1992/02/17

短編 "1955" とアリス・ウォーカーにおける白人観:第三章


第三章

短編"Nineteen Fifty-Five"=「白人社会への警告」
 多くの文献を読むとウォーカーがかなり「歌」に思い入れをしていることに気付く。また、様々な彼女の作品にも「歌」が何らかの形で表現されている。そこで、"Nineteen Fifty-Five"以外の作品をまず見ながら、彼女にとっての「歌」を分析したい。
 まず、最初に見たいのが序論で触れた、The Color Purpleである。この作品は、「美貌もなく教育もなく親もなく、むろん財産もない、ないない尽くしの無力な主人公の豊かな人間性のへの到達」(吉田,57)が描かれている。吉田氏によるとこの黒人女主人公セリ-の語り方には一種独特のリズムがあり、そのリズムはブルースの要素を含んでいるという。「経験を通して使いこまれた言語は、それ自体生活の詩」(吉田,64)なのだ。ここでその例として少し物語から引用したい。
What that song? I ast. Sound low down dirty to me. Like what the preacher tell you its sin to hear. Not to mention sing. She hum a little more. Something come to me, she say. Something I made up. Something you help scratch out my head. CP,p.48)
この鋭い指摘はいかに黒人にとって音楽が身近なものであるかを示してくれる。ウォーカーはこの他にも別の方法で「歌」をこの作品に混ぜている。上の引用に書かれている「歌」、そして「歌うこと」はCelie以外の女性、ShugとMary Agnesにとって自己表現の手段であった。吉田氏によると、Mary Agnesが白人による凌辱と哀しみを語りそして歌いだす経緯は、ブルースそのもののありようを示している。とうのは「黒人霊歌と同様にブルースは苦しみや孤独のきわみから生まれるが、神にむかって唱われる霊歌とは異なり、人間のやさしさや官能に向かって唱われるブルースの心は、人間の同情と理解の中で"share"される。」(64)そして、「ブルースのリズムに繰り返し揺られて不幸や不運を語る言葉は苦しみを癒し、エクスタシーを誘う呪術的な力を発揮する。」(64)からなのだ。序論で述べた黒人の「文化遺産」を思い出してほしい。黒人の文化遺産であるブルースはアフリカの原始宗教ブードゥーの要素を含んでいることはよく指摘される事実(吉田)なのだが、そのことはウォーカーの考える過去から受け継ぐものにあてはまる。また、ブルースの女王然としたShugの歌いかたはBessie Smithを連想させる。そして「Shugのうたは、彼女の生きてきた人生の全てを含んで聴く者を魅了する。」(64)と、吉田氏は言っているが、この「人生を含む」とは"Nineteen Fifty-Five"のセリフを思いださせないか。そのセリフは、次のようだ。
I never really believed that way back when I wrote that song, I said. It was all bluffing then. The trick is to live long enough to put your young bluffs to use. Now if I was to sing that song today I'd tear it up. 'cause I done lived long enough to know it's true. Them words could hold me up. (GW,p.14)
つまり、長生きすることで「歌の意味」が判ると言っているが、その事は「人生を含む」に繋がらないか。ここに、何かウォーカーの「歌」に込められた思いが読み取れるのではないか。
The Color Purpleの他にMeridianにも、歌が登場している。真のアイデンティティーを求め、自己を修練するMeridianは、そのアイデンティティーを求める努力をするうちに、前進する為には逆戻りをしなければならないと気付く。そして、彼女のもどったところは、南部だった。
小説『メリディアン』の舞台の多くがジョージア州の海岸地方に設定されているのは意義深い。そこは、アフリカの伝統---とくに口誦伝統、宗教、音楽の伝統---がもっとも顕著に生き残っている地方だからである。ジーン・テゥーマーにならって、アリス・ウォーカーはその人種差別と弾圧の歴史にもかかわらず、アメリカ南部を黒人の再生の場とみなしている。その理由は、南部こそ新世界アメリカにおける黒人の体験の揺籃(ようらん)であり、また南部こそアメリカにおける黒人の体験を形成しつづけてきたからである。(McDowell,訳p.255)
つまり、Meridianは南部で黒人の「過去の力」(McDowell)を再び見つけ出し、それを受け入れることによって力強さを引き出すのだ。そして、南部の黒人文化でもっとも顕著なのは、黒人の共生を励ました音楽と宗教であり、Meridianが年長の黒人に混じって改革運動に参加しながら、知りたがっていたことは、「歌」だった。(McDowell)

