2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:FGR

博報堂『広告』1999年3-4月号
(悪趣味特集) 

1.ブームの履歴書

悪趣味文化の源流を考えるとき、童話というジャンルを見逃すわけにはいかない。
なるほど、童話に清く正しく美しい物語を求める向きは、いまもなお根強いだろう。しかし、たとえば現代アメリカ文学を代表する重厚なる魔術的リアリズム作家スティーヴ・エリクソンが、意外にもライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』(一九〇〇年)をいまでも愛読し、その本質的魅力を同作品に潜む「とてつもなく暗いイメージ」に求めたとき、彼はまさしく、個人的な趣味をつまびらかにするとともに−−知ってか知らずか−−童話という名の悪趣味文化を最も力強く再評価したのだといってよい。というのも、ドイツの文化史家カール・ハインツ・マレが一九八五年に発表した『首をはねろ!−−メルヘンの中の暴力』(小川真一訳・みすず書房、一九八九年)でも詳述しているように、もともと一九世紀ドイツの言語学者グリム兄弟が収集した膨大なメルヘン群には悪漢や魔女、盗賊、殺人者たちが悪逆非道のかぎりを尽くす「暗いイメージ」がみちあふれ、まさにそれだけで圧倒的迫力を生んでいたにもかかわらず、以後、とりわけ弟のヴィルヘルム・グリムが小市民的価値基準に照らして大幅な改変を加え、仮に暴力的場面を残す場合でも何らかの道徳的因果関係を、いってみればのちにハリウッド好みとなる勧善懲悪指向を巧妙に刷り込んだのだった。かくしてマレは、ジャンルとしての童話がまず、教育上よろしくない部分をあらかじめ消毒し削除した教訓的物語として成立したことを暴き出す。
この点は、ミネソタ大学ドイツ文学教授ジャック・ザイプスが一九九四年に出版した『おとぎ話が神話になるとき』(吉田純子・阿部美春共訳、紀伊國屋書店、一九九九年)においても、以下のように再確認される。「十九世紀に子ども向けに書かれたおとぎ話の形式と構造は、子どもの心に不適切な思いや考えをかきたてないように、周到にコントロールされていた。この時期、子ども向けに古典的なおとぎ話や人気の高いおとぎ話を書いた主要作家たちをよく観察してみると、子どものために物語を構想したり書くにあたって、彼ら自らが検閲を行い規制をしていたのは明らかである」(三六頁)。したがって、今日でも童話に接する読者がその暴力性をさほど気にしないとすれば、それはまさしくグリム以後の脚色をあまりにも素直に受け入れてしまっているためである。
したがって昨今、おそらくはグリム的家父長制倫理の限界を見抜いたであろう才能豊かな女性作家たちが、あいついで童話が秘める残虐性をむしろ暴露し誇張しようとするリメイクに手を染めるようになったのは、ごく当然の成り行きだった。とくに前掲マレの『首をはねろ!』が出版されたのと同じ一九八〇年代半ば、倉橋由美子が「人魚姫」から「かぐや姫」におよぶ古今東西のテクストを切り刻んだ『大人のための残酷童話』(一九八四年)を出版し、アメリカ作家アン・ライスがA・N・ロクロール名義で名作童話をSM風にポルノ化してしまった『眠り姫』三部作(一九八三〜八五年)を書き継いでいたのは、たんなる偶然の一致と片づけるには重要にすぎる。

こうした童話脱構築の傾向は九〇年代に入ってますます拍車がかかり、ほとんどメタ童話ブームといった観を呈するようになった。ジェフ・ライマンが『オズの魔法使い』をトマス・ハーディ風のリアリズムで書き直した小説『夢の終りに…』(一九九二)はいうまでもなく、ポール・マコーリイがナノテク・ロボットの自走した結果、あたかも妖精女王の王国ともみまがうようになる近未来を描いた長編『フェアリイ・ランド』(一九九五)やマイケル・コーン監督が『白雪姫』を母娘関係を中心にホラー仕立てにした映画『スノーホワイト』(一九九六)、はたまたわが国においても、松本侑子の活躍はいうまでもなく、宗田理が高度情報社会をターゲットにしたエンタテインメント『ぼくらのグリム・ファイル探検』(一九九八)や向山貴彦が聖書神話をベースに妖精たちによるまったく新しい世界の終末を構想した『童話物語』(一九九九)に至るまで、枚挙にいとまがない。


