2000/02/23

Miscellaneous Works:解説・評論・講義:娘

『三田文学』2000年夏号
学生小説コレクション
千木良悠子「猫殺しマギー」
アヴァンポップの娘
巽孝之

本塾英米文学専攻へ、純粋な外国文学研究の動機を抱いて入ってくる向きは、必ずしも多くない。専攻上の宿命か、最大の志望動機は、やはり英語そのものなのだ。

ところが、昨年一九九九年四月に新三年生としてゼミに入ってきた千木良悠子君にとっては、高校時代からの最大の愛読書のひとつが、一九九五年に畏友ラリイ・マキャフリイが著しわたしが編訳した最先端芸術論『アヴァン・ポップ』(筑摩書房、一九九五年)だったと聞き、少なからず驚いたものである。もちろん、英米文学専攻には必修の「米文学史I」があり、彼女は2年生対象の選択必修「原典購読」でもわたしのクラスを選んだから、顔と名前は一致していた。ウィリアム・フォークナーの短編「エミリーの薔薇」を精読した発表は、テクスト内部へ果敢に入り込みその世界観を明快に図表化してみせるものだった。学生には基本的に点数を取り成績を向上させようとする上昇指向と、文化に関わり新しいものを創造しようとする表現指向のふたつがあるが、千木良君が後者であるのは、あらかじめよくわかっていた。しかし、いざゼミ員となった彼女によくよく確かめてみれば、中学・高校時代より夢野久作や橋本治、カート・ヴォネガットやジョン・バースを愛読し、演劇部では寺山修司や野田秀樹原作の舞台を踏み、ヌーヴェルヴァーグやヴィジュアル系 Jポップにハマり少女マンガも描くという、多才なる自称「オリーブ少女」だったというではないか。そんな千木良君が、高度資本主義によって全世界が映画スタジオ化してしまい前衛と通俗の境界すら危うくなった現代独自の美的想像力「アヴァン・ポップ」にことのほか惹かれたというのは、ごく当然の道筋だったろう。

その結果、彼女は目下、リチャード・ブローティガンを主題に卒論を作成するかたわら、新人女優として今年二月にはブリガドーンによる舞台「セックスはなぜ楽しいのか?」で快優・手塚とおるを相手に一歩も譲らず、続く三月には劇団「指輪ホテル」による舞台「祈りはたらけ」でも躍動感あふれる演技を見せた。

ここにお届けした「猫殺しマギー」は、そんな彼女がゼミ雑誌〈パニック・アメリカーナ〉第4号(一九九九年一二月発行)に発表した初めての小説である。

「俺の名前は猫殺しマギー。でも、猫は殺さない。」

何とも蠱惑的なこの書き出しを発想したこと自体によって、書き手はとうに勝利を収めたといってよい。いかにもポストモダン小説にありがちな軽い文体のように受け取られるかもしれないし、奇怪なネーミングという点では彼女の敬愛する高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』がたちまち連想されるかもしれないが、しかし冒頭から飛ばしまくる作者は、語り手を通していかに本作品の中心人物「ドクター」が生物・無生物を問わず森羅万象何とでも性交しまくるモンスターであるかを強調していく。語り手本人がスズランと交わりながら、彼女の肉体をめくり心をめくり、その中を走っている地下鉄日比谷線に乗り込み八丁堀へ行くことにしたというあたりは、ロジックの暴走がエロティックな幻想を巧みに導き出して成功を収めた実例だろう。しかもクライマックスでは、金魚の体液によってマギーとスズランが融合し、「俺たち」という名のもうひとつの巨大なモンスターと化す。マーク・レイナーを代表とするアヴァン・ポップ文学において変幻自在な世界観というのはほとんど定番だが、にもかかわらずそれをベースに変幻自在な描写力をフル回転させ、世界全体を無差別に呑みこんでしまうこの短編には、とうてい小品とは思えぬ巨大な可能性が脈打つ。

そのヒントとなるかもしれないのが、昨年一九九九年、わたしの学部向け批評理論の講議「米文学 A」の前期レポートで、千木良君が前掲『アヴァン・ポップ』を取り上げ、以下のような所感を述べていたことだろう。

「わたしたちはもうすでに、皮膚も血液も人工物でできたサイボーグたちなのかもしれないけれども、ヴェルヴェットをきき、ヒューマニティとテクノロジーの関係について絶え間ない探索を続けていくことで、頭も神経もゴムかなにかでできた完全なロボットになってしまったその日でさえも、ユーモアとインテリジェンスを深く愛し、“Sister Ray” に恍惚をおぼえ、“I'll Be Your Mirror” に涙を流す、センチメンタルで健康な機械して元気に生きていくことができるだろう」

人間-機械共生系をすでに理屈抜きで「呼吸して」しまう最新世代が、ここにとうとう登場した。

演劇から小説、そして少女マンガに至るまで幅広い関心をもつ千木良君だが、しかしいずれのジャンルに進出しても、彼女は自分をも一部とする世界を貪欲に咀嚼し、それをまるごと新しい風味に再調理してやまないだろうことを、わたしは確信している。