1992/02/16

エリスの文学に見るブラット・パック:第三章


第三章 
ブラット・パックの文学世界



 今まで、エリス文学の主人公を取り上げ、主に世代的特徴をいろいろと述べてきたが、最後にこのようなキャラクターを持つブラット・パックを主人公としたエリスの作品が、なぜここまで評判を呼び、売れたのかということについて触れたいと思う。

 もちろん、クレイとベイトマンなどというエリスの描くキャラクターは少々極端な例であるが、そのキャラクターが彼らの世代を代表していることは確かなのだ。であるから同世代の読者の共感を得たということももちろんあるであろう。しかしそれだけなのであろうか。その人気の秘密について私なりに考えたことを述べたいと思う。

 まず一つには、エリスがとてもうまく時代を読んでいたからということである。そのことは先に引用したエリスの言葉、そしてもう一つの彼のこの言葉、
Sex in the 80's . . . was frightening, laced with danger, impersonal, something to be bought, negotiated, . . . I used comedy to get the absolute banality of the violence of perverse decade. Look, it's a very annoying book. But that is how as a writer I look in those years. (Ibid. C18)
からも明らかである。つまり先にも述べたように、現代アメリカ社会では、暴力や殺人が毎日テレビで流れ日常化してしまっているため、現実とフィクションの区別がつきにくくなっている。そんな状況下ではいくら現実をストレートに訴えたところでその言葉は人の心に残るわけはない。だからあらゆる事を過度に描くことが必要になってくる、そして「恐怖の行き着くところは笑い」といわれるが、暴力をスプラッターとし、喜劇にすることが必要になってくるのである。エリスはそのことをわかっていたのだ。だから現代の若者ブラット・パック・パックの特徴を少々過度にして持ったキャラクターを主人公とし、そのため必然的に暴力を描いた、特に『アメリカン・サイコ』についていえば暴力を過度にし喜劇にまでして描いた、エリスの作品は非常に時代にマッチしていたのである。エリスの作品の興行的成功は、このような彼の見事な時代の読みが的中したためであろう。

 そして二つ目には、エリスの作品が読者にとって、先にも述べたように共感を呼べるものでもあり、憧れを呼び起こさせるものでもあったということである。エリスの描く主人公は表面上、うまく世の中を渡っているように見えるのだが、心の中では異端児となっていて、世間からはずれている。しかもただはずれるのではなく、かっこよくはずれているという共通点を持っているのだ。このはずれた世界には、入ったものにとっては入ったものにしかわからない、絶望の奥に潜む退廃の甘い魅力があり、また一方で、彼らのように裕福なエリートではない大多数の人にとっては、そのお坊ちゃまたちの退廃的な世界は、憧れを抱かせさえするほど幻想的で魅力があるのである。その証拠に、同じようにそのはずれた世界、つまり、コカインやセックスに明け暮れる毎日の中から圧倒的孤独感が押し寄せる都市空間を描いたジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグ・シティー』も商業的に大成功を収めている。

 三つ目には、エリスの作品に、彼自身がそれをもくろんでいるのかはわからないが、常に二面性が潜んでいることではないだろうか。『レス・ザン・ゼロ』においては、パンク小説とも思える一面と、若者の苦悩を描いた伝統的な青春小説の一面がある。そして『アメリカン・サイコ』に至っては、残虐な殺人シーンを克明に描写していることからくるスプラッター小説の一面、その描写の過剰さからくる喜劇的な一面、さらにある意味では現代社会の犠牲者とも言える若者を描いていることからくる悲劇的な一面という、三つの面があるのである。

