1992/02/16

エリスの文学に見るブラット・パック:第二章


第二章 
崩壊するアメリカ

a. アメリカの矛盾---欲望の構図より
 クレイとベイトマンというエリスの描くアンチ・ヒーローが、彼らの世代の真の姿を正しく表しているとはいいきれないかもしれない。だが、今まで述べてきた彼らの性格上の特徴、つまり『アメリカン・サイコ』のベイトマンに強く表れている、無感情、残虐性、道徳性、ナルシシズムなど狂気とも言える性質が、ある程度彼らの特徴となっているのは事実である。ではなぜそれらの性質が、現代アメリカのブラット・パックと呼ばれる若者たちの特徴となってしまったのであろうか。ここからは、ブラット・パッックが生まれ育ってきた社会的背景とからめて、その理由を述べていきたいと思う。

 まず、一般的にいえば、ブラット・パックの育ってきた社会は資本主義が巨大に発達し、物にあふれた消費文化を生み出した社会である。そして、その発達し過ぎた資本主義と消費文化が、この世代に狂気を与えたのだということになるのであろう。どういうことかというと、まずアメリカで資本主義が発達したのは、自助、自立、自己犠牲の精神、質素、倹約,勤労などを美徳とする、十七世紀植民地時代以来のピューリタンの倫理があったからである。しかし皮肉なことに、そのピューリタンの倫理によって資本主義社会が発展し、多量の製品が店に並ぶようになると、人々は豊かさに浸り始め、富裕の心理を持つようになり、その発展を支えたピューリタンの倫理はもはや不要なものとなってしまう。すると欲望は我慢する必要がなくなり、すぐに満たせるものとなるため、ブラット・パックに特徴的な空虚さ、無感情、不満、不安、倦怠感などが生まれてくるということなのだ。なぜなら、欲望はすぐに満たされるよりは我慢してから満たされた方が、それによって得られる感動や満足感が大きいものである。欲望がすぐに満たされてしまっては,それだけ満足感も瞬間的にしか得られない。ところが、彼らは満足することを知らないため、欲望をすぐに満たしてしまい、そのため次々とまた飽くことのない欲望を持ち、それを満たしつつも本当の満足感を得られずに、空虚で不安なままに終わる、倦怠感が募るという悪循環に陥ってしまうのである。そして彼らの欲望の満たし方が、消費などというものでは物足りなくなってしまい、時には暴力や残虐な方向にまでエスカレートしてしまうのだ。そんなあらゆる欲望が飽和してしまった者の殺伐とした飢餓感が暴力を、そして最悪なものを呼び寄せる図式は、先にも少し言及した少女のレイプ場面における主人公と友人の会話を初めとして、『レス・ザン・ゼロ』の中の様々なところに表れている。
"It's . . . I don't think it's right."
"What's right? If you want something, you have the right to take it. If you want to do something, you have the right to do it."
"But you don't need anything. You have everything," I tell him.
Rip looks at me. "No. I don't."
There's a pause and then I ask, "Oh, shit, Rip, what don't you have?"
"I don't have anything to lose." (Less than Zero, 189-90)
 
And I remember that at that time I started collecting all these newspaper clippings; one about some twelve-year-old kid who accidentally shot his brother in Chino; another about a guy in Indio who nailed his kid to a wall or a door, I can't remember, and then shot him, point-blank in the face, and one about a fire at home for the elderly that killed twenty and one about a housewife while driving her children home from school flew off this eighty-foot embankment near San Diego, instantly killing herself and three kids and one about a man who calmly purposefully run over his ex-wife somewhere near Reno, paralyzing below the neck. I collected a lot of clippings during that time because, I guess, there was a lot to be collected. (Ibid. 77) 
I also realize that I'll go with Julian to the Saint Marquis. That I want to see if things like this can actually happen. And as the elevator descends, passing the second floor, and the first floor, going even farther down, I realize that the money doesn't matter. That all that does is that I want to see the worst. (Ibid. 172)
また、彼らの欲望の満たし方が暴力や残虐な方向にエスカレートしてしまうということには、一般的にいってもう一つの理由がある。それはマスコミの発達である。現代アメリカでは殺人ですらも表層化してしまい、凶悪化した犯罪とフィクションとが均一のレベルでテレビという共通の媒体を通して流されている。このような状況下で、テレビ・ジェネレーションである彼らは、日常化された殺人事件をドラマと同じように眺めてしまうことになるのだ。そしてついには、暴力や殺人事件に対して感覚が麻痺してしまい、更に強い暴力を求める必要が生じるのである。ここでエリスの興味深い言葉を引用したいと思う。
...われわれは基本的にショックを受けることのない人間である。...この世代は子供時代から、虚構であれ、現実のものであれ、暴力から求愛を受けつづけてきた。映画、文学、ある種のヘビー・メタルやラップ・ミュージックで暴力がきわめて極端に走っているとするなら...それは恐怖を感じる必要性を反映しているのかもしれないのである。ホラー映画の鋭さが毎日ニュースで繰り返されることで鈍ってしまった今日であるから...(脚注1)