She was constantly wanting to know about the songs: "Where did such
and such a one come from? " Or "How many years do you think
black people have been singing this? (Meridian,p.28)

また、社会学者、E・フランクリン・フレイジャーによると、「黒人によってつくられたもっとも重要な文化施設である。」といわれている「黒人教会」をMeridianは再発見する。この教会は苦しい現在から切り離し、死後に与えられる報酬に黒人の関心を集めた白人のキリスト教の伝統のとは違う、奴隷であった祖先から伝わる教会であった。そして、この変貌した教会は"communal spirit, togetherness, righteous convergence"(Meridian,p.205)つまり、「共同体の精神、団結、正義の集中」(訳p.284)という意味をもっている。これはその物語においてその教会の中で一人の男がお祈りをするようにウォーカーによって設定されたことで判る。というのは、その男はお祈りをするように指定された時にしたその祈りはとても短いもので、しかも、かれは跪くこともしないからだ。彼はその理由を、「共同社会としてやる仕事がたくさんあるから、これ以上祈ることはしない(訳,p.276)と説明する。つまり、黒人達の関心は未来の幸福(死後に報われること)でなく、現代の苦悩に焦点をあてられているのだ。この教会もまたウォーカーの黒人文化の象徴であるが、さらに重要な点は教会の変貌の中でも最も強調されている「ステンド・グラスの窓にかかれた絵」なのである。
Instead of the traditional pale Christ with stray lamb there was a tall, broad-shouldered black man. He was wearing a brilliant blue suit through which the light swam as if in a lake, and a bright red tie that looked as if someone were pouring cherries down his chest. His face was thrown back, contorted in song, and sweat, like
glowing diamonds, fell from his head. In one hand he held a guitar that was attached to a golden strap that ran over his shoulder. It was maroon, much narrower at one end than at the other, with amber buttons, like butterscotch kisses, on the narrow end. The other arm was raised above his head and it held a long shiny object the end of which was dripping with blood…."What's that?"…"Oh, that. One of our young artists did that. It's called "B.B.,With Sword." (emphasis mine; Meridian ,pp.202-203)
McDowellによるとこの伝統的な迷える子羊とともにある青白きキリスト像ではない、背の高い広肩の黒人の片手にギターをかかえ、もう一方の手には血のしたたる剣をもっている「剣を手にしたB・B」の絵は深い意味が隠されている。というのは、この「B・B」という頭文字は明らかにブルースの名歌手、「B・Bキング」から取ったものである。このようにウォーカーは「黒人音楽家を、黒人文化の不朽の伝統の象徴として、また一致団結と共同体の精神を具現する典型として用いてる。」(McDowell,訳p.259)といえるのだ。そして、ついにMeridianが、この絵を通じて喚起されたものは、自分のアイデンティティが、同じ民族である黒人にしっかりと結びついていること、そして「彼女の生命は彼女自身を越えて周囲の人びとのものである」(訳,p.284)ことを発見したことである。この黒人の文化遺産との結びつきは「剣を手にしたB・B」だけでなく、別の要素でも示されている。それは、"Sojourner"、訳すと「仮の宿」によってである。この物語の中程で登場するこの"Sojourner"は最後まで決して枯れることはなかったとある。実は、この"Sojourner"は一本の木のことであり、木は黒人の口承伝説と音楽の伝統の象徴なのである。二つの作品、"The Color Purple" と "Meridian" を見ると、明らかにウォーカーの「歌」に対する思いが見えてくる。ウォーカーはその「歌」を通じて、我々に過去の黒人と現代の黒人を結び付ける「文化遺産」を表現したのである。このことは私の序論で扱った"whole"の概念にぴったりと一致してくる。
