マーティん・スコセッシ監督の『ケープ・フィアー』がある。この映画は全米クリスマス公開、日本でも正月映画という大ヒット狙いであったが、日本人の感性から言うと、これも正月から見るにはあまりにも凄まじい恐ろしさに満ちているのである。しかし、その狙い通りにアメリカでは大ヒットになった。つまり、90年代、アメリカはそのような恐怖バイオレンスをクリスマス・ムービーとして面白がれる、これでエキサイトできるというマス精神状態にあるということなのであろう。

 しかし、このアメリカの状態、アメリカの病を、日本人である私たちは他人事のように眺めていてよいのであろうか。この日本でもアメリカのような状況を生み出す要素、つまりアメリカとの類似はいくつでも挙げることが出来るのだ。なぜなら日本は、西洋=アメリカに追いつけ追い越せで発展してきたのであるし、そしてその結果、今日本では、第二章でも述べたような学年制が存在しており、今やアメリカ以上の消費文化が存在しているのだ。さらに自衛隊がPKO活動協力のため、カンボジアに派遣されたことなどもこれに当てはまるかもしれないし、常に集団でつるんで行動し、スプラッター・ビデオを眺めるエリスの作品の中に出てくるブラット・パックたちは、私たちとにているところが多々あるのではないだろうか。

 このようなことを考えると、『ケープ・フィアー』が日本ではヒットしなかったからといって、安心してはいられない。ただ日本人の感覚が、その時はまだそこまで行き着いていなかっただけなのであり、『ケープ・フィアー』のような映画が正月映画としてヒットするのも、時間の問題のように私には思えるのである。果たして、そのような将来はいつ来るのだろうか。なるべく先、または来ないことを祈らずにはいられない。

 だが、考えようによっては、世紀末の恐怖が「無自覚のバイオレンス」となり、戦争、暴動のような格好で現実に表面結晶するよりは、エリスの作品や(私は彼の作品がパンクだともホラーだとも思わないが)ホラー映画の持つ代償機能が作用して、人々の恐怖感や暴力衝動が、それで発散されるのなら、それにこしたことはないのであるが。

あとがき

 最後に、私が研究を進めるにあたって、さまざまな助言を下さった巽先生やゼミの皆さんに感謝の意を述べたいと思います。ありがとうございました。




本卒業論文は1993年1月、慶應義塾大学文学部に提出されたものです。
ホームページ掲載を快諾してくださった太田さんに感謝いたします。

本卒業論文の無断転載を禁じます。



CONTENTS
[序文]/[第一章]/[第二章]/[第三章]/[結語]
[参考文献]

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