2022/01/04

「SF研究の現在」(『日本近代文学』第 78号、2008年 5月 15日)

SF研究の現在

巽孝之

1.最初の SF論争

古典 SF研究の権威・横田順弥によれば、日本における最初の SF論争は、明治二十三年(一八九〇年)に高名なジャーナリスト・矢野龍渓が刊行した『浮城物語』をめぐるものであったという(「書林探訪」、<日本経済新聞>一九九七年六月一五日付)。

矢野龍渓は一八五〇年大分県生まれで一九三一年に没したが、今日では時代に先駆けたマルチタレントぶりを評し「明治の不思議人間」とも呼ばれる。同い年の代表的文人には小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がいる。儒学・漢学に飽きたらず洋学に憧れた矢野は、福澤諭吉が開塾して十数年しか経っていない慶應義塾に入って教育を受け、のちに慶應義塾教師や新聞記者を務め、政治や宗教、文学、ジャーナリズムの歴史において大きな足跡を残した、明治を代表する百科全書派啓蒙主義者だ。以後、丸山真男から荒俣宏まで、矢野龍渓を礼賛する知識人・文化人は跡を絶たない。そんな彼が残したこの作品は、大分県出身の平凡な青年・上井清太郎が、ふたりの偉人傑士と出会って彼らを首領とする日本国籍を脱した一味に加わって、アフリカに新領土を獲得すべく冒険の旅に出て、海賊から戦艦を奪ったり蛮人と戦ったり、オランダ・イギリスの艦隊と戦ったりしながら、最後はジャワの側に立ちオランダからの独立を手助けしようとするという、手に汗握る一大海洋冒険活劇小説であった。それ以前に流行したジュール・ヴェルヌ作品『八十日間世界一周』や『月世界旅行』の翻訳ブームが下火になったため、代わって台頭してきた国産ユートピア小説の一種といってよく、グローバルな視点から SFや冒険小説の要素を巧みに取り込んだ内容は大いに人気を呼んだ。

はたして文豪・森鴎外や『十五少年漂流記』の翻訳で著名な森田思軒らは『浮城物語』を高く評価し好意的だったが、内田魯庵や石橋忍月らは人間の内面への洞察がない、すなわち人間が描けていないと猛攻撃。かくして『浮城物語』は、当時の第一線の文学者たちを巻き込んだ、日本最初の文学論争をもたらしている。野田秋生による伝記『矢野龍渓』(大分県教育委員会、一九九九年)によれば、その背後には、「文章は経国の大業」なる観念を引きずる島田三郎・巌本善治・尾崎行雄・徳富蘇峰らと、「小説は人間の内面の真相とその運命を写すもの」とする内田魯庵・石橋忍月らとのあいだですでに戦われていた「文学極衰論争」があり、まさにそんな時に『浮城物語』は内田・石橋側の絶好のターゲットとして出現した、というわけである。その結果、十年後の明治三十三年(一九〇〇年)には、日本 SFの祖・押川春浪の傑作SF『海底軍艦』が誕生、日本最初のSF黄金時代が到来する。

ここで肝心なのは、文学極衰論争が日本最初の SF論争を招き、その時のパターンがこれ以後、文学と SFの本質を語るときの類型を成したこと、ひいては文学ジャンルと SFジャンルとの関わりのみならず、文学研究と SF研究の関わりを考える時の大前提をも提供していたことである。

それから一世紀以上を経た現在、SFは文学的洗練を備え、文学はそんな SFをも当然の物語学的条件とふまえるようになった。それは、筒井康隆が『虚人たち』で、眉村卓が『消滅の光輪』でそれぞれ泉鏡花賞を取り、笙野頼子が「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞を、井上ひさしが『吉里吉里人』で日本 SF大賞を受け、さらにノーベル賞受賞作家・大江健三郎やドリス・レッシングらもそれぞれ『治療塔』や『シカスタ』といった SFを書いていることからも、一目瞭然だろう。最も本質的な文学論争から確実に新しい文学の創造へ至る構図は、すでに矢野龍渓を先駆とする初期 SF論争の段階から受け継がれた伝統といっても過言ではない。