ここで再び、短編"Nineteen Fifty-Five"に戻りたい。これ程、黒人の歌に思い入れを示しているウォーカーにとってこの短編の中でGracie Mae Stillという黒人の歌手に黒人の歌を歌わせることは一体、なにか意味するのか。私はこのヒントを求めていくつかの文献や、書評を読んでいくことで意外なことを見つけたのだ。というのはTraynorは確かに誰が見てもElvis Presleyだとすぐに判るのだが、じつは、Gracie Mae Stillもまた誰かに似せて書かれていたのだ。その「誰か」とは愛称 "Big Mama Thornton" として知られていたウィリー・メイ・ソーントンのことだったのである。確かに文中で"Little Mama"や"mama"の言葉が登場していたが、この言葉は"Big Mama Thornton"に似せて書いたものと思える。Book reviewerであるKatha PollittやElizabeth Connerによって、この名前はあげられていたのだが、Greil Marcus著書のMystery Trainで実際に彼女について読むことで初めてその事実を納得した。Marcusによると彼女は1926年に生まれたアメリカの女性ブルース歌手で51年からピーコックでレコーディング、53年にリバー&ストウラー作でジョニ-・オーティスが伴奏を務めた"Hound dog"がR&Bチャートの第一位となった人だったのだ。そのガッツのあるヴォーカルはジャニス・ジョプリンなどにも影響を与えたのだと言う。このアンダーラインした部分、"Hound Dog"を彼女が歌ったという事実が非常に重要なのだ。なぜなら、彼女は"Hound dog"の最初の盤を吹き込んだが、その音楽を提供したのにそのことは白人の世界では注目されず、しかも一銭ももらっていなかったのである。その為この話がでるたびに黒人たちはElvisは彼らなしでは問題にならなかったはずだ、彼らのおかげで有名になったのだという含みをもたせるのだとMarcusは述べている。となると、始めに示したGracie Mae Still=幸福(+)、Traynor=不幸(-)の構図、ウォーカーによって表現され歌を歌える者、歌えない者の哀しみの解釈などはどうなるのか。ここで短編の中に書かれていた内容を私は思い出した。それは、Traynor (=Presley)の異常な購買癖とその贈り物のことである。Traynorは、Gracie Maeに素晴らしい歌を売ってくれたこと、そしてその歌を書いたこと、そしてその歌を理解できることに対して敬意を示し、さんざん贈り物をする。しかし、Gracie Maeは、キャデラックをもらってはいるものの十分贈り物をもらったのだから(幸福だから)もういらないと、繰り返し言うのに対し、Traynorは回を追うごとに大きくなる贈り物を贈る。この事とソーントンの事実を重ね合わせると私の頭に浮かぶのは、前にも引用したGracie Maeの次のセリフである。
Really, we have more than enough of everything. The Lord is good to us and we don't know Want. (emphasis mine; GW,p.10) 
これらのことから、次のことが解釈できないか。この贈り物(または金銭的なこと)はTraynorの贈り物でしか幸福になれないと信じる不幸を示す。そして、(1)Gracie Maeは幸福である。(2)Traynorは不幸である。の解釈を考える上で重要な点は二人が別の人種に属していることである。さらに大事なことは幸福とされているGracie Maeは黒人であり、不幸とされているTraynorは白人であることなのだ。となると、今まで私が述べてきたGracie Maeに関するいくつかの幸福の要素は黒人全体に通じることであり、Traynorの不幸の要素は白人全体に通じることにはならないか。つまり、大袈裟に言えばGracie Maeに全ての黒人が集約され、Traynorに全ての白人が集約されていると考えられるのではないか。となると、上で引用した文のアンダーラインの"we(us)"、「私達」は「HoraceとGracie Mae」のことでなく、「我々黒人たち」という意味を込められた言葉だと解釈できるのではないか。そして贈り物のやりとりはTraynorの示すように白人は物質的なものでしか幸福になることはできない又、そうするしか幸福になれないと思っているのに、黒人は精神的なものを幸福の要素とすると解釈できるし、「歌」については、ウォーカーの他の作品から見たような過去の先祖達から引き継がれてきた黒人の血が流れる共同体の遺産の意味が勿論こめられているのでその苦労を知らない白人にはその「歌」を当然、歌えないというわけではないか。上でウォーカーの「歌」に込められた思いを説明するために私が引用した「長生きすることが素晴らしい歌を歌う(つくる)秘訣」のp.14のGracie Maeのセリフを再びここで引用したい。
The trick is to live long enough to put your young bluffs to use. Now if I was to sing that song today I'd tear it up. 'Cause I done lived long enough to know it's true. Them words could hold me up. (GW,p.14)
これに対してのTraynorの応えは、"I ain't lived that long"(GW,p.14), (emphasis mine)だった。これは、一見意味のないセリフと思わせるが実は上で示した、「白人対黒人」の構図に一致する言葉なのである。なぜなら、この"I"は白人を表し、このことは白人(Traynor or Presley)はまだ若く、長く生きていないといえ、それはアメリカ社会全体にも通じていえることだからである。ウォーカー自身Bonettieとのインタビューで次のように言っている。
Whites are going to have to go through a whole lot to be able to sing, but that's what singing is, I think --- having to go through a lot, understand a lot, and suffer a lot. (Bonettie, kay)
となると、この短編"Nineteen Fifty-Five"には黒人の音楽や歌に対する白人の搾取への憎しみを表現することで、黒人によるアメリカの白人中心社会の人達への不満が表されているといえてくる。たしかに、この短編小説の終わりをみるとウォーカーのアメリカ社会に対する不満が見て取れる。
But I didn't want to see'em. They was crying and crying and didn't even know what they was crying for. One day this is going to be a pitiful country. I thought. (emphasis mine; GW,p.20)
「いつか、この国はあわれな国になる、とあたしは思った。」(GW訳,p.35)は確かにウォーカーのアメリカ社会に対する不満がこめられている。私は、このことは作品中の奇妙な数字の置き方でも表現されていると思う。それは、数字の"5"の頻繁に表されていることである。たとえば、6頁にでてくる"Turn on channel 5"、Gracie Maeにもらった"a check for five hundred dollars"(GW,p.4)、"…I liked to exercise by working in a garden didn't mean I wanted five hundred acres!"(GW,p.13)、"Hell, there were five floors."(GW,p13)、"Five cars and twelve bodyguards"(GW,p.14),"five stoves"(GW,p.16)、"just like she sung it forty-five years ago."(GW,p.18)、"One night I dreamed Traynor had split up with his fifteenth wife."(GW,p.19)などである。タイトルの"Nineteen Fifty-five"もその例にあたる。Elvisのデビューは1954年であって1955年でないし、"Hound dog"のレコーディングも1956年の7月だった。なにも重要性のない1955年が一体なぜタイトルとして使われているのだろう。この"5"という数字があまりにも沢山文中に書かれている。「1955年」に何か意味があるのか、またこの"5"に何か意味があるのだろうか。私は、このことを社会的な観点から見てみることにした。そこでぶちあたったのが、1955年のバスボイコット事件である。1955年、12月1日、Alabama のMontgomeryで"Jim Crow Laws"と呼ばれる黒人差別待遇(政策)がまだはびこる中、バスの白人席に座った黒人女性(Rosa Parks)が逮捕された。これに抗議して黒人市民がバス会社をボイコットし、若い黒人牧師Martin Luther Kingを先頭にデモ行進を行った。この事件を契機に、Kingは黒人差別撤廃・公民権獲得の為の非暴力主義運動(nonviolent campaign)の指導者として活躍し、64年にはノーベル平和賞を受賞した。63年、8月28日リンカーンの奴隷解放宣言100周年を記念した白人4、5万人を含む25万人以上の大行進がWashington, D. C.で行われたが、この時のリーダーの一人として演説したKingの、"I have a dream"という言葉は人種差別撤廃止運動に残る名言として多くの人に深い感銘を与えている。そしてこの行進にウォーカーが参加していたことはよく知られている。ウォーカー自身次のようにKingについていっている。
(1) When he(King) was assassinated in 1968 it was as if the last light in my world had gone out. (Garden,p.147)
(2) While waiting for the tape to rewind I tell her that her husband(King) often crops up in my work and is very often in my thought. (emphasis mine; Garden,p.151)
(3) It was Martin, more than anyone, who exposed the hidden beauty beauty of black people in the South, and caused us to look again at the land our fathers and mothers knew. (Garden,p.157)
以上の引用からウォーカーのMartin Luther Kingに対する尊敬の念を確実に見て取れるだろう。また、この引用(2)にある様に確かにウォーカーの作品、この"Nineteen Fifty-Five"にはkingの名前が一度出てくる。それは1968年に関するElvisのカムバックに触れているところにでてくる。
Because just about everybody was dead when I saw him again. Malcom X, King, the president and his brother, and even J.T…. (emphasis mine; GW,p.11)
このKingについて書かれているウォーカーに気付いてから私は"Nineteen Fifty-Five"に書かれている"Emperor of Rock and Roll"(p.9)(emphasis mine)の"Emperor"はわざと偉大な"king"であるMartin Luther Kingを本来は"King"と呼ばれる Elvisと区別するために書かれたのではないかと思えてしかたがない。だが、ウォーカーがKingを尊敬していたことは上の引用からもうかがえる明白な事実であり、そのことからも1955年のThe Bus Boycottを知っていたであろうし、そのことをこの短編を書くにあたって意識していたであろうことはほぼ間違いない。
 しかし、このKingやThe Bus Boycottだけが1955年をきっかけに私が知ったことではない。それは、50年代についてである。以下のこともまた"Nineteen Fifty-Five"に示された白人中心社会に対する黒人たちの不満を表すと思う。
 このThe Bus BoycottのあったAlabamaのMontgomeryからそう遠くない隣の州である、TennesseeのMemphisではElvis Presleyが徐々に有名になりだしエンターテイメントの世界に登場し始めていた。そしてその後、1年とたたないうちに全米に知られることになる。このElvisが有名になった50年代のアメリカは旧ソ連との戦後世界の二極構造化が進み、「冷たい戦争(冷戦)」(注1)が始まった為に国際共産主義の浸透を恐れ、政府職員の忠誠テスト(1947)やハリウッドの赤狩り(1947)、旧ソ連の原爆保有(1949)、中国の共産主義化(1949)、朝鮮戦争の勃発(1950.6)などによって、国内に反共ヒステリーがおこる。マッカーシーによる「魔女狩り」の嵐(1950)が吹き荒れ、ローゼンバーグ事件(1951)がおこり、また共産党の非合法化(1954.8)が行われる。国内には保守化のムードが漂い、国民は「物いわぬ世代」となって物質的繁栄にのみ満足し、順応主義的風潮がはびこる。(この点はウォーカーが描いたTraynorの物質性によってこそ幸福になれる、という考え方に一致するのではないか。)共産党のアイゼンハワーの時代(1953-61)になるとアメリカの保守化の傾向はますます深まる。
 また一方で、この時代は豊かさの象徴として車は勿論、家電製品に始まってジャズ、映画に至るまで、すべてのアメリカ的なものが世界中の羨望の的となった時代だった。1955年度の全世界のGNP比はアメリカ36.3%、ヨーロッパ諸国17.5%、日本2.2%だった。ブロードウェイではミュージカルが全盛期で『南太平洋』(1949)、『王様と私』(1951)、『マイ・フェア・レイディ』(1956)、『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)などが上映され、映画ではマリリン・モンローやジェイムス・ディーンが活躍する。ロックではスーパースターのPresleyがティーンエージャー達を熱狂させ、ジャズはバップからクール・ジャズへと移り、第一回ニューポート・ジャズ・フェスティバルが開かれる(1954)。芸術関係ではジャクスン・ポラック、ブィレム・デクーニングなどが活躍し、また、一過性、偶発性、自然発生をもった芸術が流行した。LPレコードの発売(1948)、トランキライザーの発明とその大流行(1950)、初のシネマスコープ製作(1953)、営業用カラーテレビ放送開始(1951)、『プレイボーイ』誌創刊(1953)、フラフープの大流行(1958)などもこの時期のことである。「50年代」のミュージック、ハリウッド映画、ファッション、TVショーはその後80年代後半になってリバイバルされた。90年代の今日でも、50年代は依然としてアメリカ人の心に「古きよき時代」として強いノスタルジアを与えつつ戻ってきている。
 また、第二次大戦後、アメリカのベビー・ブームは1957年にピークに達し、それまでに430万人以上のベビーが生まれた。そして1946年から1964年にかけてその数が平均毎年400万人以上になり、総数7600万人以上にもなった。これはアメリカ総人口の三分の一に当たる。これがいわゆるロック世代となるわけである。そして彼らは戦後の好景気で、両親が豊かになるとヤングティーンと呼ばれる時期、つまり就職せずに大学に行くことで思春期が延ばされた。この世代ほど社会的に、経済的に自由な身分と自己表現の機会、豊かな消費力の持った大集団は今だかつて人類が経験したことのないもので、彼らは特異なライフ・スタイルと文化を所有するようになった。柳生夫妻によると若者たちは贅沢に金を使った。「ライフ」誌(1959)の「US・ティーン・エイジの消費」という記事によれば、彼らが年間100億ドルを使い、ガールズたちはリップスティックだけでも2000万ドル消費したという。そして他のポピュラーな物は、贅沢にも車、犬、吹出物用のクリーム、TVセット、レコードプレーヤーであったと記されている。このような社会の中で共産国からの安全と教会の固定化は、若者たちに両親を同じ中産階級の価値観とライフ・スタイルに順応するよう期待した。若者たちは少なくとも外面的には順応するよう努めた。50年代の学生は、例えば60年代に比べて「静かな世代」と呼ばれ、社会問題への関心をノンポリ的態度そして体制社会の価値観を容認していた。彼らと同様に教授もまた同じ価値観を固守していた。しかし実際は当時の学生たちの「静かな生活スタイルとイデオロギー」の奥には、彼らの本音と不安が隠されていたのだ。映画プロデューサーのジョエル・シーマチャ-は当時を回想してつぎのように語っている。「50年代には本当のことを話さなかった。人々は嘘をついていた。社会は嘘つきの集団だった。...彼らは同性愛でないふりをしていた。」50年代には大抵のティーンは白人の中産階級のティーンのモデルのように振るまっていた。このような社会で現れたのが先に記したジェイムス・ディーンやサリンジャーの小説The Catcher in the Rye(1951)、映画でグレン・フォード主演の『暴力教室』(1955)そしてエルビス・プレスリーである。このJ.D Salingerの小説の主人公、Holdenという高校生の、大人の曖昧な価値観への反抗遍歴の精神はこの頃の50年代の社会の若者の意識に一致し、これはディーンが映画の中で表現した両親によって退けられ、傷つけられ、性格を歪めてしまうティーンの意識にも一致する。ディーンも腐敗した大人の世界への若者たちの反抗のフォーカスであった。そして、彼によって表現されたものは十代の正義感、潔癖性からくる大人社会への告発だったのだ。ジェイムス・ディーンの『理由なき反抗』と同様、若者達を夢中にしたのが映画、『暴力教室』である。この映画の主題歌、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(注2)はこの映画と共に大ヒットとなった。ついには、ビルボード・トップ・ハンドレッド・チャートの1位となり8週間もトップの座を占めた。この歌は柳生夫妻によると若々しい反抗のシネマ的な表現であるとともに、なにも言わず黙っていても体制、社会慣習を根源的に無視し、自分たちの自由を宣言している。ロックン・ロールは、若者の反体制の情熱を燃え上がらせるニュー・ミュージックとなった。このロックン・ロールで若者たちの欲求不満は解消されたが、大人たちはロックン・ロールと非行少年犯罪との関連性の図式を作りだし、反社会的と非難した。そしてロックン・ロールは共産主義、人種差別肯定の立場から危険視されていた。多くの南部人は当時、ロックン・ロールが全米黒人向上協会とクレムリンによる若者を堕落させるための陰謀と主張していた。しかし、若者たちは黒人が白人社会から追放されていることに同情し、ブラック・ミュージックに親近感、アイデンティティーを感じ始めた。彼らはロックを彼らの生活の基準を判断する方法として用いたのだ。このような50年代の古いアメリカとその慣習に抵抗する動きの中で「エルヴィスはアメリカの若者に50年代の大人が許さなかった自由、ストレートな感情表現、個人主義、個性的ファッション、勇気、アメリカン・ドリーム(成功の夢)を自ら示した。そして大衆の願望をシンボライズし、彼らの行動へとかりたてた。」(柳生,p.117)
 こうして、アメリカは1960年を待たずに体制、反体制の二つの文化に分裂し始めたのである。エルビス・プレスリーは50年代の若者の両親のブルジョワ的価値観、ホワイトの中産階級の規範が自分たちの日常経験と一致しないことに目覚めてしまった若者の願望、欲求を反映する人物となり50年代の反抗と保守的な精神を、同時に音楽によって表現した。「50年代の硬直した文化と音楽にあきてきたティーン・エイジャーは、エルヴィスを若者の自由と解放を実現してくれる者として熱烈に支持した」(柳生,p.233)といえ、エルヴィスは"King of Rock and Roll"となったのだ。しかし、こういった現象の背後で戦後のアメリカ社会はその構造を大きく変化させていた。冷戦の1950年代が「閉ざされた」時代と呼ばれたのに対して、1960年代は「開かれた時代」と呼ばれている。体制社会、反体制社会の流れを分裂させていくアメリカは一見してそれだけが起きていたかのように見えるが、実際はアメリカ社会にはまだまだ多くの問題が存在し、出来事がおきていたのだ。というのは、60年代に入って明らかになるのだが、ケネディーの後を受けたジョンソン大統領(1963.11-68)が「偉大な社会」の建設を標榜し、「貧困との戦い」を宣言する。しかし、老人問題、教育問題、住宅問題、都心および郊外再開発、犯罪防止対策、黒人問題などといった彼の社会改革プログラムは順応の1950年代に積もり、くすぶっていた諸々のひずみを一気に表面化させることにもなる。その後公民権運動が激化し、全米各地に黒人暴動が発生(1966年には全米で43回、1967年9月までには164回)し、キング牧師が「私には夢がある...」と語りかけた「ワシントン大行進」(Freedom March,1963)や選挙権登録差別撤廃要求デモ(1965)などが行われる。また、公害反対闘争、女性解放運動、ラルフ・ネイダーなどの消費者運動、学生運動(カリフォルニア大バークレー分校のフリー・スピーチ運動、1964)、大学紛争(コロンビア大、1968.4)などさまざまな抗議運動がおこる。ジョンソンが北爆にふみきり、ヴェトナム戦争介入が拡大すると、大規模な反戦運動がこれに加わり、1960年代は騒然たる様相を呈することになる。そしてケネディ(1961.1-63.11)に続いてマルコムX(1965)、キング牧師(1968.4)、R.ケネディ(1968.6)の暗殺をみることなる。(『アメリカ文学史』参照)
ここまで知るならば、私は感じたことは小説"Nineteen Fifty-Five"でウォーカーが意識していたと思われる白人社会に対しての不満を上でアンダーラインでした所が代弁しているのではないのか。つまり、体制、反体制社会などとはいっても50年代の白人社会、またはアメリカ社会は物質的には恵まれ、その影には黒人問題等の諸問題がまだまだ残されていて、それらは60年代に入るまで放っておいた為であることがウォーカーの表した黒人達の不満の理由だといえると私は思うのだ。ゆえに、作品中でさんざん散りばめられた"5"の数字は「50年代」を表し、今まで述べた2つの社会問題、1955年のThe Bus Boycottそして50年代に放っておかれたminorityの問題を疎かにしたアメリカ社会に対するウォーカーによる告発に思えて仕方がない。
 以上のことからウォーカーは幸福なGracie Mae Still、そして不幸なTraynorを描きだし、Traynorが黒人の血が流れる「文化遺産」である歌を歌うことが出来ない事、不幸なことを表現することによっていかにまだ白人社会が黒人達ほどの苦労をしていないかを示した。このことは一見して単なる白人による黒人の音楽、文化への搾取を告発しただけのようにみえるが、そこに隠されていたものは50年代のアメリカへの不満であり、そして物質的な幸福を求め順応的な人々の姿勢、保守的な社会に反発する若者のきっかけとなったElvisを"King"と崇めた50年代の社会で本当の"King"は疎かにされていた黒人問題に必死に取り組んだMartin Luther Kingであることを示したのではないか。だが、この結論に至るにはまだ少々引っ掛かる点がある。それはウォーカーがGracie Mae StillにTraynorに対して母親のように優しく振る舞わせたことである。そこには「白人対黒人」の構図が見られないからである。では、私がここまで導き出した50年代の白人社会のアメリカの問題点は正しくないことになってしまうのか。次に「白人対黒人」の構図における矛盾であるTraynorに対するGracie Maeの母親的優しい態度を解釈してみたい。


(注1) 『アメリカ文学史-植民地文学からポストモダンまで』(1989)によると、この言葉は元国連原子力委アメリカ代表バーナード・バルークが最初に言ったといわれている。
(注2) 1954年4月にカントリー・シンガーのビル・ヘイリーによってレコーディングされている。

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