序論
アメリカの小説界では第二次大戦を一つの契機として、ユダヤ人、インディアン、黒人等のいわゆるマイノリティの作品が華々しく脚光を浴びるようになった。この頃のRichard Wrightの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)、Jean Toomerの『砂糖きび』(Cane,1923)Langston Hughesの『笑いなきにあらず』(Not Without Laughter, 1930)は、様々な黒人を描いたが、彼らの造りだした黒人女性は現実から掛け離れた、男性の影に生きる二次的な存在でしかなかった。結局、このようなアメリカ社会においてステレオタイプを克服し、黒人の女性としての自らのアイデンティティを持って生きるヒロインを救い出した主力は、黒人として、女性として、常に二流の扱いに甘んじなければならなかった、黒人女性自身である。しかし、この出来事は一朝一夕で成るものではなかったのだ。幾人もの女性作家たちによって継承され、補充され強化され、1960年代の公民権運動、その後の女性解放運動などをへて、現代に至り、ようやく目的地についたといえるところまできた。このような黒人女性作家達の中にアリス・ウォーカーは、ポスト・モダニズム、アフロ・アメリカン、エスニック文学の作家として存在する。
ウォーカーの作品を理解するうえで重要なことは、ウォーカーには、人間としての究極の理想像があることだ。この究極の理想像を一言で言うならならば、"whole"であると私は思う。「統一体、完全体」と訳せばいいのだろうか。ウォーカー自身、何度もこの言葉をエッセイや、インタビューなどで使っている。初めてこの言葉に出会ったのは、ウォーカーのエッセイ、In Search of Our Mother's Gardensの中である。河内 和子氏によると、ウォーカーは黒人女性のフェミニストをウーマニストと名づけ、あるインタビューでフェミニストといえば、人々の頭に浮かぶのは白人の像であり黒人女性だけに「黒人のフェミニスト」と修飾語をつけるのはあまり愉快でないと語っている。(Brewer,p.12)この"Womanist"の定義をIn Search of Our Mother's Gardensの冒頭で次のように述べている。
Womanist 1. …A black feminist or feminist of color…. 2. …A woman who loves other women, sexually and/or nonsexually. Appreciates and prefers women's culture, women's emotional flexibility, and women's strength….Committed to survival and
wholeness of entire people, male and female…. 3.Loves music. Loves dance….Loves the Spirit…. Loves herself…. (Gardens, ?)
ここで注意をしてほしいのは、このアンダーラインをした"wholeness"である(注1) 。ウォーカーは、様々な文章でこの言葉を使っている。私が上記で「完全体、統一体」と勝手に訳してみたが、もう少していねいにその意味を示すにはウォーカーの作品を例に挙げるべきであろう。例えば、The Color Purpleにおける、黒人女主人公セリ-は、逆境の中から立ち上がり受け身の女性から自立した女性へと変貌する。このとき作者の暗示的試みは変化した主人公の自立手段の一つとして裁縫を示したことだ。セリ-は、「大衆用ズボン"無限"会社」を設立する。この創造手段である裁縫に関していえば、セリ-を一人の人間として扱わなかったMr. もまた物語最後でセリ-と和解をしたときに自ら針を持ち、小さな頃母親のそばで他の兄弟から笑われるまでは、好きでよく縫い物をしていたことを認める。一見してなんということのない裁縫に関する文章に思われるかもしれないが、このセリ-の男性的な自立と共にMr. の女性的な面をもつ人間へと変化した点の強調が重要なのだ。
人間の創造力をあらわすための重要なイメージとして、縫い物に焦点を合わせているウォーカーは女性の創造力を強調している。しかしながら彼女は縫いものは人間の芸術であるので、男性が不自然な男女の役割意識をもち出してみずからの創造力を規制しようと望まないかぎりは、女性だけのものではないということも主張している。...実際、『カラーパープル』においては、だいたい<女の仕事>、<男の仕事>という概念が崩れている。ハーポやミスター**は楽しんで料理をしたり、針仕事をしたり、家を掃除したりしている。(Tavormina、訳p.263)