2.日本 SF研究史

このような論争的主題のうちに日本における SF研究の起源を求めるならば戦後、一九五七年に日本初の SF同人誌<宇宙塵>が、一九五九年暮れに日本初の SF月刊誌<SFマガジン>がそれぞれ創刊され、一九六三年に日本 SF第一世代を中心とする日本 SF作家クラブが結成されてこのかた、何度となく前掲「文学極衰論争」が、いわば純文学対大衆文学の構図のうちに変型されては反復されてきたのも、当然のことだったろう。

ヒロシマ原爆投下による終戦から六〇年、そして現代日本 SFが歩き始めてから五〇年あまり。この歳月は、人類が米ソ冷戦という巨大な二項対立の渦中において、アポロ計画に象徴される宇宙開発計画の夢とともに、核戦争による全地球の滅亡可能性という危機的な悪夢をくぐり抜けた期間であり、ヴェトナム戦争からオイルショックへ至る時代、我が国ではまさしく激動の六〇年代高度成長期の時代に「未来」という名の掛け金がきわめて重要な意義を持ちながらも徐々に失効していく期間であり、そして冷戦解消という分岐点をはさみ新世紀を迎えるや否や、巨大な二項対立が封じ込めてきた無数の文化的対立群が、それ自体最も SF的に噴出するまでの期間であった。

したがって、そうした人類史上未曾有の相次ぐ危機を前に、ポー、ヴェルヌ、ウェルズを起源とした SFというジャンルがクラーク、アシモフ、ハインラインという御三家の代表する外宇宙から J・G・バラードらニューウェーヴ作家の代表する内宇宙へ、アーシュラ・K・ル=グィンらフェミニスト作家の代表する性差宇宙へ、そしてウィリアム・ギブスンらサイバーパンク作家の代表する電脳宇宙へと想像力を展開させ、さまざまな傑作を紡ぎ出してきたことは、すでに疑うべくもない。そしてそれは、当初こそ新興勢力であり絵空事扱いされてきたSFが、いまや良かれ悪しかれ現在世界のそこここへ「浸透と拡散」を遂げ、ジャンル的にも「変質と解体」を余儀なくされた半世紀に相当する。現代文学の最先端を見回す限り、SF的想像力と無縁のものを見出すほうが難しくなっている実状は、この半世紀にいかに SFジャンルが定着したか、現実と不可分のものとなったかを示すとともに、では核時代の到来や宇宙開発、インターネットの進展により世界全体が SF化してしまったらジャンル SFはいかにその独自性を発揮すべきか、という新たな問題を突きつける。そうした問題系より日本 SF第一世代から第三世代へ至る系譜、すなわち、小松左京や筒井康隆、福島正実や石川喬司、柴野拓美から山野浩一、荒巻義雄、笠井潔、永瀬唯、それに大原まり子まで、おびただしい SF作家・評論家・編集者たちのあいだで交わされた討論の詳細については、拙編著『日本 SF論争史』(勁草書房、二〇〇〇年)でも網羅したので省略させていただく。

いま肝心なのは、そのようにどちらかといえば<SFマガジン>など商業的ジャーナリズム先導で形成された SFジャンルが日本独自の研究制度を備えるのに、はたしてどのような経緯が必然となったか、そこにはどのような将来性が期待されるのか、という点である。

駆け足で整理するなら、日本における SF研究の発端は、やはり作家たちを中心とした定義論争に求められる。安部公房の「SF、この怪物的なるもの」にせよ、小松左京の「拝啓イワン・エフレーモフ様」にせよ例外ではなく、やがて石川喬司がこのジャンルに「日常性の衝撃」を期待するも、<宇宙塵>編集長・柴野拓美は SFを「人間理性の産物が人間理性を離れて自走することを意識した文学」、<SFマガジン>初代編集長・福島正実は「イマジネーションの文学の今日的な相」と好対照をなすSF観を提起し、眉村卓はコリン・ウィルソンのアウトサイダー芸術論に対抗する「インサイダー文学論」を、さらに山野浩一はバラードらの実験を中核とする思索小説の立場よりあくまで「 SFを原点とした主体的論理体系」を重視した。