 また、エリスが作品中において、作品間に意外なつながりを持たせるというからくりをしかけることによって、次回作への期待を持たせてくれ、次々とその期待をいい意味でも悪い意味でも覆してくれるから、ということもいえるのではないだろうか。彼は『レス・ザン・ゼロ』では主人公クレイの成長を感じさせているのだが、『ルールズ・オブ・アトラクション』にもクレイを登場させ、その中のクレイには全くその成長が感じられないどころか後退の感さえあり、『レス・ザン・ゼロ』でのハッピー・エンドを覆しているのである。そして『アメリカン・サイコ』では『ルールズ・オブ・アトラクション』の中でたった一度だけ名前が出てくるだけのパトリック・ベイトマンを主人公としており、それだけでも十分なのに、作品ないにおいても読者の期待を裏切ってくれるのだ。つまりその作品はごく平凡な一行、タクシーのなかから眺めたウォール街の描写で始まり、その場面で主人公と一緒にティモシー・プライスという友人が登場するのだが、その友人が特権階級意識、差別意識丸出しの人間で、主人公がその友人の話をおとなしく聞いているものだから、主人公ベイトマン自身は控えめでもの静かな人間ではないかと思えるくらいで、彼が残虐な殺人鬼だとは決して思えないオープニングなのである。ところで、このようなことから私が今、彼の次回作について一番楽しみにしているのは、その主人公には誰がなるのであろうか、『アメリカン・サイコ』の登場人物の中の誰かなのであろうか、またパトリック・ベイトマンは登場するのであろうか、ということである。このことは、エリスの作品にしかけられたからくりのことを知っている読者ならば誰でも楽しみにしていることであろう。

 また、エリスの文学の魅力で忘れてはならないのは、彼の独特の文体である。この文体も時代にマッチしていたのみならず(脚注1)、批評家は彼の文体について「作品の中でも絶えずバックに流れているMTVのようである」といい、MTV感覚と形容している。つまり、彼は作品においてとりたててストーリーらしいストーリーを展開しておらず、一切の感情や分析を排して、ただ淡々と時の流れに従い、若者の生態をクールに簡潔な文体で描写しているのだ。ついでに言えば、それは彼の三つの作品自体にも言えることで、それらの作品の間には淡々とした時が流れているのである。エリスはこのことについてあるインタビューでこんなふうにいっている。
僕は他人について書いているのであり、自分は傍観者でしかない。他人を批判しようとは思わない。分析にも興味はない。(脚注2)
このような彼の徹底した態度が彼の文体に不思議なリズムとスピードを与え、ある意味では凄惨とも言える内容と強烈なメッセージを含んだ彼の作品に、普通ありがちな押しつけがましさや説教がましさをあたえるのではなく、反対にクールでドライな、言い換えれば透明感を与えているのだろう。そしてそれだけではなく、彼の作品においては、読者が著者というフィルターを通さずに、作品の舞台に立ち合うということができるという効果を生むのであろう。このことは、『レス・ザン・ゼロ』においては、何度も出て来る"Disappear Here"という文章や、『アメリカン・サイコ』においては、一番始めの"ABANDON ALL HOPE YE WHO ENTER HERE"(American Psycho, 3)という文章でよく説明できるのである。つまりここで読者はエリスが客観的に描いた物質的ナルシシズムという地獄的な世界に投げこまれるのだ。

 ところで、これだけ述べると、エリスの作品はよいことづくめのようである。しかし、もちろんエリスの作品は様々な人に酷評されもしたのだ。特に彼の最新作『アメリカン・サイコ』は徹底的にたたかれたのである。ではその彼の最新作がどのようにたたかれたのかを見てみよう。例えば、ロジャー・ローゼンブラットはこの本を"worthless" "fake"そして"sin"などと呼んでいるのだが(Roger Rosenblatt, 13-16)、批判の種類は大きく分けて三つに分けることができる。一つは「生理学的に許せない」というものであり、これが大半を占めている。そして「文学の倫理観の問題として認めるわけにはいかない」という批判がこれに続く。文学者やある程度冷静な評論家の意見はだいたいこれである。彼らは文学を神聖なものとしてみたいという態度なのだ。更に少数派の意見として、「エリスの意図は認めるが、その意図が大き過ぎるが故に若い作者は巧みに書くことができなかったのだ。したがってこれは失敗作だ」という意見まである。ノーマン・メイラーの意見もこれに当たり、彼はだいたいこのようなことをいっている。「結局エリスは、レベルの高い技術を要するものに手をつけ、ただ単に残虐な描写に徹するという若い限界をさらけ出したにすぎないのだ(脚注3)」。そしてこの作品に対する批判は筆者や出版社にまで及んでいる。エリスについては、スキャンダルな本を書くことで人気を得ようとした、また、女性を苦しめ殺害する方法を本気で書こうとした、などということがいわれ、出版社については、金儲けのためなら何でもするのだ、女性のみの安全など考えていない、などということが言われたのである。