b. 新しいナルシスたちの運命

 しかしブラット・パックの狂気ともいえる性質の原因は、今まで述べてきた発達し過ぎた資本主義や消費文化、マスコミだけなのであろうか。そうではないと私は思う。そして私は、今まで彼らの世代的特徴、狂気の一現象としてきたナルシシズムに注目してみた。なぜなら、ナルシシズムを生んだ社会的背景を調べてみたところ、奥出直人氏によれば、このナルシシズムというのはアメリカ人には古くから根づいており、世代的特徴というよりは、アメリカ人のナショナル・キャラクターともなっており、ブラット・パック・パックのナルシシズムはそのいき過ぎた形ともいえるものだからである。そして更にいえば、先に述べた性質の一つ一つが複雑にあいまって、彼らの狂気を生んだのだと思ったからである。

 ではまず、一般的なナルシシズムを定義してみたいと思う。先には、自分の外見を気にするということでナルシシズムを使ったのであるが、それだけではない。ナルシシズムという言葉はまず、「自らを知る」ことがなければ天寿を全うするであろう、と予言されたナルシスが水面に映る自分の姿を見て、「自らを知る」に至ったことに源を発する言葉である。よって自分の姿を気にし、自分の姿を見ることと、見られることによる恍惚を単に表すわけではないのだ。ここではその伝説を分析することによってナルシシズムを定義してみよう。水の中の鏡の像はナルシスにとって、私であると同時に私ではない何者かであるのだ。であるから「自らを知る」に至ったナルシスに訪れるのは、「自らを知る」という言い回しが普通示唆するような自己認識とか自己同一性の発見というような、明快に一点に集和するような感情ではない。彼を襲うのはむしろ逆に、自己の他者性の発見と、この私でありかつ私でない何者かと、決して一体化できないことからくる絶望なのである。ナルシスは、あたかも外から他者を眺めるように自己を眺めることによって、「自らを知る」にいたるのだ。だとすれば、「自らを知る」ことは、自己を対象化し、他者化することであり、自己が自己自身から隔たることであるといってよい。つまり、「自らを知る」ことは、逆説的に、自己の中に取り返しのつかない亀裂を見いだすことなのだ。そしてその亀裂こそが絶望を生み、同時に、見ることと見られることの恍惚を生むのである。とすれば、ナルシスの物語は、自己意識の寓話として考えることができるであろう。自己意識とは、何よりもまず自己を一人の他者として捉えることから始まり、自己から隔たることであるからだ。そしてそれからナルシシズムを端的に定義して、自己意識そのものの本質的な構造に根ざした「自らを知る」ことから生じる恍惚と絶望ということができるであろう(柴田、2頁)。

 では次に、そのようなナルシシズムがどのような形で、どのようにしてアメリカで広まったのかということについて述べたいと思う。アメリカではナルシシズムは「つるみ」と言う形をとり、そうして広まったのには大きく分けて二つの段階がある。1920年から1930年の高等教育の普及と、経済発展、高度成長である。1930年にはハイ・スクールの就学年齢人口の60パーセント、大学就学年齢人口の20パーセントがそれぞれ実際の学業に就くようになり、それにともない、この時期に学校制度も大きく変わったのである。厳格な学年制が導入されたのだ。そしてこの学年制が「つるみ」のナルシシズム生むのに決定的な役割を果たすことになったのである。どういうことかというと、学年制が、若者の人間関係を同年代の仲間とのつき合いに限定してしまうものだったということなのだ。それまで若者は労働や教会、あるいはコミュニティー活動を通じて、両親や年長者をモデルに自己形成を行っていた。ところが、学年制が布かれた高等教育に多くの若者が関わるようになると、彼らは年齢を基礎とした仲間集団の中でアイデンティティーの確立を行うようになり、仲間を自己形成のモデルとするようになったのである。であるから、必然的に彼らは自己抑制、独立成就を理念とする、自律したアイデンティティーを持つ禁欲的な人間ではなく、他者、ほかの人間が何をしているか、何を着ているかばかりが気になる人間となってしまう。つまり、社会学者アーヴィング・ゴフマンの言葉を借りるなら、彼らにとっては「印象管理術」が問題となっていき、彼らの自己の発見は、他者によって形成されるものになるということなのだ。