2.すでにキレていたグリム童話

ブームのゆえんをさぐるのは困難だが、ここでとりあえず思い出しておきたいのは、少なくとも一九八〇年代末から九〇年代前半にかけて、いわゆる多文化主義がピークをきわめ「政治的正義」(ポリティカル・コレクトネス)が強調されるようになったため、文学作品における差別表現がつぎつぎと「言葉狩り」に遭い、それは童話も例外ではなかったことだ。
とりわけ「白雪姫」には、白人優位思想と黒人蔑視、魔女に仮託した女性差別・老人差別が色濃いということでわが国では糾弾されたが、他方、九二年には、漁師に猪の内臓を取ってこさせ妃に食べさせる場面が残虐すぎるという批判がアメリカから出て、それがさらにイタリアから再批判されるという国際論争にまで発展している。イタリアの新聞<レプブリカ>紙は「子どもは童話の世界で恐怖感を持ちながら成長していく権利がある」といい、<コリエーレ・デラ・セラ>紙は「幼時に童話を奪われて育った子どもは、成長して子どもじみた行動をする」というフロイトやユングの説を紹介し、「子どもは童話の中で善悪を見分けるだけの能力がある」と結論した。さらにイタリアのテレビも「『白雪姫』を禁止するアメリカのほうこそ、毎年何十万人もの人が殺されているではないか」と皮肉ってみせたものだ(「『白雪姫』『浦島太郎』は差別童話か」、<週刊文春>一九九四年二月一七日号、四四〜五三頁)。
してみると、九〇年前後には童話の物心両面における暴力性や差別意識を弾劾する言説が噴出していたのであり、九〇年代末の今日になって、暴力性をむしろ全面に押し出したメタ童話がブームをまきおこしているのは、反動としても奇妙に見える。あれだけ忌避された童話の残虐非道は、いつのまにか解禁になっていたというわけか。だとすれば、この間、いったいどのような変化が起こったのか。
ここでごく自然に想起されるのは、一九九七年七月に日本全国を騒がせた一四歳の少年・酒鬼薔薇聖斗(少年A)による「須麿区少年殺人事件」と続くバタフライ・ナイフによる「中学一年生女性教師刺殺事件」が、たちまち「キレやすい中学生」像を露呈させたことである。それら一連の少年非行と、そうした少年たちを培ったかもしれぬ「すでにキレていたグリム童話」再評価とは、おそらく現代文化の深層において密接に連動した社会現象であろう。むろん、子ども文化としての童話を理解しさえすれば、必ず少年Aの心理をも理解できるようになるという保証は、どこにもない。事態はまったく逆で、今日の現実社会に蔓延する暴力があまりにも非現実的であるために、それこそ限りなく童話の残虐性へ肉薄しかねないということだ。童話が現実へ悪影響を及ぼしているというよりも、むしろ現実が童話を貪り食っているのである。
げんに『眠れる森の美女』ひとつをとっても、現実の暴力的強姦を想定するリメイクが何と多いことか。前掲アン・ライスの『眠り姫』ではヒロインが王子にキスどころかレイプされることで目を覚ますわけだし、桐生操のベストセラー『本当は恐ろしいグリム童話』(一九九八)では、そもそも眠り姫が百年の眠りについたゆえんというのが、じつは見も知らぬ男にレイプされたからだということになっている。もっと手の込んだものでは、ダニエル・キイスが『眠れる森の美女』にもとづき、ひとつの殺人事件の裏に高度な催眠療法が介在していたことを物語った長編『眠り姫』(九八)をあげることができるが、わが国でも先頃、その流れを汲む野沢尚が同じ素材を料理したテレビドラマ『眠れる森』(九八)でヒットを飛ばした。一見人畜無害な『眠り姫』のナラティヴでさえ、わたしたちのあずかり知らぬうちに現実の最深部に潜り込み、いつしかその暴力的可能性を爆発させるかもしれない。


3.趣味 をめぐる逆説

もっとも、わたし自身の場合、初めて強烈に刷り込まれた「童話」が、幼いころに観たシャルル・ペロー原作、ウォルト・ディズニー製作のアニメーション『眠れる森の美女』(一九五八年)だったから、それのみでも十二分に残虐な印象をうけている。このヴァージョンでは物語のクライマックスで、オーロラ姫を助けようとするフィリップ王子を、悪い魔女が火を吐く竜へ変身してじわじわと追いつめていくのだが、その漆黒にうねる巨大な竜のすがたが怖くて怖くて、劇場内で泣き出してしまった記憶があるからだ。たぶんその時のわたしは、王子よりも姫のほうへ感情移入していたのにちがいない。
ところが、それがひとつの通過儀礼になったのだろうか、そのあと少年向け世界文学全集でコナン・ドイルの『失われた世界』(一九一二年)を読んでステゴザウルスやプテラノドンなど異形の恐竜がぞくぞく現代に甦る設定にわくわくし、のちにテレビの『ウルトラQ』をはじめとする怪獣映画シリーズの大ファンになってしまうのだから、まったく人間の趣味というのはわからない。ディズニー・アニメの華麗なる映像に秘められた竜があれだけ怖かったのに、円谷特撮の禍々しい映像から飛び出す恐竜もどきには胸のすく思いがしたのである。たぶんその時のわたしは姫でもなければ科学特捜隊の紅一点でもない、文字どおりの巨大なる異形のほうへ感情移入していたのにちがいない。
綺麗で上品なアニメから醜悪で下品なSFXへ、わたしの趣味が転向したのだろうか。いや、必ずしもそんな単純なシナリオではあるまい。『眠れる森の美女』の巨竜はたしかに恐ろしかったが、しかしまさしくそうした恐怖でしか表現できない蠱惑が世の中にあるのをその時知ったのもまた、事実なのだから。少年時代のわたしは、おそらくあのような竜を見たのが初めてだったがゆえに自動的に怯えてしまったが、しかしまったく同時に心の底では、あの漆黒の威容に対して強く惹かれていたのかもしれない。わたしたちの趣味はたえず悪趣味へ、悪趣味はたえず趣味一般へ反転する可能性を隠し持つ。見目麗しき妖精が妖精たりうるのは、いつそれが本質的な悪の権化へ変貌しないとも限らないからだ。その意味で、一九八〇年代からいまに至るも書き継がれている三浦建太郎の傑作まんが『ベルセルク』(八八年—)は怪物が妖精を擬態し、世にも美しき青年戦士グリフィスが死の果てに奇怪なる魔物として再生するという、童話的にして怪獣映画的、アニメ的にしてSFX的な稀有の物語であった。それが現在、圧倒的なリアリティを醸し出すのは、わたしたちの暮らす怪物的現実が文字どおり童話的悪趣味によって縁取られているためである。

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