一九七〇年代には荒巻義雄がハインライン再評価の立場よりこれをカントに根ざす「<術>の小説」と再定義し、大宮信光は人類史的視点より「『SF的意識』論」を展開、川又千秋はニューウェーヴとポップカルチュアを共振させる「夢の言葉、言葉の夢」を求め、筒井康隆はポスト思索小説の観点から世界的なメタフィクション系前衛文学の動きと共振する「超虚構小説理論」を完成する。やがて一九八〇年代に入るとマルクス葬送派・笠井潔がSFを「支配的修辞として科学を使う文学」と見て抜本的な再検討を加え、一九九〇年代にはサイボーグ・フェミニスト小谷真理がサイバーパンク以後の性差の政治学の視点から「女性状無意識」の理論を深化させている。

とりわけ小松左京『日本沈没』(一九七三年)のベストセラーからジョージ・ルーカス監督『スター・ウォーズ』(一九七七年)のメガヒットに至る歩みが生み出した七〇年代中葉から八〇年代中葉にかけての一大 SFブームは、便乗企画のみならず、文学におけるSF的想像力の本質を論究しようとする真面目で建設的な試みをも明るみに出す。英米においてはもともと大学でSFを研究し教授する学者研究者向けの学会組織 SFRA(Science Fiction Research Association [SF研究協会])が長い歴史を誇り、それは代表的 SF学術誌<エクストラポレーション><ファウンデーション><SFスタディーズ>によって支えられてきたが、同協会周辺がにわかに騒がしくなるのもやはりこのころ、正確にいうと一九八〇年前後。そう、SF研究の大御所ダルコ・スーヴィンやロバート・スコールズ、エリック・ラブキン、パトリック・パリンダーらが、マルクス主義や構造主義を摂取しつつ、軒並み重厚な SF研究書を世に問い始めたのだ、彼らの影響は甚大で、SFRA年次大会でも長年にわたる SF評論/研究功労賞としてピルグリム賞、年間最優秀論文を選定して表彰するパイオニア賞、年間最優秀書評を顕彰するメアリ・ケイ・ブレイ賞が授与されるようになった。

そんな風潮を反映したのか、我が国でも老舗の<SFマガジン>を初め、安部公房や三島由紀夫から賞賛された作家・山野浩一を編集長とするニューウェーヴ専門誌<季刊 NW-SF>(一九七〇年創刊)や曽根忠穂を編集長とする第二の月刊商業誌<奇想天外>(盛光社、一九七四年創刊)、菅原善雄を編集長とする第三の月刊商業誌<SFアドベンチャー>(徳間書店、一九七九年創刊)などのページを国内外問わず少なからぬ SF評論や研究が飾るようになった。また、一九六〇年代には翻訳家の伊藤典夫や野田昌宏による研究会として存在した「SFセミナー」が、一九七七年に神戸で海外 SF研究会が主催する単発のイベントとして規模拡大し、さらに八〇年を迎えて SF評論家・牧真司がこれを東京における年次大会シリーズ「SFセミナー」へ発展させ、今日に至るもゴールデンウィークの風物詩として続いている。このころには SF評論家・志賀隆生を編集長とする SF評論専門の季刊誌<SFの本>(新時代社、一九八二年創刊)も登場し、九号まで継続した。英米における前掲 SFRA(SF研究協会)や<SFスタディーズ>など SF研究の制度は、日本 SF独自の土壌向けに移植されたのである。