 このような形でナルシシズムはアメリカ人の心の中に芽生えていき、さらにこの芽生えにアメリカ社会の経済発展、高度成長が拍車をかけたのである。アメリカの社会、経済が多量の消費財を供給できる体制へ移行したことにより、人々は先にも述べたピューリタンの倫理をなくし、神に対する信仰の証としての自己成就ではなく、我慢を否定する自己解放、自己実現を目指すようになった。つまり、物の所有を通じて、自己表現、自己顕示/self-displayを行い、自己の拠り所としていったのだ。そして表現を共有する者同士で仲間を作るようになり、先にも述べたように、周囲のまねをしながら、いつも他人に好かれているかどうか、いやな印象を与えていないかどうかに気を配る性格、更にそれが発展して自分の外見に異常に気を配るナルシシズムがアメリカ人の心の中に深く根づいていったのである。

 そのため、アメリカ人のこのようなナルシシズムは広く研究されるところとなり、『孤独な群衆』の著者デビッド・リースマンはこれを「他人指向型」の性格と名づけ、クリストファー・ラッシュは『ナルシシズムの文化』の中で、このような性質を持つ人間のことを、第二次世界大戦前の人間/economical manと区別して、psychological manと呼んでいる。

 では、エリスの作品に見られるブラット・パックのナルシシズムは、今まで述べてきたナルシシズムとはどのように違っているのだろうか。

 まず、『レス・ザン・ゼロ』においては、自らを知ろうとする態度は主人公のクレイに見られるものの、「自らを知る」ことの喜びはまったく忘れ去られ、自己の自己自身に対する根源的な他者性が一方的に強調されている。その他者性はここによく表れている。
"I don't know if any other person I've been with has been really there, either . . . but at least they tried."
I finger the menu; put my cigarette out.
"You never did. Other people made an effort and you just . . . It was just beyond you." She takes another sip of her wine. "You were never there. I felt sorry for you for a little while, but then I found it hard to. You're a beautiful boy,Clay, but that's about it." (Less than Zero, 204)
次に、『アメリカン・サイコ』におけるさらに発展してしまったナルシシズムはどうであろうか。ミー・ジェネレーションである『アメリカン・サイコ』のブラット・パック・パックたちも、他人のことが気になって仕方がなく、そのため仲間同士でつるみたがるのはもちろん同じである。それは彼らがお互いに友情など持っていないのに、一緒にいて楽しいわけでもないのに、常に行動を共にしていることからも明らかである。しかし、ここで忘れてはならない点、今までのナルシシズムと違っている点は、彼らが自らの鏡像に心を奪われているあまり、つまり過剰とも言える自己意識におかされているあまり、他者に対してほとんど現実性を与えることができず、彼らが気にする他人というのが心を持った他人ではなく、外見だけの空洞の主体だと言うことなのだ。しかもそれでいて皮肉なことに、彼らは自己自身の中に絶対の現実性を見出していないのである。例えばそのようなことは、彼らの間で交わされる、相手の話を聞かないことから起こるちぐはぐな、的のはずれた会話からも、そして先にも少し言及したベイトマンが語る服等のブランド名の羅列からも明らかではないだろうか。
I was writing about a society in which the surface becomes the only thing. Everything was surface --- food, clothes --- that is what defined people. So I wrote a book that is all surface action; no narrative, no characters to latch on to, frat, endlessly repetitive. ("Bret Easton Ellis Answers Critics of American Psycho", C18)
つまり、ブランドの羅列は彼が人、もの、すべてを表層的に捉えることしかできないということを表しているのだ。逆にいえば、ちぐはぐな的のはずれた会話とブランドの羅列でしか彼は物を表現できず、それらが彼の世界を表しているのだといえるかもしれない。そしてこのように発展しすぎたナルシシズムの行きつくところ、それがアメリカン・サイコとしてのベイトマンに代表されるアメリカの狂気なのではないだろうか。なぜなら、彼を例にして述べれば、彼にとっての世界はブランドの複合体としてのみ存在し、彼の狂気、彼の行う殺人は、そのブランドという規範からはずれるものは徹底的に排除するというナルシシズムが生んだもの、そしてこれは『レス・ザン・ゼロ』のクレイにもいえることだが、ナルシシズムを追求しても得られない、絶望的な自己の探究の手段であるといえるからである。

 このように考えると、確かに資本主義はアメリカの狂気を生むのに影響を与えたのであるが、ここで肝心なのは、いわゆる資本主義というのがむしろ、アメリカ的ナルシシズムをエスカレートさせる一条件であったということ、そしてそのような資本主義的ナルシシズムが機能して初めてエリスの描くアメリカン・サイコ、すなわちアメリカの狂気がもたらされたということなのである。

脚注
注1 風丸良彦『狂暴化する喜劇』(33頁)より。 



CONTENTS
[序文]/[第一章]/[第二章]/[第三章]/[結語]
[参考文献]