 確かにいずれの意見も納得のいくものだ。資本主義におかされたものを極端に描くことで、その奥にある差別や不道徳を残酷にさらし、現状を克明に描写することまではいい。しかしだからといって、先に述べたようにそれが必要であったからといって、このようなことまで書かなくてよかったのではないか、と実際私も思うのである。

 だが私はここでまた、エリスの弁護をしてみたい。この作品は確かに残酷で差別主義に満ちているのだが、それだけではなく、エリスお得意の二面性、そして救いもこの作品にはあるのだ。つまり、主人公ベイトマンは確かに残虐であり、差別意識に満ちている。だが、その差別意識と弱者に対する憐れみが彼の中では同居しており、それが彼の人格を複雑なものとしているのである。では、その差別意識と同居した彼の憐れみが読み取れる箇所を引用してみよう。

. . .suddenly I find myself eyeing a very pretty homeless girl sitting on the steps of a brownstone on Amesterdome, a Styrofoam coffee cup resting on the steps below her feet, and as if guided by radar I move toward her smiling, fishing around in my pocket for change. Her face seems too young and fresh and tan for a homeless person's; it makes her plight all the more heartbreaking . . . . My nastiness vanishes and , wanting to offer something kind, something simple, I lean in, still staring, eyes radiating sympathy into her blank, grave face, and dropping a dollar into the Styrofoam cup I say, "Good luck." (American Psycho, 85-86) 
On my way out his morning I stopped at the front desk, about to complain to the doorman, when I was confronted with a new doorman, my age but balding and homely and fat. Three glazed jelly doughnuts and two steaming cups of extra-dark hot chocolate lay on the desk in front of him beside a copy of the Post opened to the comics and it struck me that I was infinitely better-looking, more successful and richer than this poor bastard would ever be and so with a passing rush of sympathy I smiled and nodded a curt though not impolite good morning without lodging a complaint. (Ibid. 138)
第一、この作品のホラー性は残虐な殺戮シーンにあるのではない。それどころか、このようなシーンは喜劇的でさえあるのだ。だからこの作品のホラー性は、これもこの作品のよく批判される要素であるが、長々と続く高級ブランド品と高級レストランの説明、中身のないちぐはぐな会話の中にあるのである。しかもこの要素は、彼がいき過ぎたナルシシズムの犠牲者であることを示し、この作品に悲劇性を与えているのである。であるから、確かに先に述べたような酷評が激しい検閲問題までも引き起こし、人々の興味をこの『アメリカン・サイコ』に引きつけたことで、その売上に貢献したことは事実であるが、私はそのような批判に反論して、この作品を悲喜劇と定義したいのである。

 ところで、私のこの『アメリカン・サイコ』への弁護は、エリス文学へ私の態度全般 を表しているのかもしれない。私はこの卒業論文で、ブラット・パックという世代の世代論を述べたつもりであるが、結局それは、エリスの文学が時代をとてもよく反映した、序論でも述べたがミニマリズムの文学ではなく、深い意味を内包した純文学である、そして文学史においてはメイン・ストリームである、ついでに『アメリカン・サイコ』についていえば、ヴィンテージ社にふさわしい作品であるということを述べたことになるのかもしれないからだ。しかしこの論文において、私が展開してきた意見が単なる主観、思い込みではないことを、そしていい意味でのオリジナリティーであることを後は祈るのみである。

脚注
注1 『レス・ザン・ゼロ』訳者あとがき(262頁)より。 
注2 『レス・ザン・ゼロ』訳者あとがき(263頁)より。 
注3 ゲイリー・フィスケットジョン「ブレット・イーストン・エリスの試練」松渓裕子訳(258頁)より。



CONTENTS
[序文]/[第一章]/[第二章]/[第三章]/[結語]
[参考文献]



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