だが、いわゆる SFファンダム(ファンの世界)から登場した SF研究の伝統が根強いいっぽうで、じっさいのアカデミズムにおいてはどうであったか。

ここで、第一世代の草創期よりジャンル SFの言説空間を支えてきた石川喬司の役割を再評価しなければならない。彼は長年の評論・解説・時評活動をまとめた日本最初の SF評論集『SFの時代』(奇想天外社、一九七七年)をまとめ日本推理作家協会賞に輝いたのみならず、一九七九年四月から九月までの半年間、東京大学教養学部の一般教養のための総合コース「時間を巡る諸相」の一環として「文学と時間」なる講義を担当し、これが当時「大学で SFの講義が!」という驚きとともにジャーナリズムの話題を呼んだ。内容のほうも、一九七〇年に石川自身が主催者側・日本 SF作家クラブのメンバーとして関わった国際 SFシンポジウムにおけるブライアン・オールディスとの討議を中心に、ミヒャエル・エンデから解き起こして H・G・ウェルズやマルセル・プルースト、ジェイムズ・ジョイスやイタロ・カルヴィーノ、それにアレッホ・カルペンティエールから小松左京、半村良や山田正紀までを包括する幅広い視角より、SFと純文学の境界線を批判する批評的洞察もすでに打ち出しているから、まちがいなく今日の SF研究をもたらした基礎のひとつといってよい(村上陽一郎編『時間と人間』(東京大学出版会、一九八一年)所収)。

もっとも、大学における通年の SF授業と考えた場合に、ひとつ見逃してならないのは、同じ東京大学教養学部でイギリス・ロマン派を専門とする英文学者・由良君美が一九七五年のゼミで、前掲スコールズが出したばかりだった SF論『構造的造話作用』Structural Fabulationをテキストにし、それに沿った理論でゼミ生たちがチェスタトンやブラッドベリ、バラード、それに沼正三らに関する発表を行っていたことだろう(四方田犬彦『先生とわたし』[新潮社、二〇〇七年])。これは前掲石川喬司の単発 SF講義より四年早く、おそらくは我が国初のアカデミックな SF講座の栄誉を担う。その影響なのか、このころより由良自身と関わりの深いハイブラウな文学批評誌も、つぎつぎと SF特集を企画し始めた。まず<カイエ>一九七八年十二月号が<SFから現代文学へ>特集を、<ユリイカ>一九八〇年四月号が<SF>特集を、そして『国文学 解釈と教材の研究』一九八二年八月号が「現代文学・SFの衝撃」特集を組み、とくに『国文学』の特集号は『吉里吉里人』で第二回日本 SF大賞を受賞したばかりだった井上ひさしと由良自身の対談を掲載した。こうした経緯からだけでも、当時の SFブームが SF研究熱をも高揚させていたことがわかるだろう。

3.SFは地球をめぐる

それから四半世紀あまり、日本 SF研究をめぐる言説空間には、いくつか重要な変化が起こった。

ひとつのきっかけは、わたし自身が一九八四年から八七年まで北米はニューヨーク州イサカに位置するコーネル大学大学院に留学していた折も折、前掲<SFスタディーズ>の創設者ダルコ・スーヴィンやのちに SFRA会長になるエリザベス・アン・ハルら SF学者に出会って、北米の SFアカデミズムに参入するようになるとともに、前掲ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』をきっかけに沸き起こった時ならぬサイバーパンク・ブームの余波でギブスンの親友スティーヴ・ブラウンらとともにサイバーパンク系批評誌<SF アイ>の編集委員として創刊に立ち会ったことである。以後の SF研究がニューウェーヴ運動の再来ともいうべきサイバーパンク運動から刺激を受けたところが多かったのを見ると、わたしがこのころ経験した未知との遭遇は、個人的な偶然ながら歴史の必然だったのかもしれない。とりわけ、以後最大の共同研究者となるサンディエゴ州立大学教授ラリイ・マキャフリイとは一九九三年発表の共著論考「フィクションの先端理論めざして——メタフィクション、サイバーパンクからアヴァン・ポップへ」“Towards the Theoretical Frontiers ‘Fiction’: From Metafiction and Cyberpunk through Avant-Pop” で九四年に SFRAの第五回パイオニア賞を受け、続く九五年には彼の主要論考やインタビューを日本独自の視点より集大成した『アヴァン・ポップ』(筑摩書房、一九九五年;北星堂書店、二〇〇七年)を編纂したことは、以後のマキャフリイが SFをもその一環とする日米ポストモダン文学研究の要となるにさいして、重要な基礎を築いたはずである。    