同様なことがウォーカーの他の作品Meridianにも見られる。これは主人公メリディアンが、自らのアイデンティティーや生き方を見出し、自己の完成を目指していく物語だ。「メリディアンの戦いぶりはじつにすさまじい。彼女がとくに女性に服従を教えるような社会、また個人の自己表現をとがめだてするような社会に生きているからである。メリディアンはそのような社会に生きているにもかかわらず、ついには完全な精神をそなえ、個人として自立する人間の原型として<自己>を開花させるにいたる。」(McDowell、訳p.240)この完全な精神をそなえた自立する人間の原型としての<自己>こそ先に示した"whole"の概念に一致するのだ。作品中でのメリディアンをみると、さらに興味深いことに、彼女の身体的特徴が男性を思わせる。例えば、髪の毛がほとんど抜け落ちてしまい古い鉄道員の帽子をかぶり、オーバーオールをきて男性風の身なりをするようになる。そのうえに男性のように振る舞うのだ。「メリディアンが揺るぎない指導者的特性――そういった特性は通常は男性と結びつけられるものであるが――を発揮するとき、女性としての<立場>から決然として飛翔する。...メリディアンがたてた手柄といえば、アメリカの性別役割分担的考え方に鋭い批判を下したことである。」(McDowell、訳p.244)興味深い事に、<自己>を勝ち得たメリディアンもセリーも自己の成長のために、一人でいる道を選ぶ。メリディアンはトルーマンの、セリーはアルバート(Mr.__)の求愛をことわる。これは男女両性をそなえていることの証明ではないか。そしてWinchellの次の引用が私の考えを代弁してくれる。
…They also assume an androgynous blend of the best of both male and female characteristics. Walker's male characters achieve psychological health and wholeness only when they are able to acknowledge women's pain and their role in it. Her women achieve psychological wholeness when they are able to fight oppression, whether its source is white racism, their own black men, or their own selfrighteous anger. Walker's overwhelming concern is with the survival, whole, of a people…. (emphases mine; Winchell,p.x)
確かに、このように男女両性の特徴をそなえた自由自在な<自己>もウォーカーの考える"whole"ではあるが、このほかにもう一つ、重要な概念を説明する必要がある。それは「黒人の文化遺産」との結びつきを持つ人間、その価値を知る人間も"whole"の定義に欠かせないものだと私は思うことだ。ウォーカー自身、次のようにいっている。
...さらに、もっと重要なことは、われわれの祖先をわれわれ自身、あるいは、他の人びとのなかに生き続けさせることができるということである。もし、祖先の使った音を絶やしてしまえば、過去であり、歴史であり、人間であるわれわれ自身の非常に大きな部分がすべて失われてしまうことになる。そうなれば、われわれは、歴史に、精神に、薄っぺらな存在となり、単に、かつての存在の影となりはててしまう。 ("Finding Celie's Voice"in Ms.,『私たちの~』p.84)
先に述べた『カラーパープル』でも、キルトや、裁縫、シャグ(セリーの自立を助けた友人であり、愛人)のブルース、など創造による黒人の文化遺産といえる芸術が頻繁に表現されている。特にこのキルトの重要性は多くのウォーカー研究家に指摘され、アフリカの織物技術によっておおいに発達させられたものであり、アフリカの過去の人々と現代の黒人との結びつきを示すものとされている。ウォーカー自身In Search of Our Mother's Gardensの中でスミソニアン・インスティテゥーションに飾られた「百年前のアラバマの名も知れぬ黒人女性の作」であるキルトに深い感銘を受けたこと述べている。この「ぼろ切れの寄せ集め」を組み合わせたキリストのはりつけの図を表現した「創意」を見て彼女のいった言葉は次のようだ。
アラバマのこの「無名」の黒人女性を探し出せたら、きっと私たちの祖母だと気付くだろう―――手に入る端切れを使って、自分にできる範囲で、自分の存在を残していった芸術家である。(『母の庭』,訳p.219)
どんなに貧しい環境におかれても、出来るかぎりの手段で美を求め、生きた証を示そうとするこの伝統は、奴隷として連れてこられた黒人を経て今も黒人女性たちの中に息づいている。
黒人をアメリカに連れてこられて以来、ほとんどの時期、読み書きを禁止されていたのだから、黒人女性の創造力はいったいどうやって、生きのびたのであろう。絵を描く自由であれ、彫る自由であれ、手足を使って精神を養う自由はなかった。 (『母の庭』,訳、p.212)
この謎をウォーカーは身近な所から解明すると共に、この謎を解明したことでますます過去の人々との結びつきを強くし、それを多くの作品の普遍的テーマにまでした。その謎の糸口になったのは、彼女の多くの作品の女主人公のモデルだとウォーカー自身も言っている母親である。彼女の母親は、美術も文学も学びはしなかったのにどんな岩盤であろうとも色あざやかな草花を咲かせ、いきいきした話術で祖先や隣人たちのエピソードを蘇らせる「芸術家」であった。また、母親もウォーカーの幼少の頃使ったといわれ、"The Revenge of Hannah Kemhuff"の文中に出てくる、<ブードゥー>(注2)などの民間伝承など劣等視され迫害されてきたものもウォーカーにとってかけがえのない伝統である。この母親を通じてウォーカーは黒人の女達の創造力、そして黒人の女達が芸術家であることが創意と伝統を日常生活の一部として素朴に受け継いできたことで失われなかったことを知ったのだ。しかし、これらの工芸品や、技術、創造力などは、「文化遺産」におけるほんの一部の要素でしかない。なぜなら、ウォーカーの"whole"の概念にとってさらに重要なのは、そしてウォーカー自身、重視したのはそれらに伴う「共同体の精神」の「文化遺産」であるからだ。「共同体の精神」は、時には「連帯意識」という言い方で使われることもあるが、「文化遺産」と並んで河内氏をはじめとする多くのウォーカー研究者に使われている言葉である。
ウォーカーはあるエッセイのなかで、南部で成長すると黒人は白人を恐れることはあっても黒人を恐れることはなかった、と回想している。彼女は幼いころ、殺人罪の判決を受けた黒人の囚人たちとともに歩いたり遊んだりしたこともあった。黒人が共有するこの<同じ一つの命>という感覚、自分たちは何かの役割を果たしうる歴史と文化を所有する共同体の一部なのだという確信、これが南部黒人に不屈の闘争心を与えるひとつの理由になっているとウォーカーは考える。その遺産を構成するものは、歴史上の大いなる進展や創り出された手工芸品類よりも、むしろ人びとの互いに対する、若者の老人に対する、親が子に対する、男が女に対する関係なのであり、ウォーカーが
くり返し作品のなかで扱ってきたテーマはまさにそれなのである。(emphasis mine; Christian,訳pp.7-8)
これらの、<共同体>の概念を含む<文化遺産>は、なぜここまでウォーカーにとって重要なのか。なぜなら、それらは彼らの、彼女たちの苦難の歴史を映し出し、彼ら、彼女たちの独自の観点や価値観をとどめさせてくれるからである。そして、これらの価値を認めることはアメリカ社会の中で黒人であることの積極的な意味を求めることにつながるからなのだ。以上の様なことがウォーカーの追い求める究極の理想像であり、人々に一般的に考えられている彼女の"whole"の概念である。これは、彼女の作品に流れる一本の筋なのだと思われる。しかし、私は、このボーダーレス社会と言われる今、そして人種が入り混じり、性差がなくなると言われている今、「白人対黒人」という二項対立が成立することは不可能だと思うのだ。そして、ウォーカーのその白人性、黒人性の"ambivalence"と奇妙に関わると思われるウォーカーの短篇小説に触れながらウォーカーの中にその「二項対立」の不成立を証明していきたいと思う。
(注1) この"whole"の概念を意識的にとりあげ、特に強調している唯一の文献は、Donna Haisty Winchell の Alice Walker(1992)である。
(注2) ウォーカーは危険の伴う語と意識してか、あまりこの言葉を使わずに'Magic'とか'root working'などをその言葉にあてることが多いと、風呂本 惇子氏が指摘をしているが、そのことはこの結論であるウォーカーの白人性にも結びつくのではないか。