もうひとつのきっかけは、とりわけ過去十年のあいだに我が国のマンガやアニメをめぐる興味が英語圏を中心に沸騰し、北米の日本学者たちの日本語能力が飛躍的に向上して、作品の翻訳はもちろん、日本SFに関する評論を中心とした雑誌特集やアンソロジーがぞくぞくと企画されるようになったことだ。<SFスタディーズ>二〇〇二年十一月号(通巻第八八号)は夢野久作の小説から押井守のアニメまでをカバーする「日本 SF」特集を組みたちまち売り切れとなったため、同特集号の共同編集にあたったわたしと若手日本学者クリストファー・ボルトン、同誌編集長イシュトヴァーン・チチェリイ=ローナイの三名は以後、同特集号をヴァージョンアップした単行本『ロボットの幽霊たち、接続された夢たち』Robot Ghosts, Wired Dreamsを編み、二〇〇七年十月にはミネソタ大学出版局より刊行した。折しもこの年二〇〇七年には、四月二十九日に紀伊國屋書店主催・岩波書店『文学』編集部協賛によるシンポジウム「人類にとって文学とは何か」(出演・小松左京、瀬名秀明、スーザン・ネイピア、筆者)が行われ、それをもとに同『文学』二〇〇七年七・八月号が SF特集号を組んだ。同年八月末から九月初旬にかけては、第四六回日本 SF大会を兼ねた第六五回ワールドコン<NIPPON2007>がパシフィコ横浜で開かれ、上記『ロボットの幽霊たち』の寄稿者たちも「SF研究、SF教育」ほかのパネにル参加し、大いに盛り上がりを見せた。彼ら SF研究をも一環とする欧米圏の新進日本学者たちは、二〇〇六年よりミネソタ大学出版局を根城に刊行され始めた日本の SFやマンガ、アニメなどポップカルチュア中心の年刊研究誌<メカデミア>でも、健筆をふるっている。

かつて中島梓はロバート・スコールズ&エリック・ラブキンの共著『SF—その歴史とヴィジョン』(一九七七年)のの邦訳版の書評(<SFマガジン>一九八一年四月号)で、同書の中に日本 SFへの言及がひとつもないことに深刻な焦りを表明した。それから四半世紀以上が経ち、いまや北米を中心とする世界 SF大会で日本 SFやマンガ、アニメをめぐるパネルが組まれない年はなく、北米の SF評論誌では日本人作家や評論家への言及がひっきりなしにくりかえされている。論者の大半は、英訳を待つことなく、安部公房から筒井康隆、ひいては斎藤環に至る言説を原著で読み、引用するようになっている。日本語で書く限り、孤独であり続ける時代は終わったのだ。

このように日本 SFという文学サブジャンルそのものが、文化研究の勃興とともにグローバルな視点で評価される時代に入った現在、その新しい基準を模索すべき時代が到来した。わたし自身は、本務校である慶應義塾大学では一九八八年、日吉の一般教養課程にて SF講義を行ったのみだが、それ以外では、二〇〇五年と今年二〇〇八年、東京大学文学部西洋近代語近代文学専修課程講義として「SF——そのジャンルと批評」を担当している。通年科目の定番として設置されているのは、いまの日本では前掲小谷真理が二〇〇〇年より白百合女子大学文学部児童文化学科で十年近く継続講義している「SFファンタジー概論」のみかもしれない。また二〇〇六年十月の日本アメリカ文学会全国大会や二〇〇七年十一月の日本比較文学会中部支部大会では、椙山女学院大学准教授の長澤唯史氏を中心に SFのワークショップやシンポジウムが行われた。アカデミックな SF研究は北米では広く行われているが、我が国ではようやく大学レベルで定着しつつある。

いっぽう、忘れてならないのは、二〇〇五年には日本 SF作家クラブが立ち上げ、<SFマガジン>が舞台を提供する新たな文学賞・日本 SF評論賞が、三年のうちで新進気鋭の SF研究家・評論家・横道仁志や海老原豊、磯部剛喜、宮野由里香らをぞくぞくと送り出したことだろう。折しも二〇〇七年の世界 SF大会の余波で、過去の SF批評史・研究史で貢献のあったニューウェーヴ作家・山野浩一や荒巻義雄が新たな研究組織「スペキュラティヴ・ジャパン」を結成し、新たな方向を示し始めている。SFプロダム、ファンダム、それにアカデミズムが融合したかたちの SF研究が登場するのも、さほど遠くない未来かもしれない。

『日本近代文学』第 78号 2008年 5